13 陰界の後宮へ
泰山堂の本堂の前に来ると、戸口は閉じられている。その両脇には、対聯と呼ばれる縁起のいい対句が記された札がかかっている。
俊輝が魅音を見下ろした。
「それでは魅音、頼んだぞ」
「はーい、行ってきます」
「無理はするなよ、昂宇が助かってもお前に何かあったら意味がない。今度は昂宇と俺が助けに行くことになるだろうからな」
「それって、皇帝を駆り出すなよっていう脅しですか?」
魅音は笑って肩をすくめてから、戸口に向き直った。
「それじゃあ、泰山娘娘! お願いします!」
魅音が声を上げると、目の前で対聯の文字が、じわりと滲んだ。泰山娘娘によって、呪文に変化していくのだ。
『陽界の後宮から、陰界の後宮へ。道が繋がりました』
娘娘の声が、重々しく告げた。
『胡魅音、くれぐれも気をつけるように。……あっ』
急に、声の調子がコロッと変わる。
『そうそう! 西王母様には、きちんとご挨拶するんですよ。手絹は持った? お茶やお菓子を出されてもガッつかないで遠慮しなさいね! それから――』
「娘娘、わかりましたからっ。とにかく行ってきます!」
魅音は、ギッ、と音を立てて戸を押し開けると、中へと踏み込んだ。
一瞬、キーンと耳鳴りがして、何か薄い膜のようなものを通り抜けた気がした。
「……あれっ。外?」
魅音と笙鈴は立ち止まり、あたりを見回す。
小さな堂に入ったはずが、逆に堂から外に出ていたのだ。前院を壁が囲んでおり、振り向くと泰山堂である。
しかし、前院にたった今いたはずの俊輝はいない。
陰界に入ったのだ。そして、陽界とは雰囲気が一変していた。
さっきまで晩秋の冷たい空気が満ちていたが、ここは妙に生暖かい。沿階草の葉が風に揺れているのだが、その動きは奇妙にゆっくりで、まるで何匹もの小さな蛇がいっせいに首をもたげているかのようだ。空には、紫の霞がたなびいている。
「西王母様は、どこにいらっしゃるのかしら。それに昂宇も。笙鈴、あなたの霊感で、何か感じる?」
魅音が聞いてみると、笙鈴は困った顔をしている。
「それが……ここに来たとたん、身体中が霊力に包まれてしまっています。まるで、建物も木々も、すべてが霊力を発しているみたいです」
「あぁー、じゃあ逆にわからないってわけね」
おそらく、西王母によって『写された』後宮は、西王母の霊力によってできているのだ。その状態では、本体(?)を探すのは難しいだろう。
笙鈴は、
「お役に立てず、申し訳ありません」
としょんぼりしている。
「いいのいいの。とにかく、堂を出てみようか」
大門であろう戸を押し開け、敷地から出る。
陽界と同様に、下る石段があった。が、階段の上から見る景色は一変していた。
少し降りたところから先が、薄紫の靄で埋め尽くされている。まるで雲海だ。そして島のように、あちらこちらに瓦屋根が頭を覗かせている。
「後宮の殿舎よね、あれ」
魅音が言うと、笙鈴が不安そうにつぶやく。
「ここを下りたら、ちゃんとあそこまで歩いて行けるのでしょうか……」
「んー。……笙鈴」
「はい」
「はぐれると危ないから、私たちを糸で結べる?」
「あ、はい! かしこまりました」
笙鈴は右の袖をまくり、杼と糸巻きを露わにした。左手で何かつまんで引く動作をすると、きらり、と何本かの糸が宙を泳ぐ。
その糸は、魅音の腰のあたりと、小丸の首のあたりに飛んでいき、そして見えなくなった。
「繋ぎました」
「ありがと。よし、行こう」
ゆっくりと、足元を確かめながら石段を下りていく。両側にはやはり、沿階草が不気味に揺れている。
そろそろ下までたどり着く、と思った時、不意に靄が晴れて視界が開けた。
「……あれ?」
魅音は目をぱちくりさせた。
彼女たちはいつの間にか、どこかの宮の廊下に立っていたのだ。
「ここは……あっ」
目の前に、大きな絵が飾られている。犀の角で作られた、杯の絵だ。
それには見覚えがあった。
「角杯宮だ」
赤い欄干の廊下の先に、部屋の入口が見えた。魅音たちは近づき、開かれた戸口から中を覗き込む。
部屋の中には、何頭もの動物の姿があった。
剥製だ。
戸口の両脇には狼が二頭、門番のようにすっくと立ち、侵入者を見張っている。屏風の上には鶏がいて、黒く艶やかな尾が床に長々と垂れていた。隣の部屋との仕切りには丸窓が開き、立派な角を持った鹿の頭が覗いている。
足元に虎の剥製が寝そべってこちらを見ており、そのすぐ脇の卓子に虎を従えるようにして、小柄な誰かがちょこんと腰かけていた。
その人物は、魅音たちを見て、にっこりと笑う。
「いらっしゃい!」
無邪気な笑顔、明るい声。陽界では角杯宮の主である、『嬪』の妃。
「て、天雪⁉」
「あら、私のこと、ご存知なの?」
白天雪にしか見えないその妃は、嬉しそうに立ち上がった。その動きはどこかふわふわしていて、魅音はすぐに気づく。
(生身の人間じゃないわ。天雪の魂でもない。幻影?)
【天雪】は、両手を開いて袖を揺らした。
「私、気がついたらここにいたものだから、自分が白天雪だということしか覚えていないの。あなた、私とお知り合いなのね?」
「え、ええ、まあ」
ひょっとして名前を口にするのはまずかったか、と魅音はヒヤリとしたけれど、【天雪】からは邪悪な気配は感じない。本当に彼女そのもののように、ぽやぽやした笑顔と仕草だ。
(もしかして、西王母は陰界に後宮を作る時、陽界の後宮にいる人物までも鏡写しに作った? だから、天雪にそっくりな、この『何か』がいるんじゃないかしら)
魅音が考えていると、【天雪】が尋ねてくる。
「あなた、お名前は?」
「魅音だけど。……あ、えっと、青鸞王妃の魅音です」
つい、天雪相手にするように砕けたしゃべり方をしそうになる。
「青鸞王……ごめんなさい、私は存じ上げないわ。でもいいの」
【天雪】は手招きをした。
「魅音、こちらにいらして! 三棋っていう遊技盤があるの、一緒に遊びましょう」
ただの写しである彼女は、陽界の位階のことまでは知らないようだ。しかしとにかく、一緒に遊びたがるところまでそっくりである。
「ごめんなさい天雪、私、ちょっと急いでいて」
断っても大丈夫なのか、様子を窺いつつも、魅音はズバリと尋ねた。
「私、西王母様に用があって来たの。どこにいらっしゃるか、知ってる?」
「え、さあ……今、どちらかしらね」
【天雪】は、きょとんとした表情で首を傾げる。
そして、続けた。
「でも、西王母様がここにいらしたら、この先にお通しするわ」
「この先?」
「そうよ。西王母様は、後宮の奥でゆっくり過ごされるの」
大きくうなずく天雪に、魅音はさらに尋ねた。
「じゃあ私たち、先に行って奥でお待ちしようと思うんだけど、通してもらえる?」
すると、天雪は再び、にっこりと微笑んだ。
「まあ魅音、それはダメ。だって、私たち妃は、他の誰かが来たら足止めするように言われているんだもの」
彼女が言い終わったとたん。
ぐらっ、と、部屋の奥で何かが動いた。黒い、毛むくじゃらの、大きなもの。
熊だ。後ろ足で立ち上がった形で剥製になっていた熊が、ゆっくりと動き出し、前足を床についたのだ。




