9 泰山娘娘は狐仙の味方
後宮の北東には、冬も緑の沿階草が低く茂り、樹海さながらに広がっている。
そしてその中に、泰山に見立てられた山、いわば小泰山があった。
夕闇に沈みつつある正面の階段を上っていくと、両脇に等間隔に点された灯籠の灯りが、まるで怯えるかのように小さく揺れている。
上り切ったところに、朱色の壁の堂があった。立派な門の瓦屋根の下に、『泰山堂』という額がかかっている。
「俺は、ここに来るのは初めてだ」
俊輝が額を見上げ、魅音もつられるように見上げた。
「まぁ、後宮の女性たちのために建てられていますしね。入ってみましょう」
二人は、開いていた戸から中に入った。奥に祭壇があり、色鮮やかに塗られた女性の木像が、こちらを見下ろしている。
泰山娘娘である。
二人は木像の前で膝をつき、両手を重ねて頭を垂れ、まずは祈りを捧げた。
「……さて、魅音。どのようにしたらいい?」
立ち上がった俊輝が聞くと、魅音はあっさりと答える。
「普通に、呼びかけます」
両手を筒の形にして口元にあてた彼女は、声を張り上げた。
「娘娘! 魅音ですー! 泰山娘娘!」
少しの間、堂の中は静まりかえる。
やがて。
『魅音っ⁉』
桃色の霧がブワッと膨らんだ、と思うと弾け、木像の前にふくよかな女性の姿が現れた。半分透けているが、垂れ目の表情豊かな顔ははっきりと見える。
『まあまあ、魅音、元気そうじゃないの! まったくあんたって子は、人間に生まれ変わってから全然連絡してこないんだから!』
しもぶくれの頬をさらにプリプリと膨らませ、その女性は両手を腰に当てた。魅音は両手を合わせる。
「ごめんなさーい、えへへ。あ、娘娘、こちらは照帝国皇帝の俊輝様」
『あらあらこれはこれは、陽界の皇帝陛下!』
女性は両手を重ねて礼をする。
『うちの魅音がお世話になって! ご迷惑おかけしてませんか⁉』
「…………あ、王俊輝と申します。いや、こちらこそ世話になっていて」
返事に困りながら、俊輝も礼をした。
(何だか、帰郷する友人に同行して母上殿に挨拶してるみたいだ。いや、母同然とは聞いていたが程があるというか)
その泰山娘娘の後ろから、数匹の茶色の狐たちが姿を現した。魅音を目に留めると、まるで踊るように飛び跳ね、キュウン! キャンキャン! と楽しそうな鳴き声を上げる。
『こらこら、あんたたちは試験勉強中でしょ! 集中! あっちに行ってなさい!』
娘娘のお叱りに全くめげない狐たちはますます騒ぎ、娘娘は『魅音、ちょっと待ってて!』とてんやわんやの様子だ。
魅音は「加油ー!」などと手を振っている。
「試験勉強?」
俊輝が魅音に聞くと、魅音はうなずいた。
「今年は、六十年に一度の狐仙試験の年なんです。泰山娘娘が試験官として実施して下さるんですが、合格してやっと、狐仙修行を始められるんですよ」
当然、俊輝には初耳の話である。
「六十年に一度しかないのか。よほど運がいいか、長生きするかしないと、まず試験を受けられないな」
「です。まずはそれで篩にかけられるわけですね」
運も含め、普通の狐では狐仙になれない、ということらしい。
「ちなみに、どんな修行をするんだ?」
「まず最初は、鳥語です」
「鳥語」
「はい。鳥語を習得してからじゃないと、人間語は教えてもらえないんです」
「……俺には理解の及ばない規定があるんだろうな……」
俊輝が素直に感心していると、泰山娘娘が戻ってきた。
『はー、待たせてごめんなさいね。やれやれ、ホント騒がしいったら。……それで? 何があったの?』
彼女は、軽く首を傾げる。
『気にはなっていたのですよ。後宮の名簿に、魅音の名が記されたので』
陽界では皇帝、陰界では天帝を頂点として、同じような官僚機構がある。魅音も俊輝の後宮の宮女となり、陽界の階級の一つに収まったことになる。
二つの世界は見えないながらも重なり合っているため、神仙はそれを把握しているのだ。
「お気づきでしたか。実は……」
魅音と俊輝は代わる代わる、現在の状況を説明した。
『それで西王母様にお会いしたいのね。なるほど』
泰山娘娘は、片頬に手を当てて考え込む。
『でも、私のように、呼び出せば会えるというものではありません。まずは土地神などの神に願い出て、そこから上へ、上へと取り次いでもらうことになります』
「わーん、そんなところまでこっちの宮廷と同じー!」
『それに魅音、そもそもあなたの今の身分では、会っていただけないでしょうねぇ』
つい最近、魅音の身分を上げないと俊輝の妃になれない、というような話をしたばかりだ。俊輝が尋ねる。
「陰界でも、陽界での身分は重要視されるのだろうか?」
『陽界で偉くなるのも、陰界で偉くなるのも、同じくらい重みのあることです。表裏一体の世界ですから、陰界でも同じように尊重されますよ、陛下』
泰山娘娘はその言葉通り、俊輝を『陛下』と呼んでいる。
「なるほど。だから魅音も俺には丁寧な口を利くんだな。一応」
俊輝が横目で魅音を見下ろすと、魅音は意外そうに答えた。
「一応ぉ? すっごく尊重してるつもりなんですけど」
「どうだかな」
そんな二人を面白そうに見つめながら、泰山娘娘が天を指すように指を一本立てた。
『要するに、魅音が陽界で高い身分になれば、西王母様に会える可能性は高まる。そういうことですね』
「じゃあ結局、翼飛様に養女にしていただいて陛下の妃になった方が、話は早かったってことですか。なら仕方ありませんね。陛下、よろしくお願いします!」
魅音はスッパリ切り替えて、頭を下げる。
俊輝は腕組みをした。
「……俺はいいんだが、今度こそ正式に妃、となると、昂宇が戻ってきた時に悲しむかもしれないぞ」
「え、何で悲しむんです? 昂宇が文に書いた通りにしようとしてるのに」
男心(人間の)がわからない魅音が無神経なことを言っていると、不意に「カァ、カァ」という声がした。
陰界にいる泰山娘娘の肩に、一羽の烏が舞い降りる。再びカァと小さく鳴き、娘娘の耳元で何か話しているようだ。
『ん? ……おやおや?』
泰山娘娘が、目を丸くした。
『待ってちょうだい、魅音。鳥情報網で伝わってきたんだけど、西王母様は今、冥界にはいらっしゃらないんですって』
「えー⁉」
魅音はあわてる。
「じゃあ、どちらに⁉ 昂宇は一緒なんでしょうか⁉ 居場所をどうやって突き止めれば」
『違うの違うの、居場所はわかってるの』
娘娘が両手を振る。
『魅音、あなたがいる後宮の真裏に、西王母様と難昂宇はいるみたいよ』
「真裏……?」
顔を見合わせる魅音と俊輝に、泰山娘娘はうなずく。
『西王母様はどうやら、陰界に後宮をお作りになったらしいわ。陽界の後宮を鏡写しにして、そこのすぐ裏側に』




