5 絶対バレない仮病
正直、皇帝の俊輝が来ないのであれば、ここでの生活はとても楽しいものだった。
四人で学ぶ『妃としての教養』は、魅音にとってはだいぶ生ぬるかったけれど、青霞や天雪とは葉子牌で遊んだり散歩したりすることもできたし、食事はとにかく豊富で味も絶品である。
(でも、皇帝とは関わらずに一生を送りたいし、やっぱり老師のもっと難しいお話が聞きたい。お嬢さんも待ってるしね!)
早く帰りたい、と思いながら散歩していると、一緒に歩いていた青霞が前方を指さした。
「あそこに、ちらっと森が見えているでしょ」
殿舎の屋根、瑠璃瓦の上に、こんもりとした緑が見えている。
「あの奥に、罪人が葬られる廟があるの。珍貴妃……あ、本当はもう貴妃って呼んではいけないのだけど、あそこに埋葬というか封印されたのよ。身の回りの品も含めて全部入れられて、方術士が厳重にね」
天雪が続ける。
「森の中だし、恐ろしいので、誰も近づかないみたいです」
「なるほど。呪われたら嫌だものね」
(先帝と一緒になって妃たちを苛んでた、か。貴妃が入宮する前から先帝は暴力的だったと聞くけど、貴妃はどうして他の妃たちと同じ運命を辿らなかったんだろう。先帝よりも暴れたのかしら。怖っ)
そうして日々を過ごすうち、魅音は不穏な噂を耳にした。
後宮内の池をのぞきこむと溺死した妃の姿が見える、とか、珍貴妃の暮らしていた珍珠宮の跡地に青白い鬼火が飛んでいるのを見た、とか、そういった噂である。
(鎮魂の儀式をしてから、もうそういう怪異はなくなった、って話だったけど……結局、出るわけね。ま、本当なのか宮女たちの気のせいなのかはわからないけど)
霊感がポンコツになっているため、幽鬼がよほど強力だったり、手が届くくらい近くにいたりしない限り、感じ取れないのである。
ただし、魅音にとっては本人が狐仙なだけに、人ならざる存在は身近だ。幽鬼も、珍しいものではないという認識だった。
(元は人間だったんだから、恨みだの未練だの持つくらい当たり前よね。悪ささえしなければ別にいいじゃない、存在くらい許してあげれば。……ま、私には関係ないことだけど。もうちょっとしたらここから出るんだから)
ある日、魅音はとうとうアザに気づいたふりをして、雨桐に訴えた。
「変なアザができてしまって……医官を呼んでくれる?」
後宮の医官は宦官だけれど、助手の宮女が一緒に来てくれたので、肌を見せるのにも抵抗はない。医官を居間で待たせ、助手を寝室に入れて、アザを診てもらう。そして助手が医官に説明する、という形をとった。
医官はどうにも事なかれ主義のようで、しっかり診てもらえているという感じはしなかったけれど、とりあえず塗り薬を出してくれた。
(まあ、薬では治らないけどね。私が変身を解かない限り)
思いつつも、魅音は礼を言って受け取る。
助手が、心配そうに声をかけてくれた。
「いつでも診に参りますので、何かあったら医局にお知らせ下さい。私は周笙鈴と申します」
二十代の後半ほどに見える笙鈴は、自分こそ療養が必要なのではと思うほどの細身に似合わず、てきぱきと医官を助けていて頼りがいがありそうだ。
「怖いわ、もしかしたら珍貴妃の呪いかも」
魅音が怖がってみせると、笙鈴は静かに魅音を見つめてから、優しく微笑んだ。
「悪い思念や霊力は感じません。大丈夫ですよ」
「わかるの?」
「ええ、昔から私、そういうのに敏感で」
どうやら、笙鈴は高い霊感があるらしい。
「翠蘭様からは、とても明るい思念しか感じません」
「ほんと? よかった」
(なかなか見所のある人間ね。……よし。アザを大きくしたら、笙鈴に知らせよう)
魅音は思いながら、仲良くなっておこうと色々と話しかける。
「医官と、助手のあなたの二人だけで、後宮中の人を診るの? やっぱり女性だから、あなたの役割が大きそう。大変ね」
「そうですね……診察以外にも、医局の掃除から医官の洗濯物まで私がやっているので、さすがに忙しいです。でも、いずれは人を増やして頂けるはずなので」
「そうね。頑張って」
応援しつつも、今後も仮病で迷惑をかけることがちょっと後ろめたい魅音である。
そして一ヶ月で、魅音は顔にまでアザが出てしまう展開まで持っていった。
その間、笙鈴は誠心誠意手を尽くしてくれた。書物を読み込み、効きそうな薬種があるとわかれば医官にかけあって後宮の外まで買いに行き、薬の調合も配合を変えてあれこれ試してくれたのだ。さすがの魅音も、心が痛んだ。
そこで、郷に帰ることが決まった日、魅音は彼女に心からのお礼を言ったものだ。
「あなたには本当にお世話になったわ、ありがとう」
「いいえ、お力になれず申し訳ありません……。でも、こんなところにいるよりも故郷で、馴染んだ水や食べ物を口にすれば、きっとよくなりますから!」
笙鈴は涙ぐんでいた。
(『こんなところ』……そうよね、人間で霊感があると、こんな場所は色々と見えちゃって、めちゃくちゃ嫌でしょうね)
そう思った魅音は、聞いてみた。
「あなたは、先帝の死を機に後宮を出ようとは思わなかったの?」
笙鈴は少しキョトンとした顔をしてから、あっ、と声を上げた。
「違うんです、私、今の陛下の御代になってから来たんです。本当に、つい最近のことで」
「あっ、そうだったの。とても仕事がてきぱきしているから、もう長いんだと思っていたわ」
「お、恐れ入ります!」
恐縮する笙鈴を見て、魅音はそれ以上は聞かないことにした。
(わざわざ『こんなところ』にいるからには、理由があるんでしょうね。雨桐も言葉を濁していたし)
口減らしのために家を出された者、身内が何らかの罪を犯して連座して働かされている者──宮女になる理由は様々だ。今、後宮に残っている宮女の中には、辞めたくても辞められない者がそれなりにいるのかもしれない。
とにかく、魅音は諸々の手続きを済ませ、荷物をまとめ、やがて春たけなわの季節に後宮を出る日を迎え――
――話は冒頭に戻るわけである。




