8 笙鈴と小丸
しかし、ひとまずこのままにしておこうと、昂宇は判断した。
(僕が隠そうと判断したなら、自分を信じよう。それより、早く身体に戻らなくては。魄だけでは、いずれ死んでしまう)
紗をかき分けて頭を出してみると、部屋の中は無人だった。格天井には細やかな模様が描かれ、柱には鍍金が施され、まるで灯籠かと思うほど大きな香炉が寝台の両脇に置かれている。
履は履いていたので、そのまま寝台からすべり降り、戸口の方へ歩いた。魂だけのせいか、足下がふわふわする。
耳を澄ませて外の気配を探り、何の物音もしないのを確かめてから、昂宇はそっと戸を開こうとした。
(……開かない)
部屋の中から見たところでは、特に閂やつっかえ棒の類はないのだが、戸はびくともしない。
戸の横に格子窓があったので覗いてみると、美しい内院が見えた。苔むした洞のある築山に、枝ぶりのいい松が影を落としている。
庭を囲む建物は豪華で、朱塗りの柱には鳳凰などの瑞獣が描かれ、軒下にはここにも細やかな彩色画が描かれていた。
(位の高い人物が住むような場所であることは、間違いないな)
空にはうっすらと、紫の霞がたなびいている。しかし、夕方なのか早朝なのか、時刻ははっきりしない。
内院を囲んで部屋がいくつかあり、部屋同士は繋がっているので自由に移動できるのだが、とにかく建物の外に出られない。どの部屋も、壺や掛け軸が飾られていたり、棚に古今東西の書物が置かれていたりと、凝った雰囲気だ。
特に豪華なある一室には、鳳凰の彫刻された椅子がドンと置かれ、その前の卓子はご馳走でいっぱいだった。酒の壺が置かれ、菓子や果物が足の高い器にこんもりと盛られ、腹が減っても大丈夫なように用意されている。
しかし昂宇は、建物全体に妖気が漂っているのを感じていた。
(何かに、閉じ込められている……!)
「おーい! 誰か、いないか!」
思い切って声を上げてみたが、返事はない。
まるで、世界に、昂宇ただ一人きりのようだった。
「……まあ、一人でいるのは、昔から慣れているが」
彼は声に出してつぶやく。
まるで、それを聞いた誰かが「そんなことないよ」と現れるのを待つように。
胡魅音の姓名、出身地、生年月日などが名簿に記載され、魅音は正式に後宮の宮女になった。
さっそく、後宮内の医局に向かう。
林を抜けると、飾り気のない平屋の建物が姿を現した。周囲は綺麗に掃き清められ、脇の小さな畑にはこの季節でも収穫できる薬草があるようで、優しい緑が広がっている。
「こんにちはー」
入口から中を覗くと、書物の摘まれた棚の間から、背の高い中性的な顔立ちの女性が顔をのぞかせた。
「はい……あっ」
彼女は、目を丸くする。
「翠……魅音様!」
「久しぶり、笙鈴」
魅音が笑いかけると、周笙鈴は瞳を潤ませた。
「本当に、魅音様だわ……! またお会いできて嬉しいです!」
白と紺の地味な襦裙を身につけた笙鈴は、医局で医官の助手をしている宮女である。
彼女の妹である春鈴は、姉よりも先に後宮で働き始めたのだが、そのまま行方不明になった。生存は絶望的だったが、笙鈴は妹の手がかりを探すため、先帝妃である珍艶蓉の怨霊と手を結んだのだ。
色々あって怨霊は祓われたものの、やはり春鈴は、すでに死んでいた。笙鈴は妹を弔いつつ、後宮の人々に迷惑をかけたことを心から反省して、今も後宮で働いている。
「あっ、魅音様、小丸も元気にしていますよ。どこにいったかしら……その辺にいるはずです、呼んでみて下さい」
笙鈴に言われ、魅音はうなずくと、舌打ちを二回した。
すぐに、部屋の隅から小さなネズミが姿を現した。ちゅっ、という鳴き声。
魅音のかつての相棒、小丸である。白黒まだらの、ちょっと変わった模様のネズミだ。
ネズミは狐仙の眷属なのだが、この小丸は先帝妃の件で、魅音をとてもよく助けてくれた。魅音が後宮を離れてからは、笙鈴が面倒を見ていたのである。
他の宮女に退治されないようにか、首に小さな赤い玉をつけてもらっていた。
「小丸ー! 元気そうね! ていうかちょっと太った?」
両手ですくいあげて視線を合わせると、小丸は身綺麗にしようと思ったのか前足で顔をゴシゴシやり、つぶらな瞳で改めて魅音を見て、ちゅっ、と鳴いた。
「ふふ。可愛がってくれてるみたいね笙鈴、ありがと!」
「そんな、とんでもない」
首を振ってから、笙鈴は魅音をじっと見つめる。
「……魅音様、いったいどうなさったんですか? 今度は宮女としていらっしゃると聞いて、本当に驚きました」
「あ、それ。私は元々は下女だし、笙鈴より後輩の宮女として医局に配属になったんだから、かしこまらないでね」
「いいえ。今や半妖の私にとって、本性は狐仙でいらっしゃる魅音様は、敬うべきお方です」
笙鈴は真摯な瞳で力説する。
「あれから、陛下が後宮内に小さな狐仙堂をお作りになったんです。私、よくお参りしているんですよ」
「うわ、ホント? やだー照れちゃうなー、でもありがとう」
まんざらでもない魅音である。人々の祈りは、神仙の力にもなるのだった。
とにかく彼女は、昂宇の陥っている状況について説明した。
「昂宇さんが、そんなことに」
茶を淹れてくれた笙鈴が、心配そうに顔を曇らせる。
「宦官として後宮にいらっしゃることがなくなったので、今どうなさっているのかは全然知らなかったんですが……」
しかし、怪異に触れたことのある笙鈴は飲み込みが早い。魅音が続けて説明すると、すぐに理解したようだ。
「なるほど、それで泰山娘娘に知恵をお借りしに行くんですね」
「うん。今日この後、陛下が後宮にいらっしゃって、一緒に泰山のお堂に行ってみることになってるの」
笙鈴は微笑む。
「あそこのお堂は、霊験あらたかだといって先輩宮女もよくお参りしていました。魅音様も昂宇さんも、お妃様方や私を助けてくださった方。きっと、泰山娘娘も話をお聞きになったら、力を貸してくださるはずです」
「そうね。もし私だけじゃ手に負えないことが起こったら、笙鈴、力を貸してくれる?」
「もちろんですとも!」
笙鈴は大きくうなずいた。
「ええと、じゃあ魅音様は今日から、宮女の寮に滞在されるんですか?」
「一応そういうことになってるんだけど、今後どうなるかわからないからなぁ。すぐに解決しなかったら、後宮を拠点にしてあれこれするかもしれないでしょ。宮女たちと一緒に暮らすのはちょっと」
「それじゃあ、この医局で寝泊まりしますか? 患者用の寝台のある部屋がいくつかあるので、私も泊まってるんです」
「え、笙鈴、ここで暮らしてるの?」
驚いて聞くと、笙鈴は苦笑した。
「はい……何しろ、医局は人が少ないので。私が常にここにいて、急患があったら医官様をお呼びしに行くんです」
「うわぁ、大変ね。気が休まらないんじゃない?」
「いえ、私も寮で過ごすのはちょっと……宮女たちと同部屋だと、着替えの時に見られてしまうかもしれないので」
笙鈴はちらりと、袖をまくった。
その右腕には、織物に使う杼(横糸を通す道具)が埋め込まれていた。
笙鈴の身体は、春鈴の形見である杼が妖怪化したものと半ば混じり合い、半妖となっているのである。
「この糸は霊力で紡いだもので、今でも操れます。もし、私でお役に立てることがあったらおっしゃって下さい」
笙鈴の気持ちに答えるように、杼の中央の糸巻きがキュルルと回転した。




