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狐仙さまにはお見通し-かりそめ後宮異聞譚-  作者: 遊森謡子
2-2 かりそめの後宮
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7 臨死体験

 昂宇は、熱病にかかって死にかけたことがある。五歳の頃のことだ。


 その頃の彼は、まだ『王昂宇』だった。

 衛尉寺卿(ここでは天昌の警備長官)の長男として生まれ、年子で弟がおり、その下に妹が生まれたばかり。幼い弟妹に病気をうつさないようにと、彼は離れに隔離され、使用人に世話をされていた。

 あまりの高熱で水さえ吐いてしまうので、薬湯も飲めずにひたすら朦朧と、夢の中を漂う。

 ふと気づくと、彼は、深い森の中にいた。

(ここ、どこ?)

 地面は急な勾配で、山の中かもしれない、と思い至る。

 身体を、甘い匂いが包み込んでいた。見回してみると、薄紅色の実を重たげに実らせた桃の木が、ぽつんぽつんと生えて山頂の方へ続いている。

 逆に山裾の方を見下ろすと、木々の合間に深い淵が広がっているのが見えた。

 涼しげな翡翠色に引き寄せられるように、淵に近づいた。覗きこんでみる。

 水はどこまでも深く、ストンと落下しそうなほど澄み渡っていた。水草が柔らかく揺れ、銀の魚がすぅすぅと泳いでいる。

 いや、魚ではない。

(人だ!)

 水の中には、何人もの人間が沈んでいた。しかし、彼らはまるで空を飛ぶように、ゆったりと袖をはためかせ、水の中を移動している。

(水の中で、くらしているのかな。冷たくて、きもちよさそう。いいなぁ)

 ふと、水面に焦点が合った。

 映っている景色は、白くけぶる靄と、そこに浮かぶ眉のようになだらかな紫色の峰峰。その映像が昂宇に迫り──

 ──瞬きをした時には、水の上に一人の女性が立っていた。

 白くけぶるような肌になだらかな眉、くっきりと赤い唇。結い上げた髪は金の簪で飾られ、ふくよかな身体を包む紫の衣には、銀糸の魚が泳いでいる。

 唇が開き、低く落ち着いた声が響いた。

『お前、陽界の人間だな。なぜここにいる』

 特に責めるような響きではなく、淡々としていたので、恐怖は感じなかった。昂宇は戸惑いながらも、素直に答える。

「わ、わかりません……お熱がでて、それで」

『死にかけて、迷い込んだか。しかし、こちらの住人になるには、まだ早いようだ』

 女性は、顔を上げるとどこへともなく呼びかけた。

『玉秋、この子を送っておくれ』

 すると、姿は見えないけれど、木々の合間から声がした。

『あたしの役目は、大姐を守ることだもん。ぜーったいに離れない。他のヤツに送らせればいいじゃん!』

(え、今のこえ、だれだろ)

 昂宇は目を凝らしてみたけれど、やはり何も見つからない。

『やれやれ』

 女性はため息をつくと、ゆっくりと水面を見回した。

『何人か、この子を送っておくれ』

 すると、丸いものが二つ、ぷかり、ぷかりと浮かび上がった。

(人の、あたま、だ)

 昂宇が目を見張っていると、二人、すうっと水から上がって水面に立った。老人が一人と、若い男が一人。表情はなく、血の気の通わない肌をしていて、目は青く光っている。

「幽鬼……」

 思わず、つぶやいた。

『こやつらが、陽界に姿を現す時は、そう呼ばれるな』

 昂宇に視線を流し、女性は続ける。

『しかし、ここの、ごく普通の住人だ。生まれ変わる前に、前世の疲れをここで癒している。生きる者は必ず死んで、まずはここに来る。お前がここに来たように、生の世界のすぐそばには死の世界、冥界がある』

 それを聞いた昂宇は、思わず口にした。

「なのに、ぼくの世界に来たら幽鬼っていわれてこわがられるんだ。かわいそうだね」

 女性は軽く目を見開く。

『可哀想、と思うか?』

「うん。だって、あいたい人にあいに行ったら、ぎゃああっ、っていわれちゃうんでしょ。かわいそうだよ」

『……そうだな。切ないことだ』

 その唇が、柔らかく弧を描いた。

『もし、お前が幽鬼に会ったら、どうする?』

「あいたい人と、いつかめいかいであえるからまってて、っておしえてあげます!」

 昂宇が張り切って答えると、女性はますます笑みを深くした。

『それがいい。夢でも会えるし、生まれ変われば同じ人間として陽界でも会える』

「あ、そうですね! じゃあ、それもおしえてあげます!」

『うん』

 不意に、スッ、と女性が滑るように移動し、昂宇のそばにやってきた。軽く首を傾げ、彼の顔を見つめる。

『良い子だね。お前、巫に向いているかもしれぬな』

「『巫』? って、なんですか?」

『縁があれば、わかる時が来るであろ。さ、もう帰れ』

「あ、はい。じゃあぼく、またきますね、しんだら」

 昂宇がそう言うと、女性は今度ははっきりと、声を出して笑った。

 そして、白く冷たい手で、彼の頬を優しく撫でる。

『楽しみに待っているぞ』

 女性が後ろへ下がると、二人の住人が昂宇の両側に立ち、歩くように促した。

 三人で並んで、果樹の間を登り始める。不思議と、昂宇は少しも恐怖を感じなかった。

 一度、振り向いてみたけれど、女性の姿はすでにない。

 視界が、甘い香りの靄で、白くなっていく。



 ふっ、と、昂宇は目を開いた。

 寝台の天蓋と、そこから垂れる紗が視界に映る。

(……ああ……幼い頃の夢を見ていたのか……)

 あの後、意識を取り戻したら熱は大方下がっていた、ということを彼は思い出す。冥界から陽界へと、帰還したのだ。

 昂宇は、いわゆる臨死体験をしたのである。

(懐かしいな)

 ぼーっとしながら視線を動かし、昂宇はハッとした。

 自分の寝床ではない。

(ここは?)

 垂れ下がった紗の隙間から、灯籠の灯りがひとつ点っているのが見え、豪奢な黒檀の家具をぼんやりと浮かび上がらせている。どこからか、白檀の香りが漂ってきていた。

 起き上がってみると、身体に違和感がある。ほとんど体重を感じない。

(身体が、おかしい)

 そこでようやく、昂宇の脳裏に一気に記憶が戻ってきた。

 宏峰を訪れ、破壊された狐仙堂の跡で、土地神を呼び出そうとしたのだ。ところが、現れたのは冥界の女神である西王母だった。

(そうだ、西王母に連れて行かれて)

 一瞬、混乱しかけたが、どうやら死んだわけではないらしい。

 昂宇は、はたと、それに気づく。

(ああ、何だ……魂が身体から切り離されたのか。なるほど)

 十分大変なことである。

 しかし、方術士で巫でもある昂宇は、怪異に遭った人が一時的に魂を失うのも見たことがあるし、怪異から逃れるためにわざと魂を切り離す方法があるのも知っている。そのため、一般人ほどには怖がらないのだった。

 よくよく見ると、彼はずいぶん(きら)びやかな身なりに変わっていた。

 袖の広い黒い上衣、赤い(スカート)、金糸の刺繍に玉の飾り。頭に手をやってみると、結った髪に冠まで被せられて簪で留められている。

(まるで皇帝、いや、俊輝より豪華じゃないか。まあ、俊輝は皇帝としては地味だけど。ケチだし。……なぜこんなことに?)

 西王母が話していたことを、彼は思い出して辿った。

(そうだ、陰界に後宮を作って、気に入りの巫を住まわせるとか何とか。ここがその、鏡写しの後宮か?)

 瞬間、ふと、脳裏を誰かの面影がよぎった気がする。

(そう……僕は何かを隠そうとして、心を読まれないように結界を張って……でも、何を隠そうとしたんだったか)

 ぼんやりして、うまく思い出せなかった。

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