6 白狐、皇帝の前で誓う
新皇帝・俊輝が先帝を討ってから、そろそろ一年が経とうとしている。
夕食の後も公務を片付けていた俊輝が、皇城の奥、永安宮の自室に戻ってきたのは、夜もすっかり更けてからのことだった。
灯りの入った灯籠がぼんやりと照らす室内で、一人の時間にホッと息をつく。
ふと見ると、床に何か丸いものが落ちていた。
小さな松ぼっくりだ。
(……?)
そこはちょうど窓の下だったが、窓の近くに松の木はない。枯葉が舞い込むならともかく、松ぼっくりが風で飛んできて格子の隙間から室内に入る、というのは無理がある。
(誰かが……投げ込んだ?)
はっ、と俊輝は身を翻し、内院に通じる戸を開けた。
内院はぐるりと廊下に囲まれており、梁に描かれた彩色画が俊輝を見下ろしている。廊下から石段を下り、彼はあたりを見回した。
すると、植え込みの陰に、白くフワフワした丸いものがある。
俊輝は苦笑しながら、その脇に屈み込んだ。とがった大きな耳の近くで、呼ぶ。
「魅音」
『…………っはっ!』
パッ、と白狐が顔を上げた。
『寝てた!』
ぷっ、と俊輝は吹き出した。
「宏峰から走って来たのか? 疲れただろう、中に入れ」
『あ、でも私、だいぶ汚れて』
「気にするな。ゆっくり話をしなきゃならないのに、この俺を寒空に晒しておくつもりか?」
『ふぁい』
トコトコと魅音が中に入り、俊輝は戸を閉める。
部屋の主が使う椅子のそばには火鉢が置かれ、鉄瓶が湯気を立てていた。俊輝はながいすを運んできて、魅音を促す。
「だいぶ待ったんじゃないのか? ほら、座って温まれ。……元気にしていたか?」
『おかげさまで』
言いながら、魅音は狐姿のままながいすに飛び乗った。人間の姿に戻った場合、万が一目撃されたら『皇帝の部屋に女がいる!』と面倒なことになってしまうので、ここに来るときは基本的に狐姿だ。
「いきなり呼び出して悪かったな。驚いただろう」
『あれ、昂宇が書いたんですよね』
魅音は手紙の件について俊輝に尋ねる。
『倒れる前に、書いたものでしょう?』
「倒れたとき、懐に持っていたのを、翼飛が見つけた」
俊輝は大ざっぱな手つきながら、茶を淹れる準備をした。元軍人の彼は、割と何でも自分でやるのだ。
「あいつは前から、魅音が皇城にいてくれたら、と言っていた。魅音を呼び戻せるとしたら皇帝の妃という形しかない、と思ったようだな。しかし、翠蘭ではなく魅音を妃にするなら身分が必要だ、翼飛なら引き受けてくれる……という流れで考えたんだろう」
『そうなると私、天雪の姪になるんですけどっ。それに、陛下の文が魅音宛ってことは、私を知ってる、つまり私が翠蘭お嬢さんの身代わりをやったのがバレてた、ってことになるじゃないですか!』
俊輝が『翠蘭』に『魅音』と名をつけたのは方便で、正式に改名したわけではないし県令にも知らされてはいない。後宮内だけの通り名のようなものだ。
だから、下女の魅音宛に手紙が来るのは、明らかにおかしいのである。
手紙を読み、宛名をもう一度見た県令の顔色がみるみる悪くなっていったのを、魅音は覚えている。
俊輝はニヤリとした。
「つまり『この俺を騙そうとしたことは不問に付すから、魅音を差し出せ』と、県令を脅したことになるな」
『そういうとこ、意外と策士ですよね陛下って! あの家にいたくて私、帰ったんですけど⁉ 学ぶのはまあ、百歩譲ってどこでもできるとして、翠蘭お嬢さんがいるのはあの家だけなんですからっ』
「だが魅音、昂宇がこういうことになっていると知れば、お前はどんな手を使ってでも来るだろうと思った。違うか?」
『それはまあ、違いませんけどっ』
魅音はムスッと答える。
かつて、狐姿で昂宇を癒したあの時。
彼女は心の中で、とっくに決めていたのだ。昂宇に何かあった時は必ず助けに来る、と。
『知らせてくれなかったら、陛下のこと恨んでましたよ、たぶん』
「そうか。それは怖いなぁ」
『嘘ばっかりっ。……昂宇、まるで、死んでるみたいで』
語尾が少し、かすれてしまった。
俊輝の視線が、労わりの色を帯びる。
「うん」
『そりゃ、人間はいつかは死にますけど……ただ死ぬんじゃなくて、囚われた魂が苦しい目に遭ってるかもしれない。想像すると、私も、苦しくて』
目を伏せた魅音の鼻に、皺が寄っている。
「うん」
うなずいた俊輝は、頭をかいた。
「……困ったな、最後の切り札のお前がそんな様子だと、調子が狂う。そうだ、お前が来そうだと思って、黄身餡の饅頭を用意させていたんだった」
腰を浮かせた俊輝の袖に、魅音は素早く前足の爪をひっかけて引き留めた。
『要りません』
「あ? どうした、大好物じゃないか」
『だからこそです』
魅音は、きっぱりと宣言する。
『私、願掛けします!』
「願掛け」
『はいっ』
気を取り直すかのようにブルブルッと身体を振るわせ、魅音はキリッと鼻面を上げた。
『昂宇が助かるまで、「卵絶ち」します!』
「無理だろ」
『何で即座に言い切るんですか⁉ しますったらします! 私たちみたいな存在が制約をかけると、効果バツグンなんだからっ』
「ははは、わかったわかった」
俊輝は魅音の頭に手を載せ、毛並みを整えるように撫でた。
「照帝国には昂宇が必要だ。俺の役目は先帝を討ったように『壊す』こと、しかし昂宇はその上に新しく『築く』奴だと思っている。ともに、昂宇を助けよう」
『はいっ』
「お前が来るまで、俺も手をこまねいていたわけではないし、珍艶蓉の時は俺の攻撃も通用した。今回も、できることがあるなら何でもやる」
『私も何でもやりますよ。この際、しばらく翠蘭お嬢さんと一緒に暮らせなくても仕方ないっ。昂宇を助けるためなら!』
彼女の吊り目は真剣だ。
俊輝は見つめ返し、ちょっと眉尻を下げる。
「お前にそこまで言わせるとは。何というか、妬けるな」
『へ?』
首を傾げると、俊輝は笑い出す。
「ははは、冗談だ。で、翼飛には会えたんだよな」
『あ、はい』
魅音は、翼飛と話した内容を、俊輝に伝えた。
土地神が暴れているというのは、おそらく燕貞の仕込みなので放っておくつもりであること。
昂宇は西王母に連れ去られた可能性が高いということ。
そうなると人間だけの手には負えないので、他の神仙に相談しようと思っていること。
「泰山娘娘が、力になってくれるというのか?」
『はい。娘娘は、狐仙のことを「同じ気を持っている」と近しく思って下さって、神仙たちから下に見られていた狐仙たちを泰山に住まわせ、守って下さってるんです。母同然の方です』
「それはありがたい」
俊輝が、希望が見えてきた、という様子で目をきらめかせる。
「俺からもお願い申し上げなくてはな。で、後宮で娘娘と話ができるというのは、一体どういうことだ」
『後宮には、泰山を模した小さな山がありますよね』
魅音は両方の前足を合わせて、山の形を示してみせた。
『そこの上には、ちゃんと泰山堂がある。泰山娘娘が祀られている堂です』
妃たち、あるいは宮女たちが参拝できるよう、後宮内には様々な神仙の堂があるのだ。
『狐仙である私が、泰山堂で娘娘に呼びかければ、応えて下さるはずです。ただ、そのためには正式な手続きを踏まないといけません』
魅音はきょろりと目玉を回した。
『決まりを守ることには厳しいんですよねぇ、娘娘……』
「正式な手続きとは、どういう?」
『後宮の泰山なので、よそ者が入ってはいけません。つまり、私が後宮に属さないといけないんです』
「なんだ」
俊輝は拍子抜けしたかのように、肩の力を抜いた。
「やっぱりお前、また俺の妃になればいいんじゃないか。……あ、いや」
『何です?』
魅音が聞くと、俊輝は顎を撫でた。
「ちょっと、昂宇の文のことを考えていた」
『あー、翼飛様の養女になった上で妃に、っていう? いやいやいやいや』
右の前足を、魅音はブンブンと振った。
『そこまでしなくても! 妃である必要はなくて、宮女でいいんですよ宮女で。陛下、一時的に私を後宮で雇って下さい!』
「わかった。そうしよう。……ああ、それなら」
俊輝は、何かいいことを思いついた、というような不敵な笑みを浮かべた。
「医局の人手が足りないらしいから、行ってもらうとするか」




