3 大将軍登場
「胡魅音ってのは、あんたか?」
いきなり大きな声で呼びかけられて、魅音はぱちくりと目を瞬かせた。
彼女は、照帝国の都・天昌から西へと川をさかのぼった、宏峰という町にやってきている。
というのも、呼び出されたからだ。魅音は県令の家で下女をしているが、雇い主である県令の元に手紙が届いたのである。
そこには、こう書いてあった。
『胡魅音を禁軍大将軍の養女として迎えた上で、皇帝の妃として推薦する』
いぶかしがる翠蘭と県令夫妻に、
「何かの間違いだと思います。とりあえず行ってみますけど、またここに帰されると思いますよ、あははは」
と適当なことを言って出てきたのだが、ここまで付き添ってくれた役人もずっといぶかし気だった。
(いったいどういうことなのか、理由を聞いてやろうじゃないの。ていうか、妃どうこうって話なのに、天昌に呼びつけないのは何で?)
手紙の続きには、禁軍大将軍・白翼飛を訪ねるようにと書いてあった。
そして、翼飛が今滞在しているのが、この宏峰なのである。
(仕方ないから宏峰まで来たけどっ)
魅音としては、俊輝の妃にという話なら俊輝から聞くものだと思っていたし、手紙の筆跡は昂宇のものだったので、昂宇と再び会って色々と話せるだろうと……まあ言ってしまえば、とても楽しみにしていたのだ。
(ふんっ、後宮の怪異を一緒に解決した仲なのに、水くさい。まあ、養女なんて話が出てるくらいだから、そりゃあ養父になるかもしれない大将軍に聞けばわかるんでしょうけど)
ちょっとモヤモヤしつつも、彼女は案内の輿を下りた。
目の前には、丹塗りの門構えの、大きな屋敷がある。
宏峰という場所は、今上皇帝である俊輝の一族である『王』家ゆかりの地でもあって、『王』家の別宅があった。それがこの屋敷で、俊輝とは親友の中である大将軍がちょうど今、滞在しているらしい。
そんなわけで、門卒に名乗っていくつかの門を抜け、内院に踏み入れたとたん、目の前にドーンと立っている大柄な男がいたわけである。
日に焼けた肌と髪、太い眉。がっちりとした身体を、簡略的なものではあるが鎧で覆っており、腰に鎖か何かを巻いているのが物々しい。
彼はもう一度、大きな声で言った。
「胡魅音ってのは、あんたなんだな?」
「そうです」
うなずくと、彼は綺麗な歯並びを見せて笑った。
「俺が、白翼飛だ。妹が世話になった!」
魅音は(やっぱり)と思いつつ、礼をした。
「大将軍様、初めてお目にかかります」
「わははは、名前で呼んでいいぞ! 俺もまだ、大将軍とやらには慣れねぇしな!」
無邪気に笑った目元が、魅音のよく知る少女と似ている。
というのも、彼は後宮妃の一人である白天雪の兄なのだ。俊輝とは旧知の間柄で、彼よりも三、四歳年上と聞いている。
『妹が世話になった』というのは、かつて後宮で怪異の被害に遭っていた天雪を魅音が助けた件のことだろう。天雪から聞いたのか、俊輝から聞いたのかはわからないが。
「では、翼飛様。私、何もわからないまま、ここに行くよう指示されたんです。こちらで事情を聞かせていただけるんでしょうか?」
「うん」
翼飛はうなずき、表情を引き締めた。
「とりあえず中へ。俺についてきてくれ」
彼について回廊に上がり、歩く。
秋も深まり、内院では唐楓が美しく黄葉し、ここでも桂花が良い香りをさせていた。宏峰は桂花の郷としても有名なのである。
翼飛は、奥の母屋へと向かっているようだ。
「翼飛様。先にお聞きしたいんですけど、まさか陛下は本気で、私を妃にしようとしているわけじゃないですよね? つまりその、私に本来の妃としての役割を期待してはいませんよね、という意味ですが」
魅音が聞くと、翼飛は半分振り返りながらうなずく。
「まぁな。あんた、不思議な力を使うそうじゃないか。昂宇と色々、活躍したとか」
「お聞きになってるんですか?」
「ザッとだけどな。ちょっと人間離れしてるところもあるから驚くな、と俊輝に……陛下に言われたぞ」
ということは、本性は狐仙だとか、狐に変身できるとかまでは聞かされていないのだろう。それならそうと言うはずだ。
「そんなあんたが必要な事態だと、陛下が申された」
「やっぱり怪異系かー。あ、いえ……私の術は、ぜんぜん大したことないんですよ。昂宇の方術の方がよっぽど優秀だって、陛下もご存じのはずなのに」
そして独り言のように、「あ。もしかしてまた女絡み? それで昂宇一人じゃどうしようもないとか?」などとブツブツつぶやいていると、翼飛はある部屋の前で立ち止まった。
「ちっと、驚かせちまうかもな」
「……?」
「入ってくれ。彼が待ってる」
(彼って、昂宇?)
魅音はふと、嫌な予感を覚えた。
(昂宇がいるなら、どうして私を迎えに出てきてくれないの?)
翼飛が戸を開け、彼女を身振りで中へと促す。
踏み込んでみると、そこは薄暗い寝室だった。小さな灯が一つだけ点され、奥に立派な寝台があるのがわかる。まるで寝室の中にさらに小さな部屋があるかのような、箱型の寝台だ。
紗の帳が降りていて、中は見えなかった。
(誰か、眠ってる)
魅音は、引き寄せられるように寝台に近づいた。
手を伸ばし、紗をそっと開く。
寝台に横たわっていたのは、昂宇だった。白い睡衣姿だ。
しかし、彼は眠ってはいないのか、目が開いている。
「昂宇?」
呼びかけてはみたものの、返事がない。一度、瞬きをしたけれど、その目は茫洋としていて魅音の方を見ない。
魅音はすぐに、異常に気づいた。さっ、と彼の胸に手を置いてみる。
「……魂が抜けてる……! 魄しか残ってない」
魂魄のうち、魂は心を動かす力、魄は身体を動かす力のことである。魄のみということは、ふらふらと歩くことくらいはできたとしても、自分の意志はない。
このまま放置していれば、やがて魄も消え、死んでしまう。あるいは、さまよう別人の魂や妖怪が入り込んで、身体を乗っ取ってしまうかもしれなかった。




