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2 記憶の封印

 昂宇は向き直り、フーッ、と長く息を吐いた。そして、祈りを意味する動作を左手で行うと、右手で霊符に触れる。

 ふっ、と、昂宇の周りに風が渦巻いた。

「宏峰の土地神よ、姿を現したまえ」

 万物は、陰と陽、どちらかの『気』を持つと言われている。天と地、男と女、太陽と月──対極のものがあるからこそ、互いにぶつかりあうことで何かが生まれたり、逆に消滅したりする。

 これが『陰陽思想』で、照帝国では広く信じられていた。

 人間が暮らしているのが陽界なら、神仙が暮らしているのは陰界で、二つの世界は表裏一体だ。巫でもある昂宇は、陰界が身近な存在だった。そのため、普通の方術師よりはそちらの世界に接触しやすい。

 繰り返し、祈る。

 渦巻く風に乗って、町中で咲きこぼれる桂花の香りが昂宇にまとわりつく。

 やがて不意に、自分の身体の輪郭がなくなるような、不思議な感覚があった。魂が陰界と繋がったのだ。

「姿を現したまえ。『顕』」

 呼びかけに、何者かが応える気配があった。

「……うっ?」

 ずん、と空気が重くなった。何か、大きな存在が近づいている。

(土地神、ではない! 僕は、この気配を知っている)

 あたりがふわりと明るくなり、やがて目の前にひときわ明るい小さな光が現れた。一気に膨れ上がり、やがてそれは一つの形を取る。

 ふっくらした頬の、妖艶な女性だ。ふくよかな身体に、白と藤色の衣をまとい、高く結い上げた髪に重たげな金のかんざしをいくつも挿している。

「西王母様!」

 昂宇は目を見開いた。

 死すべき運命の人間が暮らす『陽界』は、死を司る『北斗星君(ほくとせいくん)』と呼ばれる神が管理している。そんな人間が死後に赴く『冥界』は、重なり合う陰陽の世界の地下にあり、そこを治めているのが目の前にいる西王母だった。位の高い神で、普通なら昂宇が呼び出せるような存在ではない。

 西王母の声が、昂宇を包み込むように響く。

『乱れた神気を追ってきたら、覚えのある魂がいる。『難』家の巫じゃないか。名は、何といったか』

「昂宇で、ございます」

 昂宇はひれ伏す。

(巫として、日ごろから西王母に祈ってはいるが、僕のことを覚えておいでだとは)

 緊張で顔が強張ってしまったが、西王母は淡々と語りかけてきた。

『巫になる儀式の時に、姿を垣間見た気がするな。もう青年とは、人間が過ごす時間は本当にあっという間に過ぎるものだ。……ずいぶんと荒れた地におるな、何事だ』

「この地の土地神があらぶっておられると聞いて、祈りを捧げておりました。西王母様の周囲をお騒がせしたなら、申し訳ありません」

 すると、女神は艶やかな唇で微笑んだ。

『構わぬ。そなたは私の巫の一人、私の男だ』

「お、お戯れを……」

 ひれ伏したままの昂宇の頭に、くすくすと笑い声が降って来る。

『他の女に目移りなど、しておらんだろうな?』

 その時、彼の周囲の空気が、ピンと張りつめた。まるでどこからか弓で狙われているかのような、あるいは気づかないうちに悪いものを飲まされたかのような、嫌な予感がする。

 昂宇は左手の数珠を握りしめた。

(知られてはならない)

 直感的に、そう思った。

 彼の心に結界が張り巡らされ、記憶の一部を封じた。さっきまで脳裏にいた魅音の姿が、たちまち白い靄で包まれ、隠される。

 そんな彼の様子など気にする様子もなく、女神は昂宇に近づいた。

 団扇で、くいっ、と彼の顎を持ち上げる。

『そんなに緊張するでない、子どもの頃のように気安く話しておくれ。……おお、そうだ。私の気に入りの巫を住まわせる場所を、陰界に用意しておくのも面白いかもしれんな。ちょうど陽界に新皇帝が生まれたばかりだ、その後宮を写し取れば、面倒がなくて良い』

 西王母の瞳から視線を外せないまま、昂宇はごくりと喉を鳴らした。

「後宮を、陰界に写し取る……?」

『そうとも。……玉秋(ぎょくしゅう)

 誰かに、女神は呼びかける。

 ふっ、と、昂宇の背後に何か(・・)が現れた。

 強い霊力を持つ存在に前後を挟まれて、昂宇は動けない。彼の影を消すように、背後の何者かの影が瓦礫の上に落ちている。

 それは炎の形に似て、先の尖った何かが何本も──九本も、ゆらゆらと揺れた。

『玉秋、昂宇を連れてついておいで』

「……⁉ 西王母様、お待ちを、僕は」

 反射的に、昂宇は立ち上がろうとする。

 しかしその瞬間、身体からフッと力が抜けた。

 ぐらりと倒れかかる彼の下に、なめらかな毛並みの生き物が滑り込んだ。そのまま、昂宇を持ち上げると、急に身体が軽くなったような感覚があった。

 燕貞の声が、昂宇の耳に微かに聞こえる。

「方術士様? どうなさったんですか、方術士様!」

 彼には、西王母や謎の生き物――おそらく神獣――は見えていないのだ。昂宇が独り言を言って、いきなり倒れたと認識しているのだろう。

 しかし、返事をしようにも声が出ない。動けない。

 すうっ、と、昂宇は浮かび上がる。彼の身体はその場に倒れていたが、魂が何か(・・)の背の上にあり、持ち上げられているのだ。

 女神がささやく。

『行くよ』

(抗えない)

 ふわり、と視点がさらに浮き上がった。自分の身体が、眼下に遠ざかっていく。

 薄れゆく意識の中で、昂宇は白い狐を一匹、見たような気がした。

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