1 桂花(キンモクセイ)の郷
第2部(書籍2巻本編部分)連載スタート! 本日は3話まとめて更新です。
大晦日と三が日を除いて、1月12日の2巻発売日(予約受付中)まで駆け抜けます、どうぞお付き合い下さい。
書籍には大ボリュームの番外編があり、本編のすぐ後の時系列になりますので、そちらもぜひ!
赤い柱が倒れ、屋根の瓦は落ちて砕け、壁の一部だけがかろうじて立っている。
爪先の角ばった履が、散らばった瓦の合間に足の踏み場を見つけながら、どうにか先へと歩いていた。
「ひどいものですね」
南昂宇はいったん立ち止まり、周囲を見回す。
そこには元々、小さな堂が建っていた。しかし今はむざんに破壊され、うっすらと残る線香の香りが面影を残すのみだ。
崩れた壁の下に、何かが埋もれている。昂宇は近寄り、壁の欠片をいくつか避けてみた。
木像が横たわっていた。白く塗られた、狐の像だ。堂に祀られていたもののようだが、台座から落ちた衝撃でか、耳が少し欠けてしまっている。
つぶやくように、昂宇は言った。
「……ここは、狐仙堂だったのか……」
「その通りです。しかし、不自然な突風に壊されてしまって」
背後にいた案内の若者が、柔和な顔をしかめて説明する。
天昌の都から船で川を遡り、さらに馬で進んで四日。山の麓の町・宏峰に、昂宇はいる。
かつて、とある小国の王が、この宏峰に都を置いていた。しかし、他国に攻め込まれて領地のほとんどを奪われ、王はそのままこの地に幽閉された――という謂れがある。
時が経った今では、都で何か問題を起こすなどした貴人がひっそりと下り、余生を送る地になっていた。
そんな宏峰だが、元は都だっただけあって美しい景観に恵まれている。秋も深まった今は、町中で桂花が甘く柔らかな芳香を広げていた。寺社も多く静かで、悔い改めながら暮らすには向いた土地といえるだろう。
ある日、宏峰の領主の名で、都に訴えが届いた。何でも、ここの土地神が怒って暴れているのだという。
その地の平安を守るのが土地神なのに、領地を荒らすのはおかしい。
『僕が行って、色々と調べてきましょう。最後の仕事です』
名乗りを上げたのが、方術士の昂宇だ。
彼は、祭祀や儀礼を取り仕切る役所・太常寺に所属している。同時に、『王』家の巫で、修行中の身でもあった。
宏峰の領主は病に臥せっており、領主代理をしている許燕貞という男が昂宇を迎えた。
『ここは、都から追放された人々が追いやられる土地です。冤罪で、あるいは権力者の圧力によって、来ざるを得なかった人もいるはずです』
三つ編みにした髪を肩口から垂らし、どこか僧のような格好をした燕貞は、ぐっと右の拳を握った。
『そういった人々の憎しみ、悲しみを、土地神様が晴らそうとしているのではないでしょうか。案内しますので、どうかこの宏峰をご覧になってみて下さい』
昂宇を案内している若者こそ、燕貞だ。そして今、目の当たりにしたのが、破壊された狐仙堂なのである。
燕貞が、空を見上げた。
「天気が怪しいですね。……方術士様?」
彼が振り向いた視線の先で、昂宇は瓦礫の中から板を二枚探し出していた。山型にバランスを取って立てると、それを屋根に見立てて、狐の像を中に置く。金属製の線香立ても見つけ出して、狐の前に置いた。
簡易的にだが、狐仙堂を直したのだ。
「これでひとまず、我慢してください。……あれ? この、祭壇についた傷」
「方術士様」
やや声を強め、燕貞が言った。
「一雨来そうです。そろそろ戻りましょう」
「燕貞さん、僕はやることがあるので、もう少しここにいます」
今度はザッと瓦礫を避け、地面を露出させる。
「あの、やること、とは?」
戸惑う燕貞の前で、昂宇は座り込んだ。目の前に紙製の霊符をパンと置き、懐から取り出した数珠を左手にジャッと巻きつける。
「原因を、さっさと突き止めてしまいたい。狐仙には縁がありましてね。狐仙堂をこんなふうにされると、少々怒りを覚えるんですよ。燕貞さんは戻っていてください」
「い、いえ、そういうわけにも……」
燕貞はもごもご言いつつ、彼を見守っている。
昂宇の心には一匹の、いや、一人の女性の姿があった。
胡魅音だ。
魅音は県令(県知事)の家で働く下女で、れっきとした人間の女性だ。しかし本性は狐仙で、一時的に人間に生まれ変わっている状態のため、ポンコツではあるが神通力を操る。
彼女は県令の娘の身代わりになり、今上皇帝・王俊輝の後宮に妃として入った。そして、姓は異なるが実は俊輝の従兄弟である昂宇は、密かに彼を助けて働く中で、彼女と出会った。
その当時の後宮では、先帝妃の呪いを発端とする怪異が続発していた。魅音と昂宇は協力してこれを解決することになり、絆を深めていったのだ。
事件が解決し、魅音が身代わりを終えて故郷に帰った今でも、昂宇はふとした時に考える。
(いつかまた、魅音に会えるだろうか)
昂宇は高い霊力の持ち主で、幼い頃から幽鬼が見えていた。そのためか、冥界、つまり死の世界に対して抵抗がない。
彼を知る人々は、そんな彼を「得体が知れない」「不気味」と思っているようだ。加えて、とある事情から女性が大の苦手でもあり、人間関係を築くのが極端に下手だった。
魅音はそんな壁をものともせず彼に接し、相棒と呼んでいい間柄になったのである。
数珠を巻いた左手で、昂宇は懐をそっと押さえた。
そこには、(どうしたら再び彼女と会えるだろう)と思いながら書いた、一通の手紙が入っている。
(魅音は県令の娘を可愛がっているから、相応の理由がないと天昌に呼び出すことはできない。僕には、こんな方法しか思いつかない。……いや。彼女は幸せに暮らしているはずだし、僕はもうすぐ天昌を離れるんだから、こんな文はもちろん出さないけれど)
後宮で起こった大きな事件を解決して以来、どうやら同僚たちは、彼が俊輝の身内だと薄々気づいているらしい。
とてもやりにくかったし、そろそろ太常寺での修業を終える頃合いでもあったので、人里を離れて『難』家――昂宇の姓は、本当は『南』ではなく『難』という忌み字である――の後継者としての修行に専念しよう。そう、昂宇は思っていた。
軽く首を振って、目の前のことに意識を戻す。
(最後の仕事だ、きっちりやろう)
「あの、方術士様」
背後から燕貞が、術をかける準備をしている昂宇に話しかけてきた。
「思いついたのですが、宏峰の領民の皆で、土地神様をお鎮めする祈祷をやってみるのはどうかと。今まで私一人で対処しようとしたのがいけなかったんです、皆の願いなら、土地神様も聞き届けて下さるはず」
「なるほど」
「はい、ですから、ひとまず私の屋敷でお休みになっては」
「しかし、まずは暴れたのが本当に土地神なのかどうか、確かめた方がいい」
昂宇は振り返って、誠実な口調で説明した。
「もし他の何かなら、対処方法も変わってきますから」
「他の、って……そんなわけが」
(何だろう、僕を止めたがってる?)
不思議に思いながらも、昂宇は続ける。
「まずは、土地神様をお呼びしてみますので、下がっていてください」
昂宇が手で下がるように促すと、燕貞はあちらこちらに視線を動かしていたけれど、やがて低い声で尋ねた。
「……神を、呼び出せるんですか?」
「ええ、土地神なら」
神の中にも序列があり、最底辺の土地神なら彼でも呼び出せる……とまでは、さすがに口にしなかった昂宇である。
燕貞は、それ以上は何も言わずに一歩下がった。




