34 おびき寄せられた犯人
その日の夜、亥の正刻。人定とも呼ばれる、人が寝静まる時刻になった。
林の間を抜けていく、一つの影がある。医官の助手、宮女の周笙鈴だ。
彼女は灯りの一つも持っておらず、それなのに確かな足取りで歩いていく。
なぜ夜の林をそんな風に歩けるのかと言えば、不思議なことに、彼女の胸のあたりがぼんやりと緑色に光っているからだ。その光は、手の届く程度の周囲をうっすら浮かび上がらせている。
笙鈴の顔は無表情で、下から照らされているため余計に陰影が際立ち、劇で使用される面のようだ。
やがて、彼女は象牙宮にたどり着いた。
開いたままの大門から中に入ると、二門は細く開いている。笙鈴はゆっくりと、門を両側に押し開けた。
門庁の中央に、青磁の香炉が置かれている。それは射し込んだ月明りを反射して、冷たい光を放った。
笙鈴はゆっくりと、門庁に入っていく。
すると、ちりり、と、香炉が震えるような音を立て始めた。
彼女が一歩一歩、香炉に近づいていくと、まるで香炉の中で何かが燃えているかのように、黒い靄が漏れ出てくる。ちりちりという震えは、だんだん激しくなった。
やがて、笙鈴が香炉の目の前に立った時、香炉はふわりと宙に浮かんだ。開いた蓋と本体が靄で繋がり、近づいたり離れたりしている。
笙鈴は微笑んだ。
「自分から出てきたの? あなたの存在、後宮中に知ってもらいましょうね。私が力をあげ……っ⁉」
すっ、と音もなく、回廊の左手から門庁に入って来たのは、魅音だった。
魅音は両手を伸ばし、香炉の蓋と本体をそれぞれ掴むと、そっと蓋を閉じる。香炉はまだチリチリと音を立ててはいるが、おとなしい。
魅音は笙鈴をまっすぐ見つめた。
「悪いわね笙鈴。この香炉は、私がここに置いたの」
「…………」
笙鈴は驚いてはいるようだったが、表情に動揺は見られない。
魅音は一歩下がり、門庁の壁際の段差に香炉を置くと、再び向き直った。
「その、懐に入れているものは何? 見せてくれる?」
黙ったまま、笙鈴は胸元に手を入れると、緑色に光るものを取り出した。
孔雀を模した、髪飾りだ。繊細な金細工に緑の彩色が施してあり、右を向いた孔雀の目と、広がった三枚の尾羽には珍珠の粒が埋め込まれている。
「珍貴妃の髪飾りよね。どうして笙鈴が、それを持っているの?」
「私、これに、呼ばれたんです」
笙鈴は淡々と答えた。
「後宮に来て、働き始めた時、まだ珍珠宮は取り壊されていませんでした。近くを通りかかったら、呼ばれたんです」
(やっぱり、霊感の強い笙鈴は引き寄せられてしまったのね)
魅音は思いながら、片手を差し出した。
「それ、こちらに渡してもらえる?」
すると、笙鈴は悲し気に微笑んだ。
「そうですね。もう、お渡ししないと」
『ならんぞ』
不意に声がして、髪飾りの光が明るくなったと思うと、笙鈴の背後にもう一つの姿が現れた。
真っ白な襦裙を身にまとった女性だ。その姿はややぼやけているが、光のない穴のような黒い目と、くっきりと赤い唇が目立つ。
結い上げた髪は崩れかけていたが、頭の左側に、左を向いた孔雀の髪飾りがあった。
笙鈴が「貴妃様」と呼びかけた。
(貴妃……これが、珍貴妃の怨霊か!)
魅音は警戒する。
(鎮魂の儀式で力が弱められてさえ、形を保っている。相当強い怨念ね。笙鈴を利用して妖怪や怨霊を目覚めさせることで、力を得ていったからか)
珍貴妃の唇が動いた。
『ならんぞ笙鈴。我を渡してはならん』
「でも」
笙鈴が半分振り向くと、珍貴妃は答える。
『我らの目的は、まだ達せられていない。お前は、早く、お前の妹を目覚めさせたいのであろう? そのために、我の力を願ったのだものな?』
「…………ええ。そうです」
その声は、落ち着き払っている。
(力を、願った⁉ 笙鈴と珍貴妃が、協力し合っている……⁉)
思わず魅音が絶句する前で、笙鈴は微笑みを消さないまま、右向きの孔雀の髪飾りを胸元に戻した。
「申し訳ありません、魅音様。もう少しだけ、お待ちください。きっと、もう少しだと思いますので」
「……何が?」
「死んだ春鈴が、幽鬼としてよみがえるのが、です」
胸元から出した笙鈴の手に、今度は違うものが握られている。
それは、杼だった。織機で布を織る時、経糸の間に緯糸を通すのに使う道具である。両手に乗る程度の大きさで、舟のような形をしており、真ん中に穴が開いていて糸巻きをはめ込んであった。
「春鈴は、私の妹です。尚功局で働いていたはずなのに、行方不明になりました。私は春鈴を探すために後宮に来ました」
ここまでは、魅音たちが推測していた通りだ。しかし笙鈴は、杼を大事そうに撫でながら続ける。
「これは、あの子が大事にしていた杼です。後宮内の祠で見つけました。誰かが供えたんでしょう。あの子はきっと、死んでしまった」
「……理由は、わからないままなの?」
静かに魅音が尋ねると、笙鈴はただ、首を横に振る。
「そう……。その杼には、春鈴の魂は残っていなかったの?」
「ええ。少しも。だって、俊輝様が……陛下があの子を、消してしまわれたんだもの」
「えっ」
「えっ」
どこかから男の声もした。昴宇だろうか。
「ひどいですよね。まさか、後宮中の宮や殿舎、全て清めて祓って消し去ってしまうなんて。春鈴は、優しくておとなしくて怖がりな子でしたから、幽鬼として存在したくても儀式になど耐えられなかったのだわ。儀式の前に春鈴を探してくれていたら……でも、下級の宮女が一人姿を消したところで、陛下にとってはとるにたらないことなのでしょう」
笙鈴はゆっくりと、春鈴の形見の杼を胸に抱きしめる。
「だから私、珍貴妃様のお力を借りて、あの子の身体を見つけるんです。しゃれこうべには、人の魂が残る。あの子の最後の言葉、聞いてあげないと」
「それが、目的なの?」
「はい。強い霊力を持つ存在につられて集まる弱い者たちは、強い者から力をもらって自分も強くなるんですって。つまり、後宮に再び妖怪や幽鬼たちが集まれば、か弱い春鈴の魂も、目覚めるはず」
微笑む笙鈴の手から、いつの間にか杼は消えている。
頬のあたりにピリッとした感覚があり、魅音は身構えた。彼女でさえ感じる、重い、重い霊力が、目の前の笙鈴からじわりと漏れ出している。
「どこかで眠っている春鈴の幽鬼が、きっと力を得て、姿を現してくれる。あの子が解き放たれるまで、終わらせはしない。忘れさせはしない」
(聞き覚えのある言葉……そうだ、鏡と一体化していた伊褒妃の言葉だ。彼女も珍貴妃の霊力によって目覚め、そして笙鈴と同じことを望んだのね。女たちを、救おうと)
そう思った魅音の目の前で、笙鈴の全身の輪郭がブレたかと思うと、襦の前がふわりと開いた。
細い身体の、胃があるあたりに、ぽっかりと穴が開いている。
そしてその穴の中央に、糸を巻いた管が浮いていた。
(杼と、一体化している)
まっすぐに笙鈴の目を見つめ、魅音は一歩踏み出した。
「笙鈴。このままじゃ妖怪になる。人間に戻れなくなるよ」
「私は構いません」
「それならまあ私も構わないんだけど」
うっかり言った彼女の背後で「魅音!」と昴宇が突っ込むのが聞こえ、あわてて言い直す。
「人間とケンカしないなら構わない、っていう意味だからね? でも、珍貴妃の影響を受けたら、いずれ利用されて人間と戦わされる」
しかし、笙鈴の答えはためらいがない。
「その時は、私のことも封じて消し去って下さい」
「あなたは私の恩人。そんなこと、できるわけないでしょ!」
二人の繋がりを断ち切ろうと、魅音は珍貴妃の方に一歩踏み込み、髪飾りを奪おうとした。
その前に、笙鈴が割り込む。
「邪魔なさるのであれば、たとえ魅音様でも容赦はいたしません!」
笙鈴の胴の糸巻きが、ぎゅるるる、と回った。
残り5話、土曜の夜に完結します。ぜひ最後までお付き合い下さい。




