22 天雪の内緒話
朝食を終え、魅音は立ち上がった。
「さてと。それじゃ、尚宮局に資料を取りに行ってきまーす」
「おおおお待ちくださいっ、お供しますからっ!」
すぐに一人で行動しようとする魅音を、あたふたと雨桐は止め、他の宮女に朝食の片づけを命じて急いでついてきた。
(妃、面倒くさっ! あー、でも私も、翠蘭お嬢さんの外出には付き添うもんな。そういうものだと思おう)
立場が変わったのだから、と自らに言い聞かせる魅音である。
花籃宮から尚宮局に向かう途中で、美しい庭園を通りかかった。
昔の高名な詩人が設計したという庭園で、池を囲む回廊を歩いていくと、緑の鮮やかな築山に風雅な四阿が建っているのが見える。どういった仕組みなのか、その脇の岩場に水が引き上げられ、小さな滝ができていた。さあああ、と水が落ちる音、きらきらと反射する陽光が、耳と目を楽しませてくれる。
「魅音!」
声がして振り向くと、池を挟んだ向こう側、美しく手入れされた樹木の陰で、天雪が小さく手を振っていた。二人の侍女が付き添っているところは、『嬪』の天雪と『婦』の魅音の違いだろうか。
「天雪! お散歩?」
「そうなんです! いいお天気ですから!」
そういった天雪は、一瞬だけ何か考える様子を見せたけれど、すぐに再び口を開いた。
「ねぇ魅音、私の宮に寄っていきませんか?」
「え、今から?」
「はい、来て下さい!」
魅音から見て左手の方を指さした天雪は、ふわふわと手を振ってから、足早に歩き出した。侍女たちが後に続く。
天雪が向かう方には、瑠璃瓦の屋根が見えていた。
(あ、そういえばあそこが天雪の宮、角杯宮かぁ)
思った魅音は、雨桐を振り向いた。
「ちょっとだけ寄るわ。角杯宮も、かつては先帝の妃たちが使っていたわけでしょ。見ておきたい」
雨桐は心配そうに、眉をひそめる。
「そうですね、『嬪』のお妃様方がいらした宮ですが……魅音様、お気をつけ下さいね」
「あれ、心配してくれるの?」
「天雪様に被害が及ばないように気をつけて下さいね、という意味です」
「へーい」
そっちかーい、と魅音が思っていると、雨桐は微笑んだ。
「魅音様なら大丈夫だと、ご信頼申し上げておりますから」
「あらそう? まあ当然ね!」
あっさりと納得し、魅音は胸を張って歩き出した。
角杯宮に入ると、縁起のいい犀角の杯が描かれた壁絵が魅音たちを迎えた。この宮の一角で、天雪は暮らしている。
「すっきりした、綺麗な宮。ごてごてしているより好きだわ、私」
天雪の部屋を見回して魅音が正直な感想を言うと、彼女は微笑んだ。
「ふふ、私も気に入ってます。急にお誘いしてごめんなさい。魅音にはまだ、遊びに来てもらってなかったから。早くお呼びしたかったんだけど……」
何か言いかけて、天雪はちょっと後ろめたそうに視線を逸らす。
見ると、お茶の用意をしている数人の侍女の視線が、魅音たちをかすめていった。
袖の陰でクスッと笑って、天雪は魅音にだけ聞こえるようにささやく。
「魅音が陛下に名前をいただいたものだから、侍女たちがピリピリしているのです」
「あぁー」
数少ない妃のうち、誰が最も俊輝の寵愛を受けるのか、侍女たちは気になるらしい。よく、地位の高い者が気に入りの者に名を与えることがあるので、魅音は俊輝のお気に入りなのではないかと思ったのだろう。
(めんどくさ!)
とにかく、侍女らがそんな様子なので、天雪も魅音を誘いにくかったようだ。
「偶然会えたから『今だ!』って誘っちゃいました」
侍女が部屋を出ていくのを確認してから、彼女は聞く。
「魅音は、気になりますか? そういう、競争? とか」
「全然」
即答すると、天雪はコロコロと笑う。
「私も! 美朱様はもちろん、青霞とも魅音とも競争するつもりなんてありませんの。たぶん私、そんなに長くは後宮におりませんし。聞いてらっしゃいます?」
彼女自身、自分が体裁を整えるために送り込まれたことを理解しているらしい。
「うん、まあ、ちらっと聞いたけど。でももし、陛下が天雪をお気に召したらどうするの?」
「えー、うーん。想像できないですね。昔から、俊輝様……陛下はお兄様のお友達なので、私も顔見知りですし。妃にはなりましたけど、親戚みたいな感じなんです」
先帝を討つ時、天雪の兄の白将軍は、俊輝とともに立った。そして今は禁軍大将軍として、皇帝を支えている。
天雪は魅音に茶を勧め、自分も茶杯を手にしながら続けた。
「それに陛下の方こそ、おそらくそんなに長くは……」
「えっ」
魅音はぎょっとして、茶杯を取り落としそうになった。
(この文脈で「そんなに長くは」って? そんなに長くは皇帝の地位にいないという意味⁉)
「ちょっと天雪、それって……?」
「あっ、ご病気とかではないですよ? 魅音は、お妃競争しないんですよね? だから、伝えておこうと思っていて。あのね、お兄様がおっしゃってたんですわ」
天雪はますます、声を低める。
「陛下は、自分の他に、皇帝にしたいお方がおいでなのですって。その方が即位するまでに、国を立て直したいのだと」
「皇帝にしたい人……? そう、白将軍がおっしゃったの?」
(その妹が聞いた話なら、信ぴょう性は高いわ。陛下は本当にそう言ったんでしょうね)
魅音はすんなり納得する。
「あー、なるほどねー。皇帝の座を近々お降りになる予定だから、即位式も略式だし後宮も間に合わせなのね。ただのどケチであそばされたわけじゃなかったんだ」
「どケチであそばされ……!」
ツボに入ったのか、天雪は噴き出してしまった。笑いながら涙を拭いている。
「もう、魅音ったら!」
「……ねぇ天雪。美朱妃には、言わない方がいいと思うわよ、このこと」
美朱には、俊輝のために後宮をまとめようという気概もあるし、戸部尚書によって送り込まれた妃なので、自分が間に合わせだなどとは露ほども思っていないはずだ。矜持を傷つけるようなことはしたくなかった。
笑いを収めた天雪は、うなずく。
「ええ、言いません。でも陛下は、妃たちのことは尊重するとおっしゃっていたそうですから、その時が来ても心配しないようにって、お兄様が」
「わかった、ありがとう。私は聞いておいてよかったわ」
俊輝には、きちんと体裁を整えるつもりはあるのだろう。
(それこそ、仮病でもなんでも使って譲位すればいいわよね。って、私じゃないんだから)
思っていると、茶杯を置いた天雪が不意に両手を打ち合わせた。
「そうだわ魅音、遊びませんか? 私、面白い遊戯を手に入れたの!」
立ち上がろうとする彼女を、魅音は片手を軽く上げて止める。
「ごめん天雪、この後に用事があって」
「まあ、残念」
「次はちゃんと約束して、たーっぷり遊びましょ」
魅音は立ち上がりながら、さりげなく続ける。
「そういえば、未だに後宮の怪異の噂が流れてるわね」
「ええ、色々と聞きますね」
「天雪は怖くない?」
「そうですね、私はそういうのがたぶん『見えない』んですわ。幼い頃から、鬼火ひとつ見たことがありませんし、変な気配を感じたこともないし」
天雪は、いわゆる霊感が全くないらしい。
「なるほど。この宮で、おかしな事が起こったりもしてない?」
「ちっとも。まあ、見えないのでわかりませんけれど、私は知りません」
(あれこれ起こってる割に、天雪の宮は無事ってことかしら。まあ、何もないに越したことはないけれど)
魅音は思いながらも、軽く念を押す。
「何か変だなって、ちょっとでも思ったら言ってよ? 美朱妃に相談してもいいし」
「わかりました。心配してくれてありがとう、魅音」
どこまでもほんわかした天雪であった。




