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狐仙さまにはお見通し-かりそめ後宮異聞譚-  作者: 遊森謡子
1-4 狐仙妃、螺鈿(らでん)の鏡から妃を救う
20/71

20 『忘れさせはしない』

 闇の中、人に見つからないように、建物の裏や藪のある場所を縫って珊瑚宮に急ぐ。

 ようやく宮を照らす篝火が見えたところで、魅音の大きな耳はごく微かな悲鳴を捉えた。

(美朱⁉)

 今度は庭から廊下めがけて飛び上がる。欄干を越え、廊下に降り立った時には、彼女は人間の姿に戻っていた。

 美朱の寝室に飛び込む。

「あっ⁉」

 天井から、色鮮やかな紐が何本も垂れ下がっている。その紐にからめ取られ、美朱のすらりとした身体が、宙に浮いていた。

 芸術的とも言えるほど美しいのは色彩だけで、ぞろぞろした紐が常におぞましく生き物のようにうごめいている。紐は女性用の腰紐で、美朱の足を、手を、そして首を締め上げようとしていた。彼女の手が首元を弱々しく掻き、涙の滲む目が魅音を見た。

 唇が喘ぐ。

「……か、はっ」

(あれは)

 はっ、と見上げると、天井近くにあの鏡が浮いていた。紐は、鏡の中から幾本も垂れて、美朱を吊っているのだ。

(やっぱり。勝手に珊瑚宮に戻ってた)

 紐と一緒に、鏡の中から、にゅ……と女の白い顔が現れた。吊り上げた美朱の、苦しげな顔をのぞきこむ目元には、ほくろが一つ。

『かわいそうに。こんなところに囚われて』

 割れた声は震え、奇妙なほどいたわしげだ。美朱は恐ろしさのあまりか、目を閉じることもできずにその顔を見つめている。

 女の顔は、ニィ、と笑った。

『さあ、私と逝きましょう。痛くも苦しくもない、もう二度とひどい目に遭わされることなんて、ないところへ……』

「うぐっ」

 美朱の手が震える。

 魅音は右手の人差し指と中指を揃え、眉間に置いて力を籠めた。一気に、霊力を解放する。

 ぴん、と三角の耳が頭に現れ、ふぁさっと尻尾が飛び出した。

「ものども、かかれ!」

 いきなり、部屋の中に何十匹ものネズミたちが駆け込んできた。魅音の発した霊力に惹かれ、周辺のネズミたちが一気に集まって来たのだ。先頭には、いつやってきたのか、白黒まだらの小丸がいる。

 チュウチュウと騒がしい鳴き声を上げながら、ネズミたちは寝台に飛び乗ると、更に飛び上がった。鏡と美朱を繋ぐ紐に、次々とぶら下がってかじりつく。

 数の強さは圧倒的で、紐はあっというまにボロボロに食いちぎられた。

「あっ」

 美朱の身体が、ドッ、と床に落ちた。げほっ、ごほっ、とせき込む声がする。

「あ、あぁ、陶、げほっ」

「下がって、美朱」

 魅音は美朱の無事を確かめると、鏡に向き直った。

 女の顔が悔しげにゆがみ、鏡の中に消える。

 その直後、新たに鏡から飛び出してきた腰紐が、魅音の手首に巻きついた。

「うっ」

 首にも一本、絡みついてくる。紐を掴み、魅音は耐えた。

(昴宇、まだ⁉)

 そこへようやく、情けない声が外から聞こえてきた。

「た、頼もう!」

 侍女が誰何する声がする。

「誰ですか、こんな時間に! 無礼ですよ!」

「ぼ、僕は翠蘭様のお付きの……ひっ、近寄らないで下さいっ! あ、あなた方の主が危険です、通りますよ!」

 侍女と言い争う声がしたあと、昴宇が飛び込んでくる。

「魅音!」

 彼は状況を目にするなり、何かが切り替わったかのように表情を引き締めると、胸元からすばやく霊符を取り出した。

「今、助けます!」

 魅音はがっちりと紐を掴んだまま、にこっと笑った。

「ありがとう。でもこれ、捕まってるんじゃなくて捕まえてるの」

 その言葉を、理解したのか。

 急に、ふっ、と紐の力が緩んだ。急いで彼女から離れ、引っ込もうとする。

 が、魅音の方は紐をしっかりと握ったまま、逆に引っ張った。鏡が、じわり、と彼女に近づく。

「そのまま!」

 昴宇は言いながらも、霊符を右手の人差し指と中指で挟み、構えた。

『離して……!』

 悲鳴混じりの声が聞こえたけれど、昴宇はお構いなしに唱える。

(たく)!」

 キン、という硬質な音がして、鏡が大きく跳ねた。

 そして、フッ、と力を失い、寝台にぽとりと落ちる。

 昴宇が駆け寄ると、バシッと鏡に札を叩きつけた。

 気がつくと、腰紐は二、三本が床に落ちているだけで、他は綺麗さっぱり消え去っていた。ネズミたちが、潮が引くようにサーッと姿を消していく。

 美朱が呆然と、部屋の中を見回している。

「……ネズミ……たくさんのネズミが」

「え、そんなのいました? 幻でも見たんじゃないですか?」

 強い言い切りが、魅音の武器である。堂々とすっとぼけながら、耳と尻尾を素早くひっこめた。

 美朱が、魅音の顔を見上げる。

「……陶、翠蘭……い、今の、あの鏡」

 真っ青な顔をした美朱は震えている。魅音は彼女の前に膝をついた。

「魅音でいいわ……じゃなかった、魅音とお呼び下さい。危なかったですね」

「魅音……!」

 いきなり、美朱が抱きついてきた。

「わっ」

 尻餅をついた魅音の首っ玉にしがみつき、美朱はボロボロと涙をこぼす。

「こわ、怖かった……!」

(あらら、翠蘭お嬢さんみたい。こわいゆめをみたのーって)

「よしよし。もう大丈夫ですからねー」

 優しく抱きしめ返し、ぽんぽんと背中を叩いてやると、美朱は涙混じりに叫ぶ。

「な、何なの、あれは、何だったのよぉ!」

「わかりません。ですから、彼女の話を聞いてみましょう」

 真っ赤な目をして、美朱は顔を上げる。

「話? だ、誰の?」

「彼女です」

 振り向くと、昴宇は長い数珠を絡みつけた両手で、鏡を捧げ持っていた。数珠は、怨霊や妖怪から身を護る力を持つらしい。

 彼は魅音を見てうなずくと、鏡面に貼ってあった札をピッと取った。美朱がビクッと身体を竦ませて、魅音の肩にしがみつく。

 鏡面に、ふっ、と女の顔が現れた。半分目を閉じた彼女は、朦朧としているようだ。

 魅音は、静かに命じた。

「名乗れ」

 たとえ生前は皇帝の妃でも、今はモノにとり憑いて存在を保っているにすぎない。昴宇のような方術士にすらかなわないか弱い怨霊は、無意識に魅音を上位と認めた。

 女の唇がうっすらと開き、ささやくような声が漏れる。

『私の名は……(ちょう)伊褒(いほう)と……申します』

「伊褒。なぜ、この人を襲った?」

『襲ってなど……こんなところにいたら、いけません……痛くて、苦しいことをされる。だったら、いっそ……』

 つぶやくように言った伊褒は、うっすらと目を開いた。

『助けないと。全ての女たちが解き放たれるまで、終わらせはしない。忘れさせはしない』

 霧が立ちこめたかのように、鏡は白くなっていく。

『救い出さないと……』

 やがて、元のように部屋を映しだしたころには、女の顔は消えていた。

 魅音は振り向く。

「美朱。聞こえた?」

「あっ、ええ、あの、だ、だいたいは。張、伊褒? とか」

 美朱は半ば呆然としているが、何となくでも今の状況を理解しているだけ剛胆な方である。

「張伊褒という名前、聞き覚えはある?」

「あの、名前だけは。先帝時代に、この珊瑚宮にいらした……張賢妃のことだと思うわ」

 美朱の前に『賢妃』だった妃だ。

「先帝に怪我をさせられて、それが元でお亡くなりになった……とか。でも、ちゃんと弔われたはずだし、珊瑚宮も清められて変な噂などもないと聞いたから、私、ここに住むことにしたのに」

「そう。それなのに、最近になってこんなことが起こったのね。……まあ、もう今日は遅いから、調べるのは明日にしましょう」

「足が、足が痛いわ。擦りむいて……ねぇ、ちょっと」

 ようやく落ち着いてきた美朱は、侍女を呼んだ。

「医局にいる、笙鈴という助手を呼んで。騒ぎにならないように、何か適当な理由をつけてね」

 年かさの侍女が「かしこまりました」と頭を下げ、部屋の隅にいる昴宇をジロリとにらんでから出ていく。先ほど入口で揉めたからだろう。

(そういえば昴宇って、年齢関係なく女が苦手なのね)

 頭の隅でそんなことを思いつつ、魅音は美朱に向き直った。

「笙鈴をご存じなのね。私も、アザの時にお世話になりました」

「仕事熱心な宮女だわ。定期的に体調を見にくるようにすると言っていたし」

 美朱はうなずく。

(笙鈴は霊感が強いから、まだ何かあればきっと美朱に教えてくれるわね)

 魅音は思いながら続ける。

「ありがたいですね。さてと……美朱、鏡はこちらで引き取りますね」

「え、ええ、持って行って。私はいらない。もう見たくないわ」

「そうでしょうとも。じゃあ、私は花籃宮に戻るので、何かあったら」

「いや!」

 いきなり美朱に袖を引っ張られて、魅音はずっこけそうになった。

「わっとっと」

「魅音はここにいて!」

 美朱は必死の形相だ。

「今夜は私と一晩中一緒にいるのよ、いい⁉」

「私がですか? え、でも、もう大丈夫だと思いますよ?」

 そう答えてみたけれど、美朱は真っ赤な顔で言い募る。

「い、いいから泊まっていきなさい! そう、助けてもらいましたからね、明日の朝食は珊瑚宮でもてなして差し上げるわ。だから泊まりなさいって言ってるの!」

(おやおや。あんなにツンツンしてたのに……かっわゆーい)

 ニヤッとしてしまいそうなのを抑え、魅音はサラリとお願いした。

「あ、じゃあ私、朝食にゆで卵が食べたいです。……昴宇、この鏡だけど、どうする?」

 振り向くと、昴宇は美朱からなるべく遠いところを通って魅音に近づき、へっぴり腰で手を伸ばしてきた。

「出所を、詳しく、調べましょう」

 鏡を受け取って、ササーッと出て行く。

 やがて侍女が笙鈴をつれて現れ、ようやく空気が落ち着いたのだった。

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