19 螺鈿の鏡に映るもの
「あっ、失礼」
魅音は、手にしていた扇をわざと落とし、拾い上げようと屈み込んだ。その隙に、軽い舌打ちをして合図する。
足下に、小さな気配がちょこちょこと駆け寄ってきた。小丸だ。
(小丸、隣の部屋を見てきて)
目を見て念じると、彼はすぐに走り去っていった。
身体を起こした魅音は、軽く眉間を押さえる。
「そんな恐ろしいことがあったので、最近、寝つきが悪くて」
目を閉じると、小丸の視界が瞼に映った。
隣の部屋は、美朱の寝室のようだ。左の窓際には寝台、その反対側には飾り棚がある。
互い違いになった棚の一つに、何か丸くて平べったいものが飾られていた。布がかけられている。
(せっかく飾っているのに、どうして隠してるのかしら。……よし)
カッ、と目を見開いた魅音は、わざと音を立ててバッと立ち上がった。
「きゃっ」
美朱がビクッとして魅音を見上げる。
「な、何⁉」
「今、隣の部屋から声がしませんでしたか⁉」
「えっ……わ、私は別に何も聞こえな」
「しましたよね⁉」
「い、言われてみれば、聞こえたようなそうでもないような」
声を震わせる彼女に、魅音は尋ねる。
「隣、どなたかいらっしゃるんですか?」
「いないわ、いないわよ」
「本当に? じゃあ声がするなんておかしいわ。美朱様、下がっていて下さい。私、確認して参ります!」
魅音は迫真の演技で、きりっとした表情を作って見せた。そして、ゆっくり、ゆっくりと隣の部屋に近づいた。
背後で、美朱が息を呑むのがわかる。
おずおずと両手を伸ばし(本当は怖くないのだが)、戸に手をかけ、一呼吸。
魅音は一気に、両開きの戸を開け放った。
美しく整えられた寝室だ。当たり前のことながら、誰もいない。小丸は部屋の隅に隠れたようだ。
「……陶翠蘭? ど、どうなの? 誰もいないでしょ?」
後ろから、美朱の弱々しい声がする。魅音は深刻そうに返事をした。
「誰も、おりませんね……じゃあ、どうして声なんて」
振り向くと、彼女は申し出た。
「実は私、少しですけど、霊感があるんです。どうも、あの飾り棚のあたりに妙な雰囲気を感じます」
「えっ」
「拝見してもよろしいですね?」
堂々と聞くと、美朱はひるんだ。
「か、勝手にすれば」
「では、遠慮なく!」
近づいて、さっさと布を取る。
持ち手のある、丸い鏡だ。玻璃を使ってあるようで、魅音の顔がくっきりと映っている。
手にとって背面を見てみると、黒漆に細やかな螺鈿の花が咲いていた。
「うわ、立派な品ですね。これはどういった品なんですか?」
「知らないわっ。いつの間にか、そこに置かれていたのよ」
美朱はひたすら目を逸らし、鏡を見ようとしない。
「きっと、前からここにあったんでしょ。う、映りがよくないから使っていないの! こっちに向けないで!」
(映りがよくない? こんなに綺麗に映るのに)
魅音はそっと鏡を元の位置に戻し、布をかけると、美朱に向き直った。
「何か、あったんですね?」
「……」
「…………」
黙って待っていると、美朱はとうとう根負けしたのか、口を開いた。
「…………………何日か、前の夜に。いつの間にか、布が勝手に落ちていて。一瞬、知らない人の顔が、映ったような」
「知らない人」
「女性で……目元にほくろが……で、でも見間違いかも。その時だけよ」
「その時だけ? 見たのは一度だけ、ってことですか?」
「……二度、かも……」
(三度以上ありそうね)
それで怖くて、布をかけたままにしているのだろう。
魅音は申し出た。
「調べてみたいのですが、この鏡、お借りしてもよろしいでしょうか?」
美朱は、気を取り直したようにツンと顎を上げた。
「え、ええどうぞ。それで気が済むなら、持って行けば?」
「ありがとうございます、それでは」
(何かわかるかもしれないし、昴宇に見せよう)
鏡を布で包んでいると、美朱は肩をそびやかした。
「あんまり大げさに騒がないでちょうだいね。先帝の妃たちはお気の毒だったけれど、弔いも済んでいるし、妃たちが恨むとすれば先帝と珍貴妃でしょう? お二人ともすでにこの世にはいないのだから。私には関係ないわ!」
花籃宮に戻ると、魅音はいったん鏡を寝室に置いて、昴宇を待った。
昴宇は、普段は皇城で働いている。本来の、方術士の下っ端としての仕事をしているのだ。後宮にもちょいちょいやってくるのだが、今日は夜に来ると言っていた。
「遅いねぇ、小丸」
食事しながら、同じ卓子で松の実をポリポリ食べている小丸に話しかける。
「ま、昴宇ってあんまり要領よくなさそうだもんね。細かいこといちいち気にして仕事が進まないとかさ。それで時間かかってるのかもね?」
給仕している雨桐が一瞬クスッと笑い、あわてて表情を取り繕った。
食後のお茶を飲み始めても、昴宇は戻ってこない。
「ふぁ……」
あくびが出て、もう今日は寝てしまおうかと思い始めた頃、ようやく回廊をやってくる足音がした。
「失礼します」
昴宇が顔を見せる。
「遅いー。用があって待ってたのよ」
「申し訳ない、仕事がなかなか片づかず」
よほど疲れているのか、目の周りが落ちくぼんで見える昴宇は、ため息をついた。
同情した魅音は、すぐに話を切り替える。
「ちょっと見て欲しいものがあるのよ。何でもなければいいけど、昴宇でもわかるほどヤバかったら早めに対処しないといけないから」
「僕でも、ってどういう意味ですか」
昴宇のぼやきを背中に聞きながら、彼女は寝室に鏡を取りに行った。
「…………あれ?」
置いたはずの棚の上に、鏡がない。かけてあった布だけが、くしゃっと丸まって残されている。
「雨桐、寝室にあった鏡を知らない?」
キョロキョロしながら言うと、背後から不思議そうに雨桐が入って来る。
「私は触っておりませんが」
「鏡、ですか?」
昴宇の声に、あちらこちら覗きながら魅音は答えた。
「美朱妃のところから借りてきたのよ。珊瑚宮にいつの間にか置いてあって、知らない女が映ったことが――」
言いかけた魅音は、言葉を切る。
寝室の格子窓が、細く開いていた。
サッとさらに押し開いて外を覗くと、窓の下の地面に何か引きずった跡があった。奥の闇の中へと続いている。
「……私、珊瑚宮に行ってくる!」
魅音は言い放つなり、外の回廊に飛び出した。
「えっ、魅音、待っ――」
「昴宇、後から来て!」
回廊の欄干に手をかけ、内院に飛び降りた時には、魅音はすでに白い狐の姿に変わっていた。




