9/7→9/18 もっと早く、さらに遠く、ずっと高く、はるか先へ
9/7 木曜日 AM11:00
『引継ぎ』は読み終みおわった。完成したプロットも読んだ。
これは、すごいぞ。プロットを見る限りは衝撃的な展開で熱い。よし、書いてやる。今から『この』俺がこの小説を書いてやる。
終盤の展開を変えたことで、小説全体を大きく改稿する必要があるし、ある意味最初から書き直すみたいなものだ。書きかけている10万文字近い原稿はほぼ全部ボツということになるが、それでもかまわない。面倒くさがりの俺が、そこまで思えた。
一行目を、書く。指先が自然にPCのキーに吸い付いていく。近くでやっている道路工事の音がいつの間にか聞こえなくなり、ただ、頭の中にあったものがテキストに姿を変えていく快感だけが響く。まるで、オートマティックの執筆機械にでもなってしまったかのように、早い。
不思議な感覚だった。
仏師は、木の中に掘るべき仏の姿を見出し、木を削ってそれを出してあげる感覚があるというが、もしかしたらこれはそれに近いのかもしれない。
この物語は、すでにある。世界の中に、いつかの時代に。それをただ掘り出しているだけ。
理論的に考えればそんなわけはない。小説を書くというのは、形を決めて、それにそって言葉を積み上げていくもののはずだ。そのはずなのに、逆に感じる。そぎ落として形を表していくようなこんな感覚は、初めてだった。いや、初めてに覚えた。
なんでだろう。例の症状のせいでプロットに時間をかけすぎて、無意識に物語が定着してしまっているからだろうかそれとも。
いや、もうどうでもいい。俺はただ書く。掘るように、むき出しにしていくように、顕在化させていく。もう、キーを叩く音さえも消えてしまった。
書く。書く。書く。
「お兄」
書く、書いて、消して、書いて。読んで、書く。
「お兄」
そうか。ここの描写はカットでいいな。無駄なものはいらない。一文字たりともだ。進め進め、もっと早く、さらに遠く、ずっと高く、はるか先へ。
エンディングに向けて、進め。
「お兄ってば!!」
肩をゆすられ、俺はいやいや帰ってきた。別に気が付いていなかったわけじゃない。悪いな、とは思いつつ、もう少しだけ、と思って無視していただけだ。ほんの五分くらいいいだろ。振り返れば、そこには見覚えのあるようなないような女がいた。
「……おお。え、日向、か……? お前、変わったなちょっとびっくり……」
「それはもういいって言ってんじゃん。……なんかすごい書いてたね」
日向は大袈裟に溜息をつき、両の手のひらを上にむけて『やれやれ』あるいは『Oh No……』のジェスチャーを取った。なんだそれアメリカのシチュエーションコメディか。
「ああ、そうか今日木曜か。毎週来くれてんだって? どうもな」
「そーだよ。なのになんで一時間も無視してるし。なんなの?」
「す、すまん……」
「暇だったから漫画二冊も読み終わったし」
「だからすまんって」
「ありえなくない?」
日向の悪態は止まらなかったが、あまり怒っているようには見えなかった。拗ねているようでもあるが、これはなにか笑いそうなのを我慢しているときの顔だ。10年付き合っている兄にはわかる
「で? 今日はどうする? なんか買い物とか用事あれば付き合うけど」
「あー……、そうだな」
動かしてこそいないが、指先はキーボードに触れたまま、俺は思案した。俺のここ二年間の生活がなんとか回っているのは、日向の助けによるものが大きいのだろうということはわかっているし、生活必需品だとか税金関係の手続きだとか、なんかの支払いとか、そういう用事はきっとある。しかし、俺は今日は外出したくなかった。この、俺の目の前にある箱のなかで広がりつつある世界にだけ、浸かっていたかった。
「……なに。なんも用事ないわけ? だったら来なくていいって連絡しろし」
「すみません」
あ、今はちょっと怒ってるな。まあこれは明らかに俺が悪いから仕方ない。
それはつまりだな、スマホがだな、と言い訳を口に仕掛けたがやめた。すると日向はまたわざとらしいため息をつき、冷蔵庫を開けた。俺も今日初めて中を見たが、驚くほどなにも入っていない。ビールとチーズしか入っていない。ゴミ箱はインスタント食品の山である。どうやら俺はここしばらく引きこもりだった模様だ。
「はあ、これだから男の一人暮らしは」
「う、うるせぇ。男の一人暮らしがどうとかいえるくらい男知らねぇだろお前は」
「ぐ。お兄に言われたくないし。彼女出来てもいつも相手の方からふられるくせに」
兄妹の間に流れる何とも言えない沈黙。お互い完全に図星をつかれたので二の句が継げないのである。意外にも、それを破ったのは日向だった。
「……まあいいや。じゃあ、適当に食べ物とか買ってくるよ」
なんと。こいつ、大人になったなぁ……。しかもなんかゴミをまとめ始めてもいるぞ。おおすげぇ、これならそのうち彼氏くらいできるだろう。
「俺も行くか?」
「いい。どうせずっと小説のこと考えてるじゃん。なんか久しぶりにノリノリで書いてたみたいだし? ……せっかく来たのになんもしないで帰るのもなんか嫌だから」
「いや、でもさすがにそれは悪いような」
「今さらなにを。……で、なんか必要なのあるの?」
唇を尖らしぶすっとしている日向だが、それはそれで子どもらしくて可愛くなくもない。それになんだかんだてコイツは本当にいいやつだよなぁ、と思う。
「じゃあチーズバーガー20個買ってきてくれ。あと新しい手帳」
「なにそれ」
「チーズバーガーは17個冷凍しといて明日以降の主食にする。どうせ記憶なくすんだから、毎食同じでいいしな。手帳は前のヤツ無くしたっぽい」
「うぃ」
ここのうぃ、は男がやりがちな雑なうぃー、ではなくフランス語チックなほうのやつだ。なんだこいつ第二外国語ではフランス語でも取ってんのかね。ところでそろそろ俺執筆に戻っていい?
「ん。じゃあ行ってくる。……書きたいんならさっさと書けばいいじゃん」
「おう! よろしく頼むぜ!!」
「うわ。腹立つ」
言外に出ていけ、と言わんばかりのいい笑顔を向けたであろう俺にたいし、日向は腕を組んで肩をすくめた。
「んじゃこれで。お釣りはいらねーから」
「……む。気前がいいじゃん」
俺が万札を二枚渡すと、日向は少し戸惑った表情を見せた。
「おう。金で解決するのか大人だぜ」
「汚い大人だ」
「いらんのか」
「いる」
端的な会話を済ませると、日向は笑顔になり、やたらと浮かれた足取りで部屋を出て行った。
もちろん、日向が嬉しそうに出て行ったのが金銭的に得をしたからだけじゃないことを俺は知っている。あいつは優しい奴だし、俺が小説を書くのを好きなことも、最近書けていなかったことも知っているから。
そして多分日向も知っている。俺が金を渡したのは、怒っているアイツをなだめるためではなく、ただ感謝を示したかったってことも。
よし、書くとするか。いつか、いやこの先恒常的に日向の兄をやるためにも。
まあ、兄妹なんてものは、なんだかんだいってもそんなもんだと思う。うちの場合はな。
9/18 月曜日 PM8:15
世間は三連休の最終日だ。多くの人が休日を楽しみ、またそれと同じくらい多くの人が明日仕事行きたくねぇ、と嘆いているであろう今日。しかし、俺には関係ない。
ただひたすら、書いている。冷凍庫で保存されていたフィッシュバーガー22個のうち三つを消費し、ただ書いている。日が沈み、街の音が小さくなっていく中、ただカタカタと。ときどき腰が痛くなり、立ち上がってストレッチをしたり、シャワーを浴びたりするほかはずっとデスクに座っていた。
書き進むスピード自体は速い。おそらくこれは俺の人生で最速だろう。昨日も一昨日もそうだったのかもしれない。だが、それでも時間が足りないと感じる。
朝起きて、症状を知って衝撃を受け、立ち直り、引継ぎを読み終えてプロットを理解し、書きかけの文章をじっくりと読み込み、それからやっと続きを書くころにはもう一日の多くが過ぎているのだ。時間があれば、せめて記憶が二日でも持てば。
考えても仕方ない。今は、ただ書くだけだ。
ゴールは、近い。
もう終盤です。多分明日か明後日には完結すると思いますので、もう少しだけお付き合いいただければ幸いです




