エピローグ 聖人と女神のありふれた日常
あれから、七年の歳月が流れた。
高校を卒業し、俺も結月も都内の大学に進学した。そして、社会人になって三年目の春、俺たちは結婚した。今は、都心から少し離れた、日当たりの良いマンションで二人暮らしをしている。
「奏、ネクタイ、曲がってる」
玄関で靴を履こうとしていた俺に、リビングからぱたぱたとスリッパの音を立てて結月がやってきた。彼女は俺の前に立つと、慣れた手つきでネクタイを締め直し、きゅっと結び目を整えてくれる。その距離の近さに、朝の爽やかなシャンプーの香りがふわりと鼻をかすめた。
「ありがとう、結月」
「どういたしまして。はい、お弁当」
「いつも悪いな」
「いいの。奏が、私のご飯を美味しいって食べてくれるのが、一番の喜びなんだから」
そう言って微笑む彼女の顔は、高校生の頃のクールビューティーな面影を残しつつも、穏やかで、慈愛に満ちたものに変わっていた。俺だけの前で見せてくれる、世界で一番愛おしい笑顔だ。
会社へ向かう満員電車に揺られながら、俺はふと、高校時代を思い出す。
平凡で、どこにでもいるような高校生だった俺。そんな俺の人生が、大きく変わったのは高校二年の秋だった。
幼馴染だった玲愛との、突然の別れ。
彼女の幸せを願って身を引いた俺の前に現れた、学年一の美少女、天ヶ咲結月。
彼女と過ごした日々は、モノクロだった俺の世界に、鮮やかな色を与えてくれた。彼女の隣にいるだけで、平凡だったはずの日常が、キラキラと輝いて見えた。
クールに見えて、実はすごく努力家で、少し不器用で、そして、とても甘えん坊な彼女。
二人きりになると「奏」と名前を呼んで甘えてきたり、俺が会社の同僚の女性の話をしただけで、分かりやすく拗ねたり。そんな彼女のすべてが、たまらなく愛おしい。
俺は聖人なんかじゃない。ただ、結月という一人の女性を、心の底から愛している、ごく普通の男だ。彼女が俺の隣で笑っていてくれるなら、他に何もいらない。そう、本気で思える。
一方、白瀬玲愛とは、高校を卒業して以来、一度も会っていない。
風の噂で、彼女が地元の大学に進学し、そのまま地元の企業に就職したことは聞いていた。元気でやっているのだろうか。時々、そんなことを考える。
高校の最後の頃、彼女はすっかり以前の明るさを失っていた。クラスで顔を合わせても、いつも俯きがちで、俺の顔をまともに見ることができなかった。一度、下校中にばったり出くわしたことがあった。彼女は俺の顔を見るなり、びくりと肩を震わせ、小さな声で「ごめんなさい…」とだけ呟いて、走り去っていった。
あの時の、消え入りそうな声と、痛々しいほどの背中が、今でも時々、記憶の片隅をよぎることがある。
正直に言えば、気になる。幼い頃からずっと一緒に育ってきた、大切な幼馴染だったのだから。
でも、それはもう恋心ではない。アルバムの古い写真を見るような、遠い昔の記憶に対する、懐かしさに似た感情だ。今の俺の心は、結月で満たされている。他の誰かが入り込む隙間なんて、どこにもない。
その日の仕事帰り、俺は駅前のデパートに立ち寄っていた。明日は結月の誕生日。彼女が欲しがっていたネックレスを、サプライズでプレゼントしようと思ったのだ。綺麗なラッピングを施してもらい、少し浮かれた気分でデパートを出た、その時だった。
「……奏?」
聞き覚えのある、でも、少しだけ変わった響きの声に呼び止められた。
振り返ると、そこにいたのは、スーツ姿の女性だった。見慣れないはずなのに、一目で誰だか分かった。
「……玲愛か?」
「うん、久しぶり。七年ぶり、かな」
そこに立っていたのは、紛れもない白瀬玲愛だった。
高校時代よりもずっと大人びて、綺麗になっていた。でも、かつてのような太陽のような明るさはなく、どこか儚げで、落ち着いた雰囲気をまとっている。
「出張で、こっちに来てて。まさか会えるなんて思わなかったから、びっくりした」
「そうか。元気そうで、良かった」
俺がそう言うと、玲愛は自嘲気味に小さく笑った。
「元気、かな。……どうだろう。まあ、普通にやってるよ。奏は……幸せそうで、何より」
彼女の視線が、俺の左手の薬指に留まる。そこに光る結婚指輪を見て、彼女は何かを悟ったように、ふっと表情を和らげた。
「結婚、したんだね。お相手は、やっぱり……」
「ああ、天ヶ咲さんと」
「そっか。……おめでとう」
心からの祝福の言葉だった。そこにはもう、高校時代のような嫉妬や後悔の色は見えなかった。
「私ね、ずっと謝りたかったんだ」
玲愛は真っ直ぐに俺を見つめて、言った。
「あの時は、本当にごめんなさい。子供で、馬鹿で……自分のことしか考えてなかった。奏の優しさを、当たり前だと思ってた。あなたのことを、本当に深く傷つけた。……本当に、ごめんなさい」
彼女は深々と頭を下げた。その姿に、俺はもう、何も言うことができなかった。七年という歳月が、彼女を大人にし、過去の過ちと向き合わせる強さを与えたのだろう。
「もういいんだよ、玲愛。俺も、お前の気持ちに気づいてやれなかった。それに、あのことがなかったら、俺は結月とこうして一緒にはいられなかったかもしれない。だから……」
俺は、かつて彼女に言ったのと同じ言葉を、でも、全く違う意味を込めて口にした。
「ありがとうな、玲愛」
その言葉に、玲愛は顔を上げた。その瞳には、うっすらと涙が浮かんでいたが、それはもう悲しみの涙ではなかった。何かから、ようやく解放されたような、穏やかな涙だった。
「……うん。奏、元気でね。奥さんを、大切にしてあげてね」
「お前もな。幸せになれよ」
「うん」
短く手を振り、彼女は雑踏の中へと消えていった。俺は、その背中が見えなくなるまで、しばらくその場に立ち尽くしていた。胸の中にあった、小さな棘のようなものが、すうっと消えていくのを感じた。
これで、本当に、すべてが終わったんだ。
家路を急ぐ。早く、結月の顔が見たい。
マンションのドアを開けると、「おかえりなさい!」という明るい声と、美味しそうな夕食の匂いが俺を迎えてくれた。
「ただいま、結月」
リビングに入ると、結月が少し心配そうな顔で俺を見ていた。
「どうしたの、奏? 少し、ぼーっとしてたみたいだけど」
「うん、ちょっとね。昔の知り合いに、ばったり会ったんだ」
「ふーん……?」
俺が誰に会ったのか、彼女はきっと察しているだろう。それでも、何も聞かずに、ただにこりと微笑んでくれる。その信頼が、何よりも嬉しい。
「それより、明日は結月の誕生日だろ? フライングだけど……はい、これ」
俺がプレゼントの入った紙袋を差し出すと、結月は驚きに目を見開いた。
「えっ、いいの!? 開けても?」
「もちろん」
彼女は子供のようにはしゃぎながらラッピングを解き、中から出てきたネックレスのケースを見て、歓声を上げた。
「わ、これ、私が欲しかったやつ……! ありがとう、奏! すっごく嬉しい!」
満面の笑みで喜ぶ結月を、俺はそっと抱きしめる。
腕の中にある、温かい感触。これが、俺のすべて。俺が選び、手に入れた、かけがえのない日常。
「愛してるよ、結月」
「私も、愛してる。世界で一番」
二人で並んで食卓につく、ありふれた夜。
でも、このありふれた日常こそが、俺にとって何物にも代えがたい宝物なのだ。
隣で幸せそうにご飯を頬張る彼女の姿を見ながら、俺は、この幸せを一生かけて守り抜こうと、心に強く誓った。




