サイドストーリー2 天ヶ咲結月は好機を逃さない
私は、天ヶ咲結月。
周りの人たちは、私のことを「完璧超人」だとか「クールビューティー」だとか、好き勝手に呼ぶ。成績優秀、スポーツ万能、生徒会長。その肩書きが、私という人間を規定するすべてだった。
誰もが私を遠巻きに見つめ、誰も本当の私を見ようとはしなかった。期待に応え続けることは息苦しく、私はいつしか「完璧」という名の、分厚い氷の壁で自分を覆うようになっていた。それが、自分を守る唯一の手段だったから。
そんな私の世界に、小さな亀裂を入れたのは、彼──響木奏くんだった。
あれは、一年生の初夏。梅雨の晴れ間が急に崩れ、バケツをひっくり返したような土砂降りの日だった。私は生徒会の用事で少し帰りが遅くなり、昇降口から外の様子を眺めていた。迎えの車を待つ、ほんの数分の時間。
その時、校門の近くで、一人の男子生徒がずぶ濡れになっているのが見えた。それが、響木くんだった。
彼は、自分の傘を差していなかった。その傘は、彼の足元にある小さな段ボール箱に差し掛けられていた。中には、雨に濡れて震える子猫が数匹。彼はその子猫たちに向かって、優しい声で何かを語りかけている。
「大丈夫だからな。もう濡れないからな」
誰かに見せるためではない。評価を求めるためでもない。ただ純粋な、見返りを求めない善意。
その光景を見た瞬間、私の心臓が、とくん、と大きく音を立てた。
分厚い氷の壁に閉ざされていた私の心に、温かい陽の光が差し込んだような感覚。
一瞬で、心を奪われた。
これが、恋なのだと、すぐに分かった。
それから、私は遠くから彼の姿を目で追うようになった。
彼は、本当にどこにでもいる平凡な男子生徒だった。でも、彼の周りにはいつも、穏やかで優しい空気が流れていた。困っている人がいれば、当たり前のように手を差し伸べる。その善意は、誰に対しても平等だった。
そんな彼の隣には、いつも白瀬玲愛さんがいた。明るくて、快活で、太陽のような彼女。二人が恋人同士だと知った時、私は自分の心に、固く、固く蓋をした。
彼の幸せを壊す権利など、私にはない。
彼が選んだ人が、彼女なのだから。
私は、彼の視界にすら入らない、ただのクラスメイトの一人。この気持ちは、墓場まで持っていこう。彼の幸せを、遠くから静かに見守るだけでいい。
そう、自分に言い聞かせ続けてきた。
だから、二人が別れたと聞いた時、不謹慎にも心が躍り、歓喜に打ち震えたのを抑えることができなかった。
神様が、私にチャンスをくれた。
長年、氷の中に閉じ込めてきたこの想いを、解き放つ時が来たのだ。
噂は、すぐに私の耳にも入ってきた。
白瀬さんが、響木くんを振って、サッカー部の獅子堂猛と付き合い始めたこと。その原因が、白瀬さんの身勝手な嫉妬と、響木くんを試すための嘘だったこと。そのすべてを知った時、私の心に宿ったのは、白瀬さんへの強い怒りと、そして、感謝の気持ちだった。
よくも、彼の純粋な優しさを踏みにじってくれたわね。
あなたは、彼の価値を全く理解していなかった。彼がどれほど得難く、尊い存在であるかを。
でも、ありがとう。
あなたが、その宝物を手放してくれて。
私が動くのに、時間はかからなかった。
まずは、彼の隣の席を確保することから。
昼休み、一人で寂しそうに弁当を広げる彼の前に立ち、「隣、座ってもいいかな?」と声をかけた時の、彼の驚いた顔。食堂中の視線が突き刺さる中、彼は戸惑いながらも私を受け入れてくれた。
完璧だと思われている私が、実は不器用なところを見せる。勉強を教えてほしい、と彼を頼る。二人きりの時間を作る。彼に、私を「ただの生徒会長」ではなく、「一人の女の子」として意識させる。計算ずくの行動だった。でも、その一つ一つが、私にとっては真剣そのものだった。
彼と話す時間は、何よりも幸せだった。
私の肩書きや外見ではなく、私という人間そのものを見てくれる。私の些細な変化に気づいて、優しく声をかけてくれる。彼の隣にいるだけで、氷の壁が自然と溶けていくようだった。
そして、あの日。
白瀬さんが、泣きながら彼に復縁を迫っている場面に遭遇した。
「全部嘘なの! 嫉妬してほしかっただけなの!」
その言葉を聞いた瞬間、私の怒りは頂点に達した。
なんて身勝手な女。
彼を散々傷つけておいて、自分の都合でまた手に入れようとするなんて、絶対に許さない。
私は、彼の前に立ちはだかった。
「ごめん白瀬さん、彼は今、私といるから」
私の宣戦布告。
「一度手放したものを、また簡単に手に入れられると思わないで」
これは、あなたの罪よ。
「感謝してるわ、白瀬さん。あなたが彼を手放してくれて」
これは、私の本心。
彼が、白瀬さんではなく、私を選んでくれた。
私の手を取り、「行きましょう」という言葉に、無言で頷いてくれた。その瞬間、私は勝利を確信した。
そして、夕日に染まる屋上での告白。
「私は、響木くんが好きです」
一年以上も胸の奥にしまい込んできた、たった一つの真実。
彼が、私の告白に、はっきりと応えてくれた。
「俺、天ヶ咲さんのことが好きです。こんな俺でよければ、付き合ってください」
抱きしめられた腕の中は、私がずっと焦がれていた陽だまりそのものだった。
温かくて、優しくて、私のすべてを肯定してくれる場所。
ああ、ようやく手に入れた。
私の、本当の居場所を。
白瀬さん、あなたには感謝しかないわ。
あなたが彼の優しさを理解できず、愚かな行いに走ってくれたおかげで、私は彼と結ばれることができたのだから。
でも、勘違いしないで。
彼を傷つけたあなたのもとへ、彼を返す気は、もう毛頭ない。
この手に入れた宝物は、誰にも渡さない。
私が、彼を世界で一番幸せにしてみせる。
彼の隣で、私は静かに微笑む。
この幸せを、もう絶対に離さないと、強く、強く心に誓いながら。




