サイドストーリー1 白瀬玲愛は後悔の雨に濡れる
私の世界は、いつだって響木奏を中心に回っていた。
物心ついた頃から、家が隣の奏はいつも私の隣にいた。私が転んで膝を擦りむけば、自分のハンカチで涙を拭いてくれた。テストの点が悪くて落ち込んでいれば、「次、頑張ればいいじゃん」と笑って励ましてくれた。私が他の男の子に告白されて困っていると聞けば、さりげなく間に入って断ってくれた。
奏は、私のヒーローだった。
彼の優しさは、まるで陽だまりのようだった。温かくて、心地よくて、私をいつも包み込んでくれる。そんな彼に恋をするのは、ごく自然なことだった。高校一年の春、桜が舞う中で私から告白した時、彼は少し驚いた顔をした後、はにかみながら「俺でいいなら」と頷いてくれた。あの瞬間の高揚感を、私は一生忘れないだろう。
奏と恋人になれた。私のヒーローは、私だけのものになった。
そう、思っていた。
でも、違った。
彼の優しさは、私だけのものじゃなかった。
クラスの女子が「奏くん、これ運ぶの手伝って」と言えば、彼は嫌な顔一つせずに手伝う。後輩が部活のことで相談に来れば、自分の時間を削ってまで親身に話を聞く。先生から雑用を頼まれれば、文句も言わずに引き受ける。
「奏くんって、本当に誰にでも優しいよね」
その言葉を聞くたびに、私の心には黒い染みがじわりと広がっていくようだった。
違う。奏は、私の彼氏なのに。なんで、私以外の女の子にもそんなに優しくするの? 私だけを、特別扱いしてよ。私だけを見てよ。
その願いは、日に日に私の心の中で大きく膨れ上がっていった。奏が他の女の子と笑い合っている姿を見るだけで、胸が苦しくなる。些細なことで彼に当たってしまうことも増えた。そのたびに奏は困ったように笑って、「ごめんな」と謝る。違う、謝ってほしいんじゃない。私の気持ちを、分かってほしいだけなのに。
そして、私は最も愚かな計画を思いついてしまった。
少しだけ、彼を懲らしめてやろう。私がどれだけ大切で、失いたくない存在なのかを、思い知らせてやろう。
そのための「当て馬」として、クラスの陽キャである獅子堂猛くんに声をかけた。彼は前から私に気があるようだったから、デートに誘えば簡単に乗ってくると思った。案の定、彼は有頂天になって誘いに応じた。
彼とのデートは、ただただ苦痛だった。自慢話ばかりで、人の話は聞かない。奏の隣にいる時の、あの穏やかで満たされた気持ちとは全く違う。でも、私は耐えた。奏を嫉妬させるため。奏に、「やっぱり玲愛が一番だ」と言わせるため。
そして、計画実行の日。
放課後の教室で、私は奏に別れを切り出した。
「ごめん、奏。好きな人ができたの」
心臓が張り裂けそうだった。でも、これは作戦。奏が泣いて、怒って、私にすがってくれるはず。そうすれば、私は「嘘だよ、奏を試しただけ」と笑って、彼を抱きしめてあげるのだ。
さらに追い打ちをかけるために、私は一番言ってはいけない嘘をついた。
「もう、その人と…先に進んじゃったから」
これで奏も、本気で焦るはずだ。私を取り戻そうと、必死になるはずだ。
だけど、彼の反応は、私の想像とは全く違うものだった。
彼は一瞬だけ悲しそうな顔をしたけれど、すぐに、いつもの優しい笑顔を浮かべた。
「そっか…。玲愛が、本当に好きだって思える人を見つけられたんだな。良かった。俺は、玲愛が幸せならそれが一番嬉しいよ。幸せになれよ」
……なんで?
なんで、そんなことを言うの?
違う。私が聞きたかったのは、そんな言葉じゃない。
「行かないでくれ」「俺のそばにいてくれ」
そう言って、私を強く引き留めてほしかったのに。
「なんで怒らないのよ!」
私の叫びは、彼の優しさの前で空しく響くだけだった。後に引けなくなった私は、自分で仕掛けた嘘のせいで、奏との関係を終わらせてしまった。あの瞬間、私の世界は音を立てて崩れ始めた。
翌日から、すべてが悪夢に変わった。
奏は、失恋したとは思えないほどいつも通りだった。でも、彼の隣に私の居場所はもうない。当てつけで始めた獅子堂くんとの関係は、クラスメイトからの冷たい視線を浴びるだけの重荷になった。
そして、私の目の前で、奏の隣という特等席は、あっさりと他の誰かに奪われた。
天ヶ咲結月さん。
学年一の美少女で、完璧な生徒会長。私が逆立ちしたって敵わない、高嶺の花。
彼女が、ごく自然に奏の隣に座り、楽しそうに話している。奏は、私には見せたことのないような、少し照れた、でも本当に嬉しそうな顔で笑っている。
その光景は、鋭いガラスの破片となって、私の心をズタズタに切り裂いた。
私が手放した場所。
私が当たり前だと思っていた日常。
そのすべてが、私が嫉妬していた「奏の優しさ」を正しく理解し、受け入れた彼女のものになっていく。
我慢できずに、私は奏にすべてを告白した。
嘘だったこと。嫉妬してほしかっただけだということ。涙ながらに謝罪し、復縁を迫った。これで元に戻れる。奏なら、きっと許してくれる。そう信じていた。
でも、私の前に立ちはだかったのは、氷のように冷たい瞳をした天ヶ咲さんだった。
「一度手放したものを、また簡単に手に入れられると思わないで」
「あなたのおかげで私は彼の隣にいられる。感謝してるわ」
彼女の言葉一つ一つが、私の罪を暴き、私を断罪していく。
そして、奏が私に告げた言葉。
「今の俺には、何が本当でお前の言葉をどう受け止めたらいいのか、分からないんだ」
その拒絶は、どんな罵倒よりも私の心を深く傷つけた。
決定的だったのは、あの日、屋上で見た光景だ。
奏が、天ヶ咲さんに告白する姿。
「俺、天ヶ咲さんのことが好きです」
そして、彼女を優しく抱きしめる姿。
あれは、私が一年かけても引き出せなかった、彼の本当の「好き」の形だった。
ああ、私はなんて馬鹿だったんだろう。
彼の優しさを、疑った。
彼の愛情を、試した。
私が持っていたのは、世界で一番の宝物だったのに。私はそれを、自分の手でゴミ箱に捨ててしまったんだ。
失って初めて、隣にあることが当たり前だった幸せの重さを知る。
奏が他の女の子に優しくても、最後に帰ってくる場所が私でありさえすれば、それで良かったのに。彼の「誰にでも優しい」ところも含めて、彼を丸ごと愛してあげれば良かったのに。
私の独占欲とくだらない嫉妬が、すべてを壊してしまった。
降りしきる後悔の雨が、私の心を冷たく濡らしていく。
もう、あの陽だまりのような場所には戻れない。
奏の隣で笑う資格は、もう私にはない。
この冷たい雨の中で、私は一人、立ち尽くす。自らが招いたこの結末を、一生背負って生きていくしかないのだ。
「ごめんね、奏」
誰にも届かない謝罪の言葉が、雨音に紛れて消えていった。




