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第四話 聖人の選択と、女神の微笑み

玲愛から衝撃的な告白を受けてから、数日が過ぎた。

あの日以来、俺の心は重たい霧の中にいるようだった。玲愛の言葉は、まるで棘のように心の奥に突き刺さったままだ。彼女が俺を裏切ったわけではなかった。ただ、俺の気持ちを試すための、愚かで幼稚な嘘だった。その事実は、俺を安堵させると同時に、深い失望感をもたらした。


信頼とは、一度失うと取り戻すのがこれほど難しいものなのか。

彼女の涙を思い出すたびに胸が痛む。俺が彼女の不安に気づいてやれなかったせいでもある。俺にも責任の一端はあるのだ。しかし、だからといって、彼女のしたことが許されるわけではない。俺たちの関係は、彼女が仕掛けた「お試し」によって、修復不可能なほどに壊れてしまった。


教室での玲愛は、まるで抜け殻のようだった。以前の快活な笑顔は完全に消え失せ、いつも俯いて、誰とも話さずに過ごしている。獅子堂も、玲愛のあまりの変貌ぶりに気味悪がったのか、最近は距離を置いているようだった。クラスメイトたちは、そんな玲愛を遠巻きに見ているだけで、誰も声をかけようとはしない。自業自得だと言う者もいたが、俺にはどうしても、彼女を見捨てるような気持ちにはなれなかった。


だが、そんな俺の迷いを断ち切るように、天ヶ咲結月の存在は日に日に大きくなっていた。


彼女は、俺が玲愛のことで悩んでいるのを察しているようだった。しかし、そのことには一切触れず、ただ、今まで以上に優しく、そして積極的に俺との時間を増やしてきた。昼休みも、放課後も、彼女は常に俺の隣にいた。彼女といる時間は、俺の心を穏やかにしてくれた。


結月は、完璧に見えて、実はそうではないことを俺は知っていた。

生徒会室で分厚い資料と格闘しながら、時々こくりこくりと船を漕ぐ姿。苦手な数学の問題が解けなくて、悔しそうに唇を噛む表情。俺が淹れたインスタントコーヒーを「美味しい」と言って、幸せそうに飲む顔。

そんな彼女の人間らしい一面を見るたびに、俺の心は強く惹きつけられていった。玲愛への罪悪感と、結月への恋心。二つの感情が天秤の上で揺れ動き、俺は自分の本当の気持ちが分からなくなっていた。


「奏くん、今日の放課後、少し時間あるかな? 話したいことがあるの」


ある日の昼休み、結月が真剣な表情で俺に言った。いつもの「手伝い」とは違う、何か特別な響きがその言葉にはあった。


「ああ、大丈夫だよ」

「ありがとう。じゃあ、屋上で待ってる」


屋上。その言葉に、俺はこれから何が起こるのかを、漠然と予感していた。


放課後のチャイムが鳴り、俺は少し緊張しながら屋上へと続く階段を上った。重い鉄の扉を開けると、吹き抜ける風が火照った頬を冷ましてくれる。フェンスの向こうには、オレンジ色に染まった街並みが広がっていた。

結月は、フェンスに寄りかかり、夕日を浴びながら一人で立っていた。その姿は、まるで一枚の絵画のように美しく、現実離れして見えた。


「天ヶ咲さん」


俺が声をかけると、彼女はゆっくりと振り返った。その表情は、いつもよりも少しだけ柔らかく、そしてどこか不安げに見えた。


「来てくれたのね、奏くん」


彼女が俺を下の名前で呼んだのは、これが初めてだった。俺はどきりとしながら、彼女の隣に並んで立つ。しばらくの沈黙の後、結月が口を開いた。


「私ね、奏くんのこと、ずっと見てたんだよ」

「え?」

「一年生の時から。あなたが白瀬さんと付き合っている時から、ずっと」


思いがけない言葉に、俺は目を見開いた。


「雨の日、覚えてる? あなたが、ずぶ濡れになりながら、捨て猫に傘を差してあげていた日のこと」


言われて、記憶の断片が蘇る。確かに、そんなことがあった。土砂降りの雨の中、段ボール箱の中で震えている子猫を見つけて、思わず自分の傘を差し掛けてやったのだ。誰かに見られていたなんて、全く気づかなかった。


「あの時、私は思ったの。この人は、本当に優しい人なんだなって。誰かに見せるためじゃなく、心の底から、当たり前のように善いことができる人なんだって。その時から、私はあなたのことが、ずっと……好きでした」


真っ直ぐな瞳が、俺を射抜く。

完璧な彼女が見せた、初めての弱さ。真摯で、少しだけ不安に揺れる告白。

その言葉は、俺の心の中にあった最後の迷いを、綺麗に洗い流してくれた。

ああ、そうか。俺は、この人が好きなんだ。

玲愛への同情や罪悪感ではない。俺自身の心が、はっきりと天ヶ咲結月を求めている。その事実を、俺は痛いほど自覚した。


「もし、あなたさえよければ……。私と、付き合ってくれませんか?」


彼女の問いに、俺はすぐには答えられなかった。

答える前に、けじめをつけなければならない。自分の気持ちに正直になるために、そして、過去に別れを告げるために。


「……少しだけ、時間をくれるかな。話さなきゃいけない人がいるんだ」


俺の言葉に、結月はすべてを察したように、こくりと頷いた。


「分かった。……待ってる」


その優しい声に背中を押され、俺は屋上を後にして、一つの決意を胸に教室へと駆け足で向かった。


教室には、まだ玲愛が一人で残っていた。自分の席で、ただぼんやりと窓の外を眺めている。その背中は、以前よりもずっと小さく見えた。


「玲愛」


俺が声をかけると、彼女の肩がびくりと震えた。ゆっくりと振り返ったその顔は憔悴しきっていて、俺は再び胸が締め付けられるのを感じた。


「奏……」

「話があるんだ」


俺は彼女の前の席に座り、真っ直ぐに彼女の目を見つめた。玲愛は、これから何を言われるのかを悟ったのか、怯えたような表情で唇を噛んでいる。


「この間の話、嘘だって言ってくれて、ありがとう。正直、少しだけ安心した。でも……」


俺は一度、言葉を切った。


「でも、やっぱり俺はもう、お前のことを信じられない。俺たちの関係は、お前が仕掛けたあの嘘で、もう終わってしまったんだと思う」

「そん、な……」

「お前の気持ちを試すような嘘を、俺は許すことができない。それは、俺たちの過ごした時間を、お前自身が否定したのと同じことだ。俺は、そんなお前とはもう、以前と同じようには向き合えない」


残酷な言葉だと分かっていた。だが、これが俺の正直な気持ちだった。優しさだけで誤魔化して、中途半端な関係を続けることこそ、彼女にとっても俺にとっても、不誠実だと思った。


玲愛の瞳から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。


「やだ……。奏、お願い、考え直して……。私は、奏がいないと……」

「ごめんな、玲愛」


俺は、彼女の言葉を遮った。そして、今日、この瞬間に確信した自分の本当の気持ちを、彼女に告げる。


「俺、好きな人ができたんだ。本当に、好きな人が」


その一言が、玲愛の心を完全に打ち砕いた。

彼女は、絶望に染まった顔で俺を見つめ、やがて力なく俯いた。もう、何も言う気力すら残っていないようだった。

俺は、そんな彼女に背を向け、教室を出た。後ろ髪を引かれる思いはあったが、もう振り返らないと決めた。


俺は再び屋上へと駆け戻る。

夕日はほとんど沈みかけ、空は深い藍色に変わり始めていた。結月は、俺が言った通り、そこで待っていてくれた。


「天ヶ咲さん」


俺が彼女の前に立つと、彼女は不安そうな瞳で俺を見上げた。


「……奏くん」


俺は、大きく息を吸い込む。そして、自分のありったけの想いを込めて、彼女に伝えた。


「俺、天ヶ咲さんのことが好きです。こんな俺でよければ、付き合ってください」


俺の告白に、結月の瞳が驚きに見開かれ、そして、次の瞬間、その縁にじわりと涙が浮かんだ。彼女は、それを隠すように俯いたが、すぐに顔を上げ、今まで見た中で一番美しい笑顔を俺に向けた。


「……はい、喜んで」


その返事を聞いた瞬間、俺はたまらなくなって、彼女の華奢な体をそっと抱きしめていた。腕の中で、結月が小さく震えているのが分かる。ようやく手に入れた宝物のように、俺はその体を強く、強く抱きしめた。

これが、俺の選択。

これが、俺が手に入れた、新しい幸せの形だった。


その時、屋上の扉の物陰で、一人の少女が崩れ落ちるように泣いていたことなど、幸せの絶頂にいた俺たちには知る由もなかった。

白瀬玲愛は、自らの愚かな嘘が招いた取り返しのつかない結末を、その目に焼き付けながら、ただ後悔の涙を流し続けることしかできなかったのだ。

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