第三話 加速する想いと、届かない声
あの日以来、天ヶ咲結月のアプローチは、大胆かつ巧妙なものになっていった。
それは、まるでゆっくりと陣地を広げていく熟練の戦略家のようだった。
まず、昼休みは完全に彼女の「指定席」となった。
「響木くん、今日も隣、いいかな?」
その一言と共に、彼女は当たり前のように俺の隣に座る。初日のような食堂中の視線は、数日も経てば「またか」という慣れに変わり、やがて「あの二人、もしかして…?」という、好奇と期待が入り混じったものへと変化していった。俺も最初は戸惑っていたが、完璧超人に見える結月が、実は野菜の好き嫌いが多かったり、猫舌で熱いものが苦手だったりという意外な一面を知るうちに、彼女との昼食の時間が少しずつ楽しみになっている自分に気づいた。
そして、放課後。
「響木くん、今日も手伝ってくれる?」
生徒会室での「手伝い」は、最初の資料整理が終わった後も、何かと理由をつけて続いた。備品の在庫チェック、会議の議事録作成、果ては生徒会室の観葉植物への水やりまで。どう考えても俺でなくてもいいような仕事ばかりだったが、結月に「あなたじゃないと頼めないの」と真剣な顔で言われると、断ることができなかった。二人きりの生徒会室で交わす会話は、いつも自然で、心地よかった。
休日には、メッセージアプリに彼女から連絡が来た。
『ごめんなさい、急に。来週の小テストの範囲で、分からないところがあるんだけど…教えてもらえないかな?』
成績学年トップの結月から、平凡な俺に勉強を教えてほしい、と。どう考えても口実なのは明らかだったが、それでも俺は駅前のカフェへと向かった。参考書を広げながら、時折交わす雑談。彼女が推薦したコーヒーの苦さ。窓から差し込む陽の光を浴びて微笑む彼女の横顔は、息を呑むほど綺麗だった。
周囲の反応も、目に見えて変わっていった。
「響木、お前すげえな! あの天ヶ咲さんと毎日一緒じゃん!」
「奏くん、生徒会長とどういう関係なの? もしかして付き合ってるとか!?」
クラスメイトたちは、好奇心旺盛に俺たちを囃し立てる。俺が「ただの手伝いだよ」と否定しても、誰も本気にはしなかった。むしろ、俺の人の良さを知る女子たちからは、「奏くんなら、天ヶ咲さんとお似合いかも」「あんな完璧な人でも、奏くんの優しさには惹かれるんだね」と、好意的な声が聞こえてくるようになった。
俺自身も、結月に対する感情が日に日に変化していくのを感じていた。
彼女は、高嶺の花なんかじゃなかった。目標のためなら人知れず努力を惜しまない真面目さ、生徒会長としての責任感の強さ、そして時折見せる不器用で可愛らしい一面。知れば知るほど、彼女の魅力に惹きつけられていく。失恋の傷がまだ癒えきらないはずの心が、結月という存在によって、温かい光で満たされていくようだった。
一方で、地獄のような日々を送っていたのは、白瀬玲愛だった。
彼女は、俺と結月が親密になっていく光景を、毎日強制的に見せつけられていた。俺がいたはずの隣の席。俺と交わしていたはずの会話。俺に向けていたはずの笑顔。そのすべてが、自分よりも遥かに格上で、完璧な美少女である結月に奪われていく。その現実は、彼女の心を容赦なく抉った。
当てつけで始めたはずの獅子堂との関係は、もはや苦痛でしかなかった。自己中心的な獅子堂は、玲愛の気持ちなどお構いなしに、クラスで俺に見せつけるようにベタベタしてくる。そのたびに、クラスメイトからの冷ややかな視線が玲愛に突き刺さった。かつてはクラスの中心にいた彼女の周りから、少しずつ人が離れていく。味方だったはずの友人たちでさえ、どこか距離を置くようになった。
玲愛は、思い知らされていた。
奏が隣にいることが、どれだけ幸せだったか。
彼の底なしの優しさが、どれだけ自分を守ってくれていたか。
失って初めて気づく、当たり前だった日々の温かさ。後悔と自己嫌悪の念が、彼女の心を真っ黒に塗りつぶしていく。もう、我慢の限界だった。
その日の放課後、俺が生徒会室へ向かおうと廊下を歩いていると、背後から腕を強く掴まれた。
「奏っ!」
振り返ると、そこには鬼気迫る表情の玲愛が立っていた。その瞳は赤く充血し、息も荒い。
「ちょっと、話があるの。来て」
有無を言わさぬその態度に、俺は戸惑いながらも、彼女に引かれるまま人気のない中庭へと連れていかれた。夕暮れ前の空の下、古びたベンチがぽつんと置かれている。玲愛は俺の腕を離すと、震える声で切り出した。
「奏……お願い、聞いて」
「……どうしたんだよ、玲愛」
彼女のあまりの必死さに、俺はただならぬものを感じていた。玲愛は、決壊したダムのように想いを吐き出した。
「この間の話、全部嘘なの! 好きな人ができたなんて、真っ赤な嘘! 獅子堂くんとは、ただ一度デートしただけ! あの人が言ったようなこと、何もない! 本当だよ!」
その告白は、衝撃的だった。嘘? すべてが、嘘だった?
俺が呆然としていると、玲愛は涙を流しながら、さらに言葉を続けた。
「奏が……奏が、私以外の女の子にも優しくするから……! それが、すごく嫌だったの! 奏は私の彼氏なのにって、いつも不安で……。だから、少しだけ嫉妬してほしかった。私がいなくなったら困るって、私だけを見てるって、そう言ってほしかっただけなの……!」
泣きじゃくりながら、彼女は俺にすがりつこうとする。
「ごめんなさい……! 私が馬鹿だった! 本当にごめんなさい! だから、お願い……! もう一度、やり直して……っ!」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で、玲愛は復縁を迫る。
その姿を見て、俺の心は激しく揺れた。悲しみ、怒り、そして、安堵。様々な感情が渦巻いて、何をどう考えればいいのか分からなかった。嘘だったのか。俺は、彼女に裏切られたわけではなかったのか。
しかし、俺が何かを答える前に、その場にそぐわない、冷たく澄んだ声が響き渡った。
「ごめん白瀬さん、彼は今、私といるから」
声のした方を見ると、いつの間にか結月がそこに立っていた。彼女は生徒会の腕章をつけたまま、氷のように冷たい瞳で玲愛を見下ろしている。その登場はあまりに突然で、俺も玲愛も言葉を失った。
「天ヶ咲……さん……」
「あなたの話は、そこで全部聞かせてもらったわ」
結月はゆっくりと俺の隣に歩み寄り、まるで玲愛から俺を守るように、俺の前に立った。
「一度手放したものを、またそんなに簡単に手に入れられると思わないでくれるかしら」
その声には、普段の彼女からは想像もつかないほどの敵意と軽蔑が込められていた。
「あなたの軽率な嘘と自己満足の『お試し』が、彼をどれだけ傷つけたか分かってるの? あなたは、彼の優しさの上に胡座をかいて、彼の心を弄んだだけ。そんな人に、彼を任せることはできない」
「な……っ!」
玲愛が息を呑む。結月の言葉は、正論であり、何一つ反論の余地もなかった。
「それに」
結月は、そこで一度言葉を切り、そして、悪魔のような笑みを浮かべた。
「あなたのおかげで、私はこうして彼の隣にいられる。感謝してるわ、白瀬さん。あなたが彼を手放してくれて」
それは、玲愛に対する、あまりにも残酷な勝利宣言だった。
玲愛は、わなわなと震え、助けを求めるように俺を見た。その瞳は「嘘だと言って」「助けて」と訴えている。
俺は、混乱していた。
玲愛の告白、そして、結月の介入。どちらが真実で、どちらが虚構なのか。玲愛の涙は本物に見える。でも、一度つかれた嘘は、そう簡単に信じることなんてできない。何より、俺の心を今、占めているのは……。
「ごめん、玲愛……」
俺が絞り出した声は、自分でも驚くほど冷たく響いた。
「今の俺には、何が本当で、お前の言葉をどう受け止めたらいいのか……分からないんだ」
その言葉は、玲愛にとって、これ以上ないほど残酷な拒絶だった。
彼女の顔から、さっと血の気が引いていく。繋ぎ止めようとしていた最後の蜘蛛の糸が、ぷつりと切れた音が聞こえた気がした。
俺の言葉を聞いた結月は、満足げに俺の手をそっと取った。その小さな手の温かさが、混乱した俺の心に不思議な安らぎを与えてくれる。
「行きましょう、奏くん。生徒会の仕事が残ってるわ」
「あ、ああ……」
俺は、結月に手を引かれるまま、その場を後にした。
背後で、玲愛がその場に崩れ落ちる気配がした。彼女の嗚咽が聞こえた気がしたが、俺はもう、振り返ることはできなかった。
加速していく結月への想いと、もう二度と届くことのない玲愛の声。
夕暮れの中庭で、三人の関係は、もう後戻りのできない場所まで来てしまっていた。




