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第二話 空席になった隣と、静かなる侵食者

玲愛との別れから一夜が明けた。

俺はいつもと同じ時間に目を覚まし、いつもと同じように朝食を食べ、そしていつもと同じ時間に家を出た。隣の家から玲愛が出てくる気配はない。いつもなら「奏、おはよー!」と元気な声が飛んでくる時間だが、今日は静かだった。先に学校へ行ったのかもしれない。あるいは、まだ家の中にいるのか。……いや、もう考えるのはやめよう。俺たちは昨日、別れたのだから。


通学路を一人で歩くのは、少しだけ心細かった。一年以上、当たり前のように隣にあった温もりが失われた喪失感は、想像以上に大きい。それでも俺は、無理に平静を装う。ここで落ち込んでいても、何も始まらない。玲愛は前に進んだのだから、俺もそうしなければならない。


教室のドアを開けると、すでにクラスメイトのほとんどが席に着いていた。俺の席に視線を向ける前に、自然と玲愛の席を探してしまう。彼女はもう来ていた。窓際の後ろから二番目の席で、数人の女子に囲まれて何かを話している。しかし、その表情はいつものような快活さはなく、どこか上の空に見えた。


俺が自分の席に着こうとすると、クラスの空気が微かに変わったことに気づく。ひそひそと交わされる囁き声、俺に向けられる同情的な視線、そして玲愛に注がれる非難めいた眼差し。どうやら、俺たちが別れたという話は、すでにクラス中に広まっているらしかった。


「よぉ、響木」


声をかけてきたのは、友人の一人である拓也だ。彼は心配そうな顔で俺の肩を叩いた。


「大丈夫か? 白瀬と別れたって聞いたけど」

「ああ、まあな。色々あってさ」


曖昧に笑って誤魔化す。拓也は何か言いたげだったが、それ以上は踏み込んこなかった。代わりに、彼は教室の前方、玲愛とは別のグループの中心で勝ち誇ったような笑みを浮かべている男を顎で示した。サッカー部のエース、獅子堂猛ししどう たける


「……原因、あいつか?」

「さあ、どうだろうな」


俺がとぼけると、拓也は納得いかないという顔で眉をひそめた。


「お前なぁ……。クラスの奴ら、みんな知ってるぞ。昨日、白瀬が獅子堂と駅前のカフェでイチャついてたって。お前を振って、あいつに乗り換えたんだろ。許せねえよな」

「やめろよ、拓也。玲愛が決めたことなんだ。それに、俺がとやかく言う権利はない」

「お前は人が良すぎるんだよ!」


拓也の言う通りなのかもしれない。でも、俺には玲愛を責める気にはなれなかった。彼女が獅子堂を選んだのは、俺にない魅力を彼が持っていたからだ。それだけのこと。

ちょうどその時、獅子堂がこちらに気づき、わざとらしく玲愛の肩を抱き寄せながら、にやにやと笑って近づいてきた。


「よぉ、響木。なんか元気ねえじゃん? 失恋でもしたか?」


その挑発的な態度に、周囲の空気が一気に凍りつく。玲愛は獅子堂の腕の中で、気まずそうに顔を俯かせている。


「獅子堂、お前……!」


拓也が食ってかかろうとするのを、俺は手で制した。ここで騒ぎを起こしても、玲愛がさらに悪者になるだけだ。


「別に。いつも通りだよ」


俺が平然と答えると、獅子堂はつまらなそうな顔をした。もっと俺が悔しがったり、怒ったりするのを期待していたのだろう。


「ふーん、強がっちゃって。まあ、玲愛は俺がもらったからさ。お前みたいな地味な奴より、俺みたいなイケメンの方がお似合いだろ?」


下卑た笑みを浮かべる獅子堂。俺は彼の言葉を黙って聞き流し、ただ一言だけ返した。


「玲愛を、よろしく頼むな」

「は?」

「彼女、寂しがり屋だからさ。ちゃんと、大切にしてやってくれよ」


俺の言葉は、獅子堂の予想を完全に裏切ったらしい。彼は一瞬きょとんとした顔になり、やがて馬鹿にしたように鼻で笑った。


「うっわ、聖人君子かよ。キッモ。安心しろよ、お前と違って、俺はちゃんと『大切』にしてやるからさ」


意味深に最後の言葉を強調し、獅子堂は満足げに自分の席へ戻っていった。残された玲愛は、顔を真っ赤にして、それでも俺から目を逸らしたままだ。

クラス中の同情が俺に集まり、玲愛と獅子堂への非難がさらに強まったのを感じた。俺はただ、この気まずい空気が早く過ぎ去ってくれることだけを願っていた。


授業が始まっても、俺はなかなか集中できなかった。昨日までの日常が、まるで遠い昔のことのように感じられる。

そして、昼休み。いつもなら玲愛と一緒に食べる弁当を、今日は一人で広げる。購買で買ったメロンパンを無心で口に運んでいると、不意に俺の目の前に、カチャリ、と食器の置かれる音がした。


顔を上げると、そこにいたのは、俺が予想だにしなかった人物だった。


「響木くん、隣、座ってもいいかな?」


そこに立っていたのは、天ヶ咲結月あまがさき ゆづき

腰まで伸びる濡れたような黒髪、透き通るような白い肌、そして人形のように整った顔立ち。私立碧葉学園にその名を知らない者はいない、学年一の美少女にして、生徒会長。成績は常にトップクラスで、運動神経も抜群。まさに完璧超人という言葉が相応しい彼女が、なぜ俺の前に?


食堂中の視線が、一斉に俺たちのテーブルに突き刺さるのを感じた。男子生徒からの嫉妬と羨望、女子生徒からの驚きと好奇心。その視線の集中砲火を浴びて、俺はメロンパンを喉に詰まらせそうになった。


「あ、あまがさき、さん……? どうしてここに……」

「どうしてって、お昼ご飯を食べるためだけど。それ以外に理由がある?」


結月はクールな表情を崩さずにそう言うと、俺の返事を待たずに隣の椅子に腰を下ろした。彼女のトレーには、ヘルシーなサラダとスープが乗っている。


「いや、でも、いつもは友達と食べてるだろ……?」

「今日は一人で食べたくなったの。それより、響木くん、顔色が悪いみたいだけど大丈夫? 何か悩み事?」


澄んだ瞳でじっと見つめられ、俺は思わず視線を逸らした。この人に、恋人に振られたばかりだなんて、口が裂けても言えない。


「だ、大丈夫だよ! なんでもない!」

「そう? ならいいけど。……そうだ、響木くん」


結月はスープを一口飲むと、思い出したように口を開いた。


「実は、生徒会の仕事で、少し手伝ってほしいことがあるの。放課後、時間あるかな?」

「生徒会の仕事? 俺が?」


ますます意味が分からない。生徒会には優秀な役員が大勢いるはずだ。俺のような平凡な生徒に、わざわざ手伝いを頼むことなんてあるのだろうか。


「うん。来週の地域清掃イベントの資料整理なんだけど、少し人手が足りなくて。響木くん、クラスでもよく雑用とか引き受けてるって聞いたから。頼りになるかなって」


それは、雑用を押し付けられているだけでは……。しかし、学園のアイドルである結月から直々に頼まれて、断れるはずもなかった。


「わ、分かった。俺でよければ」

「本当? 助かるわ。じゃあ、放課後、生徒会室に来てくれる?」

「ああ」


俺が頷くと、結月はふわりと、ほんのわずかに口元を緩ませた。その微笑みは、普段のクールな彼女の印象を覆すほど破壊力があり、俺は不覚にもどきりとしてしまう。


その瞬間、食堂の隅の席から、鋭い視線が突き刺さるのを感じた。

視線の先には、玲愛がいた。彼女は、手付かずのパンを前に、信じられないものを見るような目で、俺と結月を交互に見つめている。その顔は蒼白で、唇を強く噛みしめていた。

彼女が座っていたはずの俺の隣の席。その空席に、こともなげに座る学年一の美少女。

玲愛の瞳に宿っていたのは、嫉妬や怒りとはまた違う、もっと根源的な恐怖と焦りの色だった。自分が手放した場所が、自分では到底敵わない相手によって、あまりにもあっさりと埋められていく。その現実を、彼女は今、目の当たりにしていた。


俺は、玲愛の視線に気づかないふりをして、結月との会話に戻った。


「その資料整理って、結構大変なのか?」

「そうね、少し量が多いだけ。でも、響木くんと一緒なら、すぐに終わりそう」

「そっか。なら良かった」


他愛もない会話。しかし、その一言一言が、俺と結月の距離を少しずつ縮め、同時に、俺と玲愛の間に決定的な亀裂を生み出していくのを、俺はまだ知らなかった。

玲愛が自ら空けた「隣の席」という名の空席。その席を狙う静かなる侵食者の存在に、俺も、そして玲愛自身も、この時はまだ本当の意味で気づいてはいなかったのだ。

ただ、玲愛の心の中で、後悔という名の黒い渦が、静かに、しかし確実に巻き始めていることだけは、その険しい表情から痛いほど伝わってきた。

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