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第3章 大地は母なりや


 パイロットが実戦部隊に配属されるまでに、どのくらいの時間を空で過ごすかは国により様々である。太平洋戦争直前の状況では、日本陸軍の士官パイロットで300時間、アメリカ陸軍航空隊の士官は200時間。精鋭を集めた日本海軍の空母パイロットとなると、その飛行時間は平均800時間に達していたといわれる。1944年始め、ドイツ空軍戦闘機パイロットの飛行時間は160時間にまで切り詰められた。


 いくつかの証言によれば、ソビエト空軍のパイロットが部隊配属されるまでの飛行時間は80時間程度であり、その半分に満たない数字でスペイン内戦に参加したパイロットも少なからずいた。


 この時期のソビエト陸軍参謀本部報告書は、空軍の活躍について、その延べ出撃回数を盛んに記載している。ドイツ空軍エースたちが記録した、前後の戦史に例のない撃墜数は、ドイツ空軍がソビエト空軍にいかに疲弊させられていたかを示す、無言の数字である。米英の戦略爆撃による燃料生産低下が奏効するまでには、まだ少し間がある。この時期にドイツ空軍の活動を制約していたものは、ソビエト空軍が血で購った疲労そのものだったのである。


 ヒトラー専用機は、快調に3基のエンジンを歌わせ、ラステンブルク大本営へ向けて飛んでいた。護衛機はいない。東部戦線では、ソビエト戦闘機はほとんどドイツ占領地域後方を飛ばないので、これは普通のことだった。


 さすがに機内は狭い。ヒトラーに丸聞こえなところで雑談する護衛などいようはずもない。時折きょろきょろするフライブルクを無礼と見るべきか怪しいと見るべきか、警備責任者のシュトラッサー中佐は迷っていたが、まあヒトラー専用機に生まれて初めて乗れば誰でもそうだろう、と思い直した。


 堂々と翼端灯をつけて飛ぶドイツ輸送機など珍しくもない。ソビエト軍のU-2練習機で嫌がらせ爆撃から帰還する女性飛行士は、なぜか今日に限って、それを放っておく気になれなかった。夜通し爆撃しては戻り、爆撃しては戻る嫌がらせ爆撃独特の連続出撃に、気がささくれていたのである。


 輸送機は正面から近づいてくる。低速な練習機はひとり乗りで、追いすがられたときのための機銃を1丁だけ積んでいるが、この態勢では使えない。女性飛行士はエンジンを止めた。安定のいい複葉練習機は、そのまま滑空に入った。


 飛行士は、足元から小銃を引っ張り出した。撃墜されたときの用心に持っているものだ。すれ違う一瞬、飛行士は引き金を引いた。


 何も起こらない。当然だ。気晴らしを終えた飛行士は小銃を床下に投げ捨てると、エンジンをかけた。すでに飛行士の頭には、次の出撃で飛ぶコースがさまざまに描き出されていた。


----


 突然、機長がうろたえ始めた。


「方向舵が効きません」


 小銃の一弾が、音もなく垂直尾翼の方向舵にはさまり、向きを固定してしまったのである。悪いことに、機体はわずかに右旋回しているところだった。


「このままではソビエト側の地域に入ってしまいます。直ちに不時着します」


 機長の声は震えている。ヒトラーの表情は、無表情というより無関心に近かった。見たくないものから無造作に目を背けるような顔つきなのを、シュトラッサーは恐懼しつつ見た。


 平坦な場所に事欠かないことだけが、救いだった。


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 はるか頭上を、ドイツの大型機が翼端灯を着けて飛び去るのが見えた。この時刻では、地上に明かりや人影が見えても、それが敵か味方かはわからない。


「友軍は、西に退却しているのでしょうか」


 マイネッケがぽつりと言った。


「西でないとすると、南か」


 カウフマンが答えた。


 もう20キロ以上は歩いている。それでもドイツ軍の戦線にたどり着けないのは、どうもおかしい。歩き慣れないとはいえ、歩兵たちに比べれば、ずっと装備は軽いのだ。しかし南へ行って予測をはずしていたら、むざむざソビエト軍との距離を縮めてしまう。それでふたりとも方向転換が言い出せないのである。


 一行はわざと道路を少し外れて移動していた。大規模なドイツ軍部隊が通りかかれば、すぐ合図できる程度の距離だ。パルチザンは交通、言い換えれば道そのものを狙っていたし、それと一番出会いたくなかった。


「道です、気をつけて」


 マイネッケがささやいた。数十の影が、街道を小走りに行き過ぎるのが感じとれた。不ぞろいな走り方からすると、パルチザンがどこかを襲撃に行くのだろう。


 最後に残った携帯食料をカシターナと分けて食べたのが夕方だった。緊張と空腹で精神的に参ってくる。明日は小川を見つけて、渇きだけでも何とかしないといけない、とカウフマンは考えていた。


 ヒトラーを含めて15名の一行は、南を指して歩き始めた。丈の高い雑草が見渡す限りの平地を覆っている。戦場にさえならなければ、良い穀倉地帯なのに違いなかった。


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「指揮官殿、意見を述べてよろしいでしょうか」


 フライブルクが何気なく申し出た。RSDのこの場での指揮官、シュトラッサー中佐は無言でうなずいた。


「数名の兵士を先行させるべきかと存じます」


 言われたシュトラッサーはわずかに顔をしかめると、無造作に3人を呼んで、前哨を命じた。


「感謝します、少佐。それから、RSDには兵と下士官はおりません」


 言いながらシュトラッサーは苦笑した。


「みな、最低でも少尉なのです。国防軍流に言いますとね」


 RSDは親衛隊の一部だから、階級の名前が国防軍とは違っていて、どれもこれも長ったらしい。不便だからと、こっそり国防軍の階級名称を使うこともあった。


 親衛隊の一部といっても、RSDの人事はすべてヒトラーの直裁であった。ヒトラーの護衛についているもの、他の要人の護衛についているものなど、全部あわせてRSDのメンバーは120人を超える程度である。RSDは基本的に建物内部での護衛を担当し、国防軍所属の総統護衛大隊が総司令部の防衛や、総統外出時の護衛を担当する。


「ああ少尉。その持ち方では、銃身が赤熱したとき危険です」


 フライブルクは軽機関銃を持った、肩章を見る限り少尉相当に違いない士官に声をかけた。ベルトの1ヶ所だけを持って、下のほうで銃身をぶらぶらさせている。フライブルクは銃身の左右から同じ長さだけ

ベルトを上に出して、買い物籠のように、銃身の少し上で両方のベルトを握って見せた。これで銃身はしっかり把握できて、揺れて自分の膝に当たったりしない。士官は苦笑しながら短く礼を言った。


「ゲーリケ少尉はクリポ(一般警察。日本の私服刑事にあたる)出身なのです、少佐」


 やりとりを見ていたシュトラッサーが言い添えた。RSDのメンバーは腕の立つボディーガードだが、それは格闘やピストル射撃といった面に限られていて、警察系の人材が多かった。それがはからずも野戦に放り込まれて、戸惑いを隠せずにいる。普通の兵士なら叩き込まれることを、知らないのだ。


 フライブルクにもそれほど実戦経験があるわけではないが、士官学校の途中で前線部隊の仕事をさせられたり、任官直後に小隊長をやったりして、いくらか基礎知識が頭に残っている。


 ヒトラーも、不機嫌は表情にのみとどめて、口には出していなかった。


----


 モムゼン空軍少佐は、急降下爆撃隊への目標地点指示に忙しかった。周囲の陸軍部隊に配属された偵察隊(ドイツ空軍は陸軍の下につこうとしないが、この直協偵察隊だけは例外)の報告や、空軍自身の飛ばした偵察機の報告、そしてもちろん軍団司令部からの要求を総合して決めた目標である。ハリコフの北を通過して西に突破するソビエト軍の後方、移動中で姿をさらした砲兵とトラック群が狙いであった。


 ひととおりの指示が終わると、相手が遠慮がちに嘆願をしてきた。


「パイロットの神経は大変に、大変に高ぶっております。少し休息を与えるわけにはいきませんか」


「お気の毒ですが、他のドイツ空軍部隊も同じような思いをしております」


 モムゼンは丁寧に、しかし容赦なく要求を拒絶した。自分の説明に誇張があることをモムゼンは自覚していた。他の部隊はもう少し長い休息をもらっているし、危険の少ない任務の割合が高かった。歩兵と戦車をわざと突出させろという命令に従って、それに付随する対空砲部隊も手付かずのままだった。彼らに指示した飛行コースは、その真上をすり抜けるものだ。


 短い儀礼的なやり取りを終えて、モムゼンは通信を切った。ハンガリー空軍に無理を言って全体の辻褄を合わせることに、モムゼンは慣れ始めていて、もうほとんど何も感じなかった。


----


 小川のそうきれいでもない水で水筒を満たしているとき、最初にその3人組を見つけたのは、カウフマンだった。東のほうから歩いてくる3つの影は、見慣れたドイツ兵のものである。いつまで多ってもそれ以上に増えないし、近づいてくるのがずいぶん遅い。疲れたというより、歩き慣れない足取りだった。


「はぐれた兵士のようです」


 マイネッケが言った。


「手を振ってもよろしいですか、軍曹どの」


 カウフマンは軽くうなずいて許可した。


「カメラーデン」


 やや力のない大声が、手を振るマイネッケに答えた。階級章がはっきり見える距離まで近づいたが、3人とも、まだ下士官ではない。カウフマンとマイネッケが首からかけている憲兵章を見て、不安そうな表情が浮かんできたのは、脱走兵と思われることを心配してだろう。


 彼らはベルゴロド付近を守る第255歩兵師団で、50ミリ対戦車砲を扱う班の生き残りたちだった。部隊が計画的に交代するときは、援護のためにいくらかが殿軍(しんがり)をつとめる。牽引車ですいすい逃げてくるはずが、不運にも牽引車をソビエトの砲弾が吹き飛ばしてしまい、砲を捨てて徒歩での撤退となった。


 ふだん歩き慣れない身ゆえに、歩兵たちの行軍スピードにもついてゆけず、こうやって取り残されたまま歩いている、という。牽引車のドライバーを含めて8人いたのが、パルチザンとの断続的な銃撃戦で3人になってしまっていた。


「とにかく撃ち続けて、どうにか士気を保つことができました」


 ベルグと名乗った兵士の口調は、陽気と言うと大げさだが、あまり暗くはなかった。ほかのふたりは、ふたりの憲兵を無言で探るように見ている。


「弾と銃の状態はどうだい」


 マイネッケが唐突に尋ねた。


「銃身はできる限り冷やしてきましたが、かなり痛んでおります。残弾は、ケースを持った感じですが、200発ほどです」


 それまで口をつぐんでいた兵士が言った。ひとりだけ上等兵の肩章をつけている。ブレネケと名乗ったことをマイネッケは思い出した。マイネッケは何気なく銃弾のケースを開けて、ケースの八分目までベルトに銃弾が詰まっていることを確かめた。


「ブレネケ上等兵、君は機関銃手か」


「いえ、私は牽引車のドライバーです」


 ブレネケはマイネッケに答えた。リーダーがすべきことを、自然に引き受けられる兵らしい。


「君たちが戦闘のできる状態で私たちと出会ったことは、私が証言する。何も心配は要らない」


 マイネッケは静かに言いながら、カウフマンがうなずくのを視界の端で確かめた。3人の表情が緩んだ。それとは別に、心配すべきことは山ほどあったのだが。


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「とりあえずは、何事もなく振舞うしかありますまい」


 ラステンブルク大本営の会議を支配した長い沈黙の後、ヒムラーが事務的な口調で切り出すと、議長である幕僚総監・カイテル元帥が救われたように頷いた。


「総統閣下を捜索するために、空軍を動かさねばなりませんが、アプヴェーア(国防軍情報部)にお任せしてよろしいかな」


 空軍司令官・ゲーリング国家元帥は露骨にいやそうな顔をしたが、国防軍情報部長・カナリス大将は生真面目にうなずいた。


 国防軍情報部のもとで諜報員の送り迎えなどを担当する空軍部隊が、いくらか固定化されていたが、陸軍で同様な立場にあった「ブランデンブルク部隊」と違って、このころは固定的な名称がなかった。当然、長航続距離の機体がほとんどである。一般の空軍兵士には事態を知らせない、ということでもあった。


 ヒトラーはお気に入りの部隊を訪問することはあっても、ほとんど国民の前には姿を見せなくなっていたから、ヒトラーがいないこと自体はさしあたって問題を起こさなかった。もちろん問題は、ヒトラーがついに探し出せなかった場合の処置であって、この時点でそれを口にする勇気のある者は誰もいなかった。


 会議の大筋はこれで決まったかと思えたが、ツァイスラーが発言を求めた。


「南方軍集団が現在行なっている攻勢ですが、中止が適当かと存じます」


「お言葉ですが」


 OKW作戦部長・ヨードル上級大将が反対を唱えた。


「作戦中止は変事を公表するようなものです。現時点ではむしろ作戦を続行すべきです」


 ヒトラーがツァイスラーの頭越しに決めたことなら、頭越しに継続するのがヒトラーの意にかなうだろう、とヨードルは漠然と判断していた。細かい計算に裏打ちされたものではなかったが、ヨードルはツァイスラーが嫌いだった。同意のさざめきに力を得たカイテルは、作戦続行で合意を取り付けた。


 会議が終わると、ヒムラーは傍らを行く自分の護衛に問いかけた。


「君たちは、総統のことについて、何も聞いてはいないのかね」


 護衛士官は申し訳なさそうに首を振った。


 ヒムラーなど、政権の要人にもRSDの護衛がついている。ヒトラー直属のスパイが身辺にいるようなもので、今回のような状況でうかつな言動をして、もしヒトラーが生還すれば、それは当然ヒトラーの耳に入ると思われた。親衛隊長官たるヒムラーですら、RSDが自分とヒトラーのどちらを向いているのか、確信は持てなかったのである。


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 互いに知り合いでもない。非常に楽しい道行、というわけでもない。だから口数が少なくなるのは、仕方のないことだとカウフマンは思っていた。軍歌を歌わせて無理に盛り上げるのも気が進まなかった。何か自分の知らない言語の会話が進んでいるな、と気づいていたのに、それは不思議に別世界のことのように思えていて、呼び止められたときカウフマンはかなり驚いた。


「カウフマン軍曹、質問してよろしいでしょうか」


 声の主は、ブレネケ上等兵だった。


「カシターナが、軍曹のお父上の名前を尋ねています」


 カウフマンは、少しその質問の意味を考えて、やがて思い当たると、カシターナに向かって微笑んだ。


「ハンス・ヨハノヴィッチ」


 カシターナは解放されたように笑って、応じた。


「カシターナ・セルゲーヴナ」


 ロシアでは「アラソルンの息子アラゴルン」といった古代の名乗りがまだ生きていて、それは一種の敬称でもある。父親がはっきりしている者、という含みがあるからである。スターリンが「タヴァーリシチ(同志)」という呼びかけを導入するまで、「ミスター」に相当する日常的な呼びかけ言葉はロシアになかった。


 いま、ヨハンの息子ハンスと、セルゲイの娘カシターナは互いに名乗りあった。


「ブレネケ、君はロシア語が出来るのか」


 カウフマンは尋ねた。


「猟兵大隊で教わりました」


 ブレネケは右手をカウフマンたちに示した。人差し指が半分と、中指全部がなかった。


「そこで負傷して、ドライバーになりました」


 小銃の引き金が引けない怪我は、平時であれば間違いなく故郷傷(除隊させられる負傷)であろう。しかしブレネケは自動車の運転を命じられ、訓練を終えて他の部隊に転属したのである。


 ブレネケが言う猟兵大隊は、後方で対パルチザン攻撃を行うための国防軍部隊で、語学の訓練もあった。ごく短期間だけ存在したタイプの部隊である。


「EK1(1級鉄十字章)もそこで?」


 カウフマンは、ブレネケの胸についている勲章に気づいた。


「はい、軍曹殿」


「何か気づいたことがあったら、教えてくれ。パルチザンとの戦いでは、階級章は役に立たん」


「ありがとうございます」


 ブレネケが答えるのを、いっしょに合流したふたりがにやにやと見ているのにカウフマンは気づいた。たぶんブレネケがよくできた兵士なのに、死んでしまった指揮官はそのいうことを聞かなかったのだろう。


 それにしても、腹が減った。カウフマンの頭も、そのことで占められ始めていた。


 男ばかりであれば、もっと休憩は少なくて済んだだろうか? カウフマンは何度かそのことを考えたが、はっきりした考えはまとまらなかった。歩き慣れない面々ばかりだ。


 今のところ、マイネッケとブレネケが交代で、さりげなく休憩中の歩哨に立っていた。今回はブレネケらしい。


 カシターナが、どことなくもじもじした様子で周囲を見回している。ようやく高低差のある地形を見つけたカシターナは、立ち上がった。


「カシターナ」


 聞き慣れない声に、カウフマンはびくりと聞き耳を立てた。声の主は、ほとんどしゃべろうとしないコラー一等兵。立ち上がって雑のうをごそごそすると、一束の紙をカシターナに差し出した。ソビエト軍が砲弾や爆弾でばらまくドイツ語のビラで、ドイツ兵に脱走を勧める内容のものが多い。それを眺めたカシターナは、意味がわからずおびえた表情を見せた。妙なことに、差し出したほうのコラーも、負けず劣らず困った顔をしている。


 気づいたブレネケが苦笑を浮かべて歩み寄り、紙を1枚とって、ごしごしと前後にこする動作をして見せた。カシターナはばっと微笑を浮かべ、紙を受け取った。


「スパシーヴァ(ありがとう)」


 コラーは、ひとこと声をかけただけで気力を使い果たしたように、弱弱しくうなずいた。


 ブレネケがにやにやしながら言った。


「コラー、君の父親の名前は何と言う」


 答えようとしたコラーだったが、カシターナが小走りに去ってしまったのを、ぼかんと後ろから眺める羽目になった。誰もがそれぞれの個性に合わせて、笑い声を立てた。


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「ヒトラーの飛行機が墜落したことは、事実のように思われます。所属不明機が少なくとも30機、突然ウクライナに集められて、飛行場管理部隊がひんぱんに事情を問い合わせています」


 係官の報告を、チャーチルは不機嫌そうに聞いていた。いらいらと小刻みに葉巻の灰を払うので、灰皿は小さな灰の塊でいっぱいだった。


 ドイツ軍のエニグマ暗号はイギリスによって解読され、アメリカとの約束で、誰に何を知らせるかはイギリス軍が決めてよいことになっていた。陸軍のローカルな暗号キーを試行錯誤で解いてもローカルな情報しか得られなかったから、解読の努力は高級司令部間の通信と、海空軍の暗号に集中させられていた。国防軍情報部が、各地の空軍基地に分散した情報軍航空部隊をヒトラー捜索のために呼び集めたので、細かい事情がイギリスにもわかってきたのである。


「ソビエトに知らせますか、首相」


 アンソニー・イーデン外務大臣が言ったが、これはもちろん、出所を明らかにせず、あいまいな情報として伝えるということである。


「アンソニー、わしの懺悔を聞いてくれるか。わしは今生まれて初めて、ヒトラーの健康を祈ってしまったよ」


 チャーチルは葉巻を一服吸い付けた。


「いまヒトラーが破滅することは、非常にまずい。大陸をソビエトにくれてやるようなものだぞ」


 シシリー島上陸作戦は目前に迫っている。その後イタリア上陸を敢行することをアメリカが納得するかまだ不透明だったが、チャーチルは可能な限り多くの領域に英米軍を先着させ、ソビエトの勢力浸透を防ぐつもりだった。


「たいした変化は生むまいが、ソビエトにはこのことは秘密だ」


 チャーチルは一座を眺め回した。まるで世界に口止めをするように。


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 最初にそれを見つけたのは、ベルグだった。青いまっすぐな葉が、ひょろりと天を指している。すぐに老練なオストカンファー(東部戦線従軍経験者)たちは、周囲をしらみつぶしに精査し、それらを掘り出した。


 かなり小さいが、それでもまぎれもない、4個の玉ねぎ。戦乱で収穫しきれないものが畑に残っていることがある。もちろん両軍兵士が貪欲に掘り返した後の生き残りがひっそりと育ち、芽吹いてきたものだから、あまり良いものは期待できない。


「どうやら、貯金をはたくときが来たらしい」


 ブレネケが腰の雑のう(大型のウエストポーチ)をごそごそして、魔法のように金属製のラード入れを取り出すと、低いうなり声が唱和して、照れくさそうな笑い声がそれに続いた。みんな空腹なのだ。


 ドイツ軍の前線兵士に配給される1日分の油脂は60gである。学校給食についてくるキューブマーガリンは7g程度だから、その分量のものすごさがわかる。もちろんこれを全部パンにつけるわけではない。昼に供される温かいスープに放り込まれるし、一部はラードのような、冷めると固まる脂肪として兵士に配られる。固形燃料も配給されるから、兵士はその油脂を個人的な食料や、所属分隊で手に入れた食料の調理に使うのである。ドイツ軍の野戦郵便は日本軍のものとは比較を絶していて、厳しい重量制限はあるにせよ、最前線まで実家からの食料品が届いた。


 いまブレネケがラード(かどうかはわからない)を出したということは、玉ねぎの油いためが食べられるということだった。それほど多くはなさそうだったが。


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 マンシュタインはほんの少し無口であり、ほんの少し口調が甲高かった。たぶんそれが、マンシュタインなりに打ちひしがれている状態なのだろう、と周囲のスタッフは思っていた。OKHは意外なことに作戦中止を言い渡して来なかったから、マンシュタインのシュツルムボック作戦はまだ続いている。


 ヒトラー専用機の推定墜落地点に向けて、装甲部隊を急進させることに、マンシュタインにはためらいがあった。誤射が怖い。マンシュタインの作戦計画には、ソビエト軍がクルスク南方に突出してくることがどうしても必要だったから、それもマンシュタインの判断を鈍らせた。


 クルスク南方から突出してくるソビエト軍の進撃は遅く、空軍にしつこく後方を爆撃させて得られた情報では、大規模な軍直轄砲兵は追随していないようだった。ソビエト軍はドイツ軍の動きを怪しんでいる。


「私が師団長たちに説明して回りましょうか、元帥」


 作戦地図の前で考え込むマンシュタインに、ブッセ参謀長が声をかけた。


「そうだな。そうしてくれるか」


 マンシュタインは平静を装って答えた。軍人は政治家に従うもの、と信じきってきた軍人一族のマンシュタインには、その政治家の生命を左右してしまった現状が、受け入れられないほどつらい。どこかで出口を見つけなければ、せっかくの作戦が台無しになってしまう。


 政治家に従うのが、幼年学校から軍人世界で生きてきたことによる刷り込みだとすれば、この状況でまだ作戦の成否が思考の一番上に来るのは、マンシュタインの人柄であろう。


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 東部戦線は全体に高緯度地域である。ベルゴロドは北緯50度、スターリングラードは48度、東部戦線の地図では南端に近いロストフで47度。稚内は北緯45度だから、戦線が丸ごと日本より北だった、といってもいい。夏至に近いこの季節、日の入りは遅かったが、カウフマンたちは夕食の準備を急いだ。夜になってから火を使うのは、目立ちすぎるからである。


 さいわい、塩を持っている兵士は複数いた。ありあわせの石で作ったかまどで、マイネッケが枯れ草と固形燃料を使って玉ねぎを炒めた。鍋代わりの飯ごうからいい音と香りが漏れ出してくる。カウフマンは周囲の見張りに立った。さすがにこういうとき、食物以外のものに注意を払えとは、命じづらい。


 立ち上るような期待感にあふれかえった場の中で、カシターナがはしゃいでいないのが際立っていた。何かを考え込んでいる様子だ。


 ありあわせの容器に、わずかな玉ねぎが取り分けられた。今日ばかりは東部戦線の習慣を破って、すべてが均等に盛り付けられるまで、みんなが食べるのを待った。黄金色の、荒っぽいまでに塩辛い玉ねぎが、湯気を上げる間もなく6人の胃に収まった。無言のインターバルが終わると、談笑が戻ってきた。


 カシターナが、ふと立ち上がって、自分の荷物をかき分けると、白い布袋を取り出した。それを談笑の輪に持ち込むと、カシターナはロシア語で何か言いながら、それを差し出した。


「食べてください、と言っています」


 ブレネケが通訳した。何気なく袋を受け取ったベルグが袋を開け、少し中身を出してみた。さらさらと粒状のものが出てきた。


 グルパ(そば米)だった。そばの実をゆでるか蒸すかしたあと脱穀したタイプのもの(スモレンスカヤ・グルパ)で、グルパを煮たカーシャ(そばがゆ)はロシア農民の常食である。乾いた状態でも食べられる。ソビエト軍の携帯糧食といえばカーシャと小魚で、ドイツ兵士たちにもなじみが深い。


 今まで食料を隠していたことを、とがめる者は誰もなかった。ほんのわずかの玉ねぎが、兵士たちを正気に返す妙薬であったかもしれない。カシターナのほうが、どこかおびえた顔をしている。


 どうします、という視線がカウフマンに集まっていた。


 カウフマンも、カシターナが隠しているものの正体までは予想していなかったから、虚をつかれた。やがて考えをまとめたカウフマンは、ブレネケに目顔で通訳を頼むと、カシターナの顔を覗き込んだ。


「カシターナ・セルゲーブナ、このグルパはあなたの命をつなぐものだ。だから私たちは、そのすべてを受け取ることはできない」


 カウフマンは、ブレネケが通訳し終わるのを待って、続けた。


「たぶん、私たちはもうすぐ友軍と合流できる。だから、私たちにひとつかみずつグルパを持たせて欲しい。まずいことが起こったとき、それぞれの命をつなぐためだ」


 カシターナがうなずくのを待って、カウフマンは自分の雑のうからソビエト軍のビラを取り出した。同じ目的のために、みんな持っているのだ。もっとも今度は、グルパの包み紙としてだった。ひとつかみずつのグルパが分配されると、それでも半分近くに減った布袋はカシターナに返された。カウフマンはさらに雑のうを探って、5マルク札を2枚つかみ出した。


「カシターナ、私たちが友軍と出会った後、私はできるだけのことをするつもりだが、軍隊というものは、女の子を連れて歩くようにはできていない。あなたは放置されるかもしれないし、逃げるしかないときが来るかもしれない。このドイツのお金は、ほんの少しだが、生きるチャンスをくれる」


 カウフマンは10マルクをカシターナに渡した。コラーは自分の雑のうに手を突っ込み、マイネッケは帽子を取ると、逆さにして兵士たちに差し出した。帽子には硬貨や紙幣が投げ入れられた。


「スパシーヴァ」


「ダンケシェーン」


 ひとつの意味を持つふたつの言葉が交換された。


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 ヒトラーたちは、カウフマンたちより目立つ存在だった。東部戦線では考えられないくらい軍服が汚れていないし、士官の制服には金筋やら記章やら目立つものが色々と余計についている。人数も多い。だから夜になったとたん、パルチザンの小部隊が追尾して来た。


 やがて月が沈んだ。パルチザンは次第に呼び集められ、数を増しているようだった。


「フライブルク少佐」


 押し殺したシュトラッサーの声が、呼んだ。東の地平線はかすかに明るく、夜明けの気配がする程度だ。会話していても、互いの輪郭すら読み取ることが難しい。


「ベルンシュタイン大尉、ゲーリケ少尉」


 さらにふたりの士官をシュトラッサーは呼んだ。


「君たちで、総統を守って脱出してくれないか」


 シュトラッサーは早口で言った。


 誰も即答できなかった。散発的だが途絶えようとしない銃撃が続く。包囲されていないのが救いといえた。


「もうすぐ朝が来る。この距離では、総統を見られてしまう」


 シュトラッサーは言った。


「私は、ソビエトの手に落ちるわけにはいかん」


 ヒトラーは弱弱しく言った。


「総統、このようなことになって私は」


「良いのだ、中佐」


 ヒトラーはさえぎった。


「ありがとう」


 ヒトラーはシュトラッサーを抱擁したのだろう。フライブルクには暗くて見えなかった。


「行くぞ、ベルンシュタイン、ゲーリケ」


 ヒトラーが自分の名だけ呼ばなかったことを、フライブルクはどう考えてよいのかわからなかった。とにかく行かねばならない。そのフライブルクを、引き止める腕があった。シュトラッサーだ。


「頼んだぞ、少佐。うちに本物の陸軍は君だけだ。君がいてくれてよかった」


 一方的に話すと、遅れるぞ……と言わんばかりにシュトラッサーは背中をぽんと叩いた。


「ドイツにお預かりするものはありますか」


 つとめて無機的な口調を選びながら、フライブルクは問い返した。


「俺が持って帰らなきゃいかんのは、こいつらなんだ」


 薄暗い中で、腕を水平に回す動きが見えた。


「ご老体を、頼む。ああ、一度言ってみたかったんだ」


 シュトラッサーは笑うと、敵のいる方向を向いた。


 シュトラッサーは深呼吸をすると、どうせ見えない敬礼をして、ヒトラーを追った。



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