Cent-16 釣れた魚を逃したい
自然災害により小島と周囲に立ち込めていた瘴気の暗雲が綺麗さっぱり消滅したエーゲ海。
そこに浮かぶ一隻の中型クルーザーのデッキにて、どこから出してきたのかさっぱり分からない黒いアロハシャツを身に纏い、パラソルとビーチチェアをセットした羽黒はのびのびとウイスキーの瓶に口をつけていた。
「くぅっー! 流石高級観光地御用達クルーザーだ。いい酒残っててよかったぜ」
もちろん冷蔵機能はとうに失われているため常温であるのは残念に思うが。
「…………」
対して、紙コップに注がれた温いウイスキーに絶対零度の視線を投げかける疾。
気にせず無視してウイスキーをストレートで煽っていると、無言で瓶底を蹴り飛ばされた。器用なことに刃物で切ったかのようにすっぱり削れている。
「うおい!? 何しやがる」
こぼれないように瓶を逆さまにし、残りを一気に胃袋に流し込む。流石にちょいとばかり酔いが回ってきた。
「で? いい加減答えろよ、最悪」
「んー? 最後のアレ必要だったのかって話だったか? ンなもん、いらんに決まってんだろ」
「…………」
タンッ!
無言で羽黒の眉間に向かって引き金を引いた疾。いつもであれば悠々と受け止めてやるところだが、よりにもよって異能破壊の方を撃ちやがったため首を捻って回避する。なんて危険な奴だ。
とは言え、これ以上機嫌を損ねると本気で敵対されかねないのでちゃんと話してやることにする。
「……ぶっちゃけあの場に残ってた面子なら消耗しきったリッチなんて一方的な虐殺だろう。消耗したお前さんやうちの賢妹だけじゃほんの少しだけ手こずるかもしれんが、全快のクソ蛇もいたからな。首と心臓、あと四肢を別々の異空間に放り込んじまえばさすがにそれで終わりだったろうぜ」
斬り落とした首をいちいち拾ってくっつけていたのを見るに、吸血鬼よろしく傷口からメキメキ再生はできなかったのだろう。白羽とフージュが戦ったというグライアイが傷口から分裂する異能を埋め込まれていたらしいが、もしかしたらその弱点克服の研究過程の賜物だったのかもしれない。
ちらりとクルーザーの端に視線を向ける。
「――水鉄砲、3リットル! ですわ!」
「きゃー! やったなー!」
白羽と、先ほど保護したフージュはクルーザーにしまってあった子供用の水着に着替えて暢気に水鉄砲で撃ち合っている。白羽は白髪によく馴染む薄水色、フージュは赤髪が映える明るい黄色の水着だ。実に愛らしい。つい数時間前まで血飛沫をまき散らしながら戦っていたとは思えない平和さである。
しかしそんな微笑ましい絵面にほだされない疾は追撃を止めない。
「じゃあ何でわざわざ派手な一手を出した。つーか、何であんな仕掛け仕組んだ」
「……元々は保険の保険のそのまた保険だよ。何度も言うように出さなきゃ出さないで全く問題ない余計な一手――だが、パフォーマンスにゃちょうどいいと判断したから打った」
今回の作戦はこの世界で名のある魔術組織が一丸となって対処に当たった――と言えば聞こえがいいが、つまるところここ最近名を上げつつある、彼の魔法士協会に単身で喧嘩吹っ掛ける無謀者、そしてその協会に目を付けられながら八百刀陰陽師「瀧宮」に正式復帰した「最悪の黒」の品評会である。羽黒たちを取り込もう、もしくは磨り潰してやろうと躍起になってる阿呆共にとっては、その力の真価を見極めるまたとないチャンスである。依頼主であり案内役でフォローにも回っていた世界魔術師連盟にしても、あくまで彼らの代表でしかない。たまたま羽黒と根深い因縁があるというだけで、基本的なスタンスは変わらないはずだ。
「まあ、パフォーマンスとは言いつつも手の内の欠片一つ見せてやる義理はないがな」
エーシュリオン侵入手前の海上戦はともかく、島内での戦闘はある一時を境に全くつかめなかったはずだ。なんせ世界最高レベルのジャミングが島全体を覆ったのだ。観測手はどれだけ肝を潰しただろう。監視魔術どころか計器すら謎の破損が続いたはずだ。
「そのうえアスク・ラピウスにとどめを刺したのは、今回の件に関して表向きには完全中立傍観であったはずの協会の大幹部サマだ。しかも海底にクレーターができるレベルで丸ごと吹き飛ばしたせいで痕跡調査も碌にできん。はっはー、これを見ていた連中はどう思うかね」
「ふん――『災厄と最悪が組むと敵対者のはずの協会すら巻き込む』か? 相変わらず浅はかな」
「世界の九割はその浅はかな連中で回ってんだ。これくらいで十分。残り一割のお賢い連中も『碌なことにならん』って認識を改めるだけだ」
名残惜しそうに瓶の口を舐め、その辺にぽいと捨てる。
「それともう一つ」
「んあ?」
「島を海底から吹き飛ばしたノワールの術式の件」
「…………」
わざとらしく視線を泳がせる羽黒。まるで悪戯を咎められた悪ガキようだが、何もかも諦めて完全バカンスモードに切り替えて釣りに興じている竜胆ほど、あいにく疾は甘くはない。
「あいつの吸血鬼に対する執着心は確かに常軌を逸している。島ごと吹っ飛ばすのも意外じゃねえ。だがそれはあくまで本気を出せば、だ。準備に準備を重ね、あらゆる非常事態を想定したうえで自分すら駒として扱い、一切の手心を加えずに術を組んだ場合だ。今回みたいな突発的な吸血鬼戦で、事前準備無くあそこまでの火力が出るとはとても思えねえ」
「あー、うん。まあ、そういう見方もできるな」
「で、何を仕込んだ――瀧宮羽黒」
「えーと……ノワールの術式に反応して火力が爆上がりする強化術を、島全体に――瑠依の呪術を使って」
ドカッ!!
銃でも異能でもなく、純粋な物理攻撃で羽黒を吹き飛ばす。ただし直接触れると龍鱗によるカウンターを喰らうため、腰かけていたビーチチェアを蹴り飛ばした。
ザブンと音を立てて海に放り出される羽黒。しばらくブクブクと海中から泡が昇り、それから数秒の後に濡れてペタンとなった髪で情けない風貌になった状態で浮上してきた。
「何しやがる!」
「無駄なことに阿呆な手段使って協力者の命を危険にさらした馬鹿の頭を冷やしただけだ」
言うだけ言うと疾は興味をなくしたらしく、操舵室へ入っていった。
「くく、いい男になったじゃねーの」
「……水も滴るいい男ってか。やかましいわ」
海面に縄梯子が投げられる。それを伝って船上に戻ると、腰のベルトに鞘をくくりつけた一見すると人畜無害な好青年風の暗殺者が立っていた。
「いや何でお前さんこっちの船におるん。修悟と帰ったんじゃねぇのか」
「そのつもりだったんだがな、誰かさんがノワール君を暴走させてくれたせいで逃走用に用意してた船が港ごと木っ端微塵だわ」
「おやまあそいつはお気の毒」
朔夜が差し出してきたタオルを一瞬受け取るのを躊躇する。こいつならば平気で布きれ一枚で羽黒に傷をつけられそうで恐ろしいが、今回ばかりは普通に厚意として手に取った。
「…………」
中に小さな針が何本も紛れていた。
「意趣返しが陰湿だなおい。飼い主に似てきたんじゃねぇの」
「巻き込まれかけたのはオレも同じだからな。まあそいつ一枚でチャラにしてやんよ」
「心が広くて俺ぁ嬉しいよ」
チマチマとタオルから毒針を一本一本抜きながら溜息を吐く。手作業に一瞬意識を持って行かれた隙に朔夜はすぐに見えなくなったが、何もない海の上だ。その辺にいるのだろう。
「お? きた、キタキタキタ!?」
声が上がる。
何事かと思い視線を上げると、竜胆と共に釣り糸を垂らしてポケッとしていた瑠依の竿が尋常ではないしなりを作っていた。
「おー、なんか釣れたか?」
「ああ! だが、全然、巻き取れねぇ!」
瑠依と一緒に竿を持ち上げようとする竜胆が歯を食いしばる。根掛かりかとも思ったが、この当たり一体、掛かるような根も綺麗に消滅しているし、糸も水面を走りまくっている。これは相当な大物だ。
「おい瑠依! 奴の動きに合わせて竿を立てろ! 少しでも余裕が出たら一気に巻き取れ!」
「竿を立てろって言われても! 今にも弾け飛びそうなんすけど!?」
「なぁに、ビッグゲーム用のゴン太ワイヤーだから早々切れることはねぇよ!」
「ぐぐぐぐぐっ……!」
竜胆が竿が折れないよう支えつつゆっくりと持ち上げる。それにより生まれた糸の余裕を可能な限り即座にリールを巻いて回収する。幸いなことに勝手に糸が出ていってはおらず、少しずつ海面に向かって上昇しているらしい。
「あ、見えてきましたわよ!」
「あの影? おっきー!」
騒ぎを嗅ぎつけた白羽とフージュが海面を覗き込む。羽黒も船上から顔を出すと、確かに揺らめく大きな黒い影が糸の先で泳いでいる。
相当デカい。引きの重さからエイの仲間かもしれない。種類によっては食えたもんではないが、まあ遊びの一巻としては良い思い出になるだろう。
「そら! もう少しだ! 一気に巻け!」
「は、はい! ……って、あれ?」
「うん……?」
瑠依と竜胆が揃って怪訝な表情を浮かべる。
「なんだ、ここまで来てバレたか?」
「えと、なんか急に軽くなったというか」
瑠依はシャリシャリと何の抵抗もなく糸を巻き取るリールを見せる。
「あれー? でも影は少しずつ近付いてるよー?」
船から半身乗りだしたフージュがコテンと首を傾げる。それを真似しようと乗り出した白羽を危ないからと引っ剥がし、代わりに羽黒が海面をよくよく覗き込む。
碧い海の底からゆっくりと浮上してくる黒い影。ところどころ薄ぼんやりとした白のツートンカラーで構成されている大きな魚影……魚影?
「んん……?」
瑠依が怪訝そうにリールを巻く手は止めずに海面を見つめる。
「あはは、なんか面白い形の魚ですねー。太くて長いヒレと、それより太くて長い二本の尻尾が見えますー……!」
「ああそうだな、まるで人間みたいな形してるな」
『『『…………』』』
その場の全員で顔を見合わせ、白羽が無言で太刀を取り出して糸に宛がう。キャッチ前リリースだ!
「ってそんな冷たいことすんなよモトゴシュジーン☆ アハハハハハハハハ!!」
「ぎゃあああああああああああああっ!!??」
ざばあと海面から飛び出した魚影、もとい人影が瑠依に抱きつく。ボロのような漆黒の衣に闇色の髪、瞳孔が曖昧な濁った灰色の瞳ーー
「ハハ……不思議ナ深海魚ダナア……」
「竜胆先輩竜胆先輩。現実逃避してるところ申し訳ないのですが、どっからどう見てもドビーさんですわよ」
「なんでだあ!? お前さっき俺たち庇って消滅しただろ!?」
「それな! あんだけシリアスかましたのにしれっと復活するとかマジクソウケんだけど☆ アハハハハ!!」
瑠依の顔面に張り付きながらゲラゲラ笑い転げるドビーことドラゴンゾンビ。これには流石の羽黒も頭が痛くなる。意味が分からない。
「んーと、とりあえず魔物だよね? たおしちゃっていいのかな?」
「お待ちなさいフージュさん。時と場合によっては何でもかんでも斬るべきではありませんわ。会話が通じそうなら、いつでも動ける準備をしつつ話を聞くべきですわ。何か情報が得られるかもしれませんし」
「そっかあ! シラツユちゃん物知りだね!」
「……本当にあの方の心労が偲ばれますわね」
頭を抱える白羽には悪いが、こちらもこちらで頭を抱える必要がある。羽黒は視線を瑠依に向ける。
「おい、クソ雑魚アホ馬鹿ナメクジ野郎、心当たり全部吐け」
「それ俺のこと!? フルネームより長いあだ名ってなんなの!?」
「瑠依、あだ名じゃなくて普通に悪口だぞ……」
はあ、と溜息を吐きつつ、「そう言えば」と竜胆が何かを思い出したのか顔を上げた。
「ドラゴンゾンビが消滅した後、爪だけが残ってたな」
「は? 爪?」
「そう。で、瑠依が手を伸ばしたけど強制契約解除のショックでギリギリ届かなかったんだよな」
「それだ」
「え?」
本当に頭痛案件しか持ち込まないクソガキだとつくづく羽黒は嫌気がさす。
「魔術界隈において『腕を伸ばし指さす』ってのは、杖などの魔導具を介さず術を発動させるための簡単な儀式だ。もちろんノーモーションで術を繰り出す馬鹿もいるが、基本的に『手を伸ばす』ってのはそういう意味を含む」
「あ、ああ。それくらいは俺でも知ってるが……まさか」
「あのお馬鹿さんがドビーさんの亡骸に手を伸ばしたことで呪術が成った、ってことですの……?」
「んで、その呪術を糧にこっそり復活したってところなんだろうが」
ちらりと、爆笑しながら類には抱きつくドビーを見る。幸いなことに瑠依の呪術をベースに復活を果たしたものの、契約の類いは結ばれていないらしい。
それだけは本当に救いだ。万が一再契約が結ばれていたら、冥府を揺るがす大事件となっていた。下手したら死神協定ガン無視で羽黒も招集が掛かる可能性すらあった。
まあだからと言って問題が解決したわけではない。爪の先に宿ったちっぽけな呪術から全身復活した上に、しれっとノワールの絨毯爆撃から生き残るような埒外のドラゴンゾンビをどうするか問題は、未だそこで爆笑しながら転げ回っている。
「で、本当にどうしますのコレ」
「言っとくがな! 紅晴市にも局にも連れて行けないからな!?」
「冷たいこと言うなよぉリンドウパイセン~。もっかいアンデッド連れた鬼狩りって最高にクールなタッグ組もうぜ~。あ、リンドウパイセンも一緒だからタッグじゃなくトリオだな! アハハ☆」
「絶対に断る!!」
だろうな、と羽黒が溜息を吐く。
ではどうするかと船内を見渡し、ようやく隠密していた朔夜を見つけて視線で問いかける。
「うちのボスに聞いてみんことには分からんがな、流石にそのレベルの幻獣一体増やすのは厳しいだろうぜ」
「あ? あのおっさんならまだ余裕あんだろ」
「いや、これ以上周りに性別:雌が増えると嫁さんがキレて世界の敵になりかねん」
「なにそれおっかねぇ!?」
相変わらず尻に敷かれているという無駄な情報を入手してしまった。
「じゃあ斬っちゃおっか?」
「それだけは勘弁してクレメンス」
ぺたーっと前半身のほぼ全てが床につくレベルの土下座をかますドビー。まあ普通に死ぬのは嫌だと。
いやちょいと待て、と羽黒嫌な予感を覚えた。
「あれ」
「……気付いてしまいましたか、お兄様」
「これ……マジ……?」
「選択肢、月波市しか残ってないですわよ……?」
「…………はああああああああああああああ」
この日最大の溜息と共に、初めて羽黒はその場にへたり込んだのだった。
* * *
「はっ。散々自分の愉しみと引き換えに引っ掻き回してんだ。それくらいの汗をかけ」
クルーザーの操舵室で、疾は虚空から一冊の本を取り出した。
無駄に豪奢な装飾の施された、魔術的な封のされた一冊の魔導書。本来、あの島の書物のたぐいは紙切れ一枚残さず消滅させるという依頼内容だった。疾は全ての魔導書の中身を確認し、使えそうなものだけ頭にたたき込み、残りの絞りかすは1つの魔石に封じてウロボロスに喰わせるという手段を取ってこれに応えたのだがーー一冊だけ、そのまま手元に残していた。
「碌な物は書かれてねえとは思うがな」
緻密なパズルのような魔術を一つ一つ解除していくと浮かび上がるタイトル。そこには「魔法士協会総帥の秘密」と記されていた。
「ノワールがアスク・ラピウスに取り入るための手土産として用意した物、ってとこか」
アスク・ラピウスの手に渡ってすぐに疾たちの襲撃に遭って中身が確認された形跡はない。これを記したであろうノワールを除けば、疾が第一読者である。
「…………」
ペラリとページをめくる。
視線を滑らかに動かして、次々と浮かび上がる攻撃的な封印を解除していく。その作業自体は雑誌裏のクロスワードパズルを暇つぶしに解く感覚で嫌いではないのだが、解読が進むたびに疾の表情に怪訝なものが浮かび上がる。
なんだか、魔導書の厚さに相応しい頑強な封印の割に、文字数がゴリゴリに減っていく。大したことが書かれていない程度の話ではない。これはーー
「……くく。ははっ……なんだ、あいつユーモア理解するだけの脳みそもあったのか」
パタンと魔導書を閉じ、手のひらに魔方陣を発動させて一気に焼く。瞬時に炭と灰になった魔導書の残骸をパンパンとはたき落とし、深々と操舵席に腰掛けて瞳を伏せた。
ーー魔導書には、「総帥は人参が食べられない」とだけ、記されていた。




