98話
「代表的なワルツだ。どこかで聴いたことはあるだろう」
タイトルは、と言いかけたが、ベアトリスはその役を晴れ晴れとした面持ちのセシルに譲る。
「『子犬のワルツ』、よ。ショパンのね」
そう、それは自らもよく知る曲だった。オルゴールではわかりづらいが、軽快な旋律はショパンの友人であるデルフィナ・ポトツカ伯爵夫人の飼い犬が、自らの尻尾を追いかけ回る様子を表した変ニ長調。
「あたしの一番好きな曲で、一番練習した曲で、そして――」
「私が一番最初にあなたに弾いた曲、でしょう?」
奪う形でセシルはベルを補足する。なぜかその部分は自分が言いたかったのだ。
「……うん。まるで魔法みたいだったの、今でも覚えてる」
必死にならなくても、ふと目を閉じるだけでベルはその時のことを思い出せる。その衝撃はその後どんな名曲と言われるものを聴いたときも、どんな素晴らしい演奏を生で聴いた時も感じたことはない。とても特別な一曲なのだ。全ての始まりであり、ことあるごとに初心を思い出すためにベルはピアノで演奏をした。もはや自分は何度この子犬に助けられたのだろうか。
子供の頃に体験する出来事。それは大人になってから体験するのとは異なる。後の人格の形成に多分に影響し、その頃に決まるといっても過言ではない。だがベルの場合、そんな時期に聴いたから、というだけではない。弾いてくれた人物が大いに影響していた。
「あの時もあまり軽快、とは言いづらいテンポだったわね。さすがにここまでではないけど」
廻すだけとはいえ、ピアノと同じように演奏はできておらず、ちぐはぐになってはいた。それを露骨にセシル責めるが、その表情が嬉々としているため、破壊力は皆無と言っていい。
シャルルの専売特許とも言える頬の膨らましをベルも生成し、余裕を見せつけるセシルを睨むが、その溜めた空気を「ふっ」と吐き出し、手作りのオルゴールをそっと抱いた。
「あの時は曲名も作曲者もわからなかったけど、今もあたしにとっては特別な曲。ずっと、これからも」
まるで祈るようにも、感謝するようにも見えるベルの姿。その対象は誰なのかはわからないが、真心の込もったそれは、光の粒子の一粒一粒も支えるかのように輝きが増して見えた。
「……なんでか、あの人も私が初めて弾いた『古風なメヌエット』を好きになったの。そしてあなたは子犬。名は体を表す、ってこのことかしらね」
その推測に混ぜられたセシルの感情は呆れ、というよりも納得の色が濃い。だとすると、自分の好きな曲はバダジェフスカの『乙女の祈り』。なんだか気恥ずかしくなった。
「わかんないよ……でも……」
強く噛んだ下唇を緩め、ベルは続ける。
「ママが弾いたから、ママだからなんだと思うの。たぶん、心に響くって……そういうこと」
「……ベル」
名前を呼びたくなった。髪に触れたいと思った。その香りを包み込みたい。そして……抱きしめたいと思ったその時には、すでに娘は腕の中にいた。そして小さく呟く。




