283話
だがそれでもベアトリスの感情に起伏はない。ただ。淡々と。黙々と。感触を確かめる。
「別に。お前だったら隠す必要もないからな。だが、私がここにいること、いたこと、弾いたこと。全て忘れろ」
一度聴かれているなら、他の人に聴かれるよりかはまだマシなだけ。本当はこの面倒なヤツには近づきたくないのが本音だが、調律の腕だけは認めている。
なにやら複雑な事情がありそうなことはわかったが、だからといってサロメには関係なく、そして容赦をするような人物でもない。
「だったら弾かなきゃいいのに。タダで弾かせてあげんだから。そこんとこ詳しく聞きたいね」
グイグイといく。この小さな少女に興味がある。中々、ピアノではなくピアニストに興味を持つことなどないのに。それに、なにか弱味のようなものを握れそうで。
失望のため息を吐くベアトリス。やっぱり来るんじゃなかった。
「試弾するにも条件がいるとは、随分とケチな店だなここは」
やはり学園にでも行くべきだったか。いや、今はもう部外者。プロのピアニスト、とかであれば弾くことは可能かもしれないが、ただの花屋。それにそこまでするべきではないし、したくもない。
なにやら険悪な雰囲気を感じ取った男性が間に割って入る。
「いやいや。どうぞどうぞご自由に。このアトリエの社長のルノーだ。こいつのことはね、気にしなくていいから」
こいつ、とは自身を睨みつけてくるわがままな従業員のこと。
「……あぁ、よろしく頼む」
控えめにベアトリスは挨拶。この猛獣を手なづけている人物か、と少しだけ同情。飼い慣らせるものではない。
小さな少女の肩に手を置き、仲良しをアピールしつつサロメは顔を近づける。
「で? なんでまた弾きたくなったわけ? それくらいは教えてくれてもいいんじゃない?」
このあたしの。極上のユニゾンをタダでで弾けるのだから。いや、そりゃ試弾だからタダだけど。恩着せがましくいこう。




