282話
パリ三区。かつて貴族が館を構えていたエリアであり、一七世紀の歴史を物語る美術館や博物館も多い。四区にまたがるマレ地区は、そういった歴史的な建造物や、最新のブティックなどが入り混じったパリの人気観光地でもある。
その一角にあるピアノ専門のアトリエ〈ルピアノ〉。アップライトからフルコンサートグランドまで、多種多様なメーカーのピアノを取り揃えており、パリでも名の通った店となっている。
「まさかそっちから近づいてくるとはね。あれだけ嫌そーにしてたのに」
気だるげにヤマハのグランドピアノに軽く寄りかかりながら、そこの調律師でもあるサロメ・トトゥは、ニヤニヤと不気味な笑みを浮かべた。モンフェルナ学園に通う彼女は、着替えるのも面倒なので制服のまま接客。
そしてそのベタついた視線は、イスに腰掛ける少女に向けられたもので。まるで冷蔵庫の奥から期限の切れた食品を見つけてしまった時のような、怒りにも悲しみにも似た瞳をベアトリス・ブーケは見せた。
「たまたまだ。パリで一番まともなピアノがある、としたらここだ。私は過小も過大も評価していない」
そして鍵盤に触れる。優しく。たおやかに。音を噛み締める。
空間に広がっていくその音は、無色透明であり、それでいて様々な彩りを持っていて。どんな色でも染まってしまいそうな危うさと、それとは真逆な確固たる骨のある力強さ。両面を持ったバランスの良さ。それを感じ取ることができる。
二人は数日前、とある件で顔を合わせ、サロメの調律したピアノをベアトリスが弾く機会があった。それ以来の邂逅だが、お互いにチクチクとした棘のある圧力をかけ合っている。
「聴かれたくないんでしょ? 弾いてるとこ。なのになんでよ。ここならオッケーってこと?」
その際、サロメは彼女から、自身がピアノを弾いていることは誰にも言うなと釘を刺された。理由を聞いても答えてくれなかったので諦めたが、今回は向こうが能動的に弾きに来ている。なら。聞くっしょ、フツー。




