112話
全く違うことを考えているベアトリスをよそに、汗……そう言われてベルはハッとした。
「塩……ですか?」
期待半分、疑問半分でベルが問う。
「そうだ、汗をかいた体には、塩分が足りなかったとのことだ。実際にそこに気づいたシェフは、翌日から塩を増やしたところ、残す者がかなり減ったと聞く。ちなみに塩水を花にやると枯れるから入れるなよ」
豆知識を挟みつつ、ベアトリスは手元のアレンジを終え、店内を歩き出した。そろそろ閉店の時間であり、店内の全体の花のチェックや、足りなくなりそうな花をピックアップして、バインダーに挟んだ紙に書いていく。花の仕入れは基本毎日あるため、欠かせないのだ。
「最高に美味しいものを作ることより、自分の味を崩してでも、受け手に合わせて作る。一緒だ」
ベルはここで合点がいった。たしかにシェフからすれば、自分が一番美味しいと感じる味付けで食べて欲しいと思うだろう。それが自分にとっての完璧なのだから。しかし、それは自分の技術を見せびらかしたいことと同じになる。一流のサービスとは、お客様すら気づかないものを見極めることなのかもしれない。
「究極なんてものはない、だから今、自分ができる精一杯のことをするべきだ。ま、そろそろ閉めるぞ」
〈ソノラ〉は決められた時間ではなく、夕方になると店主の気分次第で閉店する。今日は疲れたから、と早めに閉める時もあれば、土曜日など祝日の前の日は遅くまでやっていていたりする。自営業なのでそこは法に触れない。
閉店、と聞いてベルはバケツなどを手早く片付けた。彼女にとってはここからがある意味本番なのだ。
「はい、今日もよろしくお願いします」
閉店してから毎度、そこからは基本的なベルの練習時間となる。実戦に勝る練習はないのだが、それでも基礎的な部分で勉強しなければならないことは非常に多い。そこを養うためにも練習は当然必要だ。
そこでベアトリスは店主として付き合っている。元々はやるつもりもなかったのだが、ベルの連れにせがまれる形でこうなってしまった。やはりなんだかんだで面倒見がいい。
「準備できました」
まだ真新しいフローリストケースを腰に付けたベルが正立した。応援してくれた両親からプレゼントに買ってもらったレザータイプのケースには、ハサミやナイフなど、必要なものを揃えている。テープ類はベアトリスから一式もらったものだ。手にはメモ帳とペンを持ち、要望を逃さないように記入する。
じーっとベルを頭のてっぺんからつま先まで観察し、感情もなくベアトリスは小さくこぼす。
「……こいつのどこをいいと思ったのかね」
「聞こえてますよー?」
ピアノで鍛えたベルの耳は、とりあえず言われた悪口を拾った。いつかこの姉とは決着をつけなければ、と心の奥底で火花を散らす。が、今は自分のために時間を割いてくれている講師である。
「お願いします」
気持ちを切り替えて、この瞬間からは集中しよう、と決意した。




