誤解から疑問へ
エルフリートは氷水の入ったたらいを厨房に返して、書斎へと帰って来た。
書斎で書類の整理をしていたらしいグリシスは扉を開ける音に顔を上げ、エルフリートを迎え入れてくれた。
「エルフリート様。あの女の様子はどうでしたか?」
「目を覚ましたようだった。頭が痛そうだったが、それ以外は大丈夫だと言っていた」
「そうですか。丁度今、小隊長も目を覚ましたと報告がありました」
「そうか。よかった」
エルフリートは再びほっと溜息をついた。
グリシスが言っているのは、エルフリートの目の前でゲシュタルによって下に落とされたあの小隊長だ。
彼女は砦の塔よりも高いところから下に落とされたが、一命をとりとめていた。
彼女の落下地点に、大量のモコモコ綿のようなものが湧き出ていたからだ。
「目撃者の証言によれば、汚れた女性が連れていた小さな子供に促されて空を見て、紙に何か絵を描いたかと思ったらまるで手品のようにその綿だまりを出現させ、小隊長の落下に備えたとのことでした」
「そうか、小隊長の事も彼女が助けてくれたのか……」
つぶやいたエルフリートは、あの小隊長まで救ってくれたのはキャロンなのだとすぐに分かった。
目の前で彼女の魔法を見ているのだから、疑う余地はない。
しかしグリシスは小さく眉を寄せた。
「エルフリート様。あの女は確かにエルフリート様を助けて最後の砦を守ってくれましたし、強大な魔法が使えるのは真実のようです。俺も感謝しても仕切れません。でもあの女、ちょっと怪しいとも思います」
「……怪しい?」
「はい。あの女は数々の男を手玉に取って、姉をいじめていた性悪です。そんなあの女が魔族襲撃のタイミングでなぜ砦なんかにいたんでしょうか。本人に聞いてみましたか?」
「まだ病み上がりだから本人には聞いていない。だが狐の子には事情を聞いた。砦近くに散歩に来ていて化け物の攻撃による急な揺れで下水に落ちて、そのまま進んだら砦に行きついてしまったらしい」
これも偶然だが、エルフリートと狐の子は初対面ではない。
街角の小さな店で出会って何度か話をしている。
まだ信頼とまではいかないが、話は信用してもいいとエルフリートは考えていた。だがグリシスは首を振る。
「……。こんなこと言いたくはないですが、それ、本当ですかね?狐の子は異形の子ですよね?嘘だってつかなければいけないような環境で生きてきたのではないですか?だからあの女とグルと言う可能性もあります」
「グリシス、偏見は良くない。でも仮にそうだったとして、なぜ彼女は危険を冒してまで皆を助けてくれたんだ」
「俺だってあんまり変な想像はしたくないですよ。でもエルフリート様は用心深いけど一度心を許したら疑うことをしないから、あの女に騙されて骨の髄まで吸われたらと思うと心配なんです。例えばあの女が魔族と結託関係にあったらどうするんです?」
「いや、その可能性は低いだろう。魔族は人間を餌としてしか見ていない。魔族と人間の結託など悪夢だが、それは夢のまた夢だ」
エルフリートの反論に、グリシスは「例えが悪かったです」と唸った。
魔族は人間の天敵のようなもので、力関係は魔族が圧倒的に上だ。
対等な関係を結ぶことは困難だろうということは、皆が分かっている筈の事だ。
「でも、たまたま下水を歩いて行ったらたまたま砦に行きついて、たまたま魔族の襲撃を上手く収めて生きている人間なんて、やっぱりおかしいですよ」
「ではグリシスは、彼女が何らかの嘘をついていると言いたい訳か」
「そうですね。まず忘れてはならないのが、あの女は誠実もへったくれもない淫乱で、姉を虐める性根の腐った女だということです。多分、嘘をつくことも演技をする事も簡単にやってのけますよ」
苦い顔で言ったグリシスは、エルフリートのように認めた相手になら、常に忠実に尽くしてくれる。
しかし一族の気質なのか、一度疑った相手を信用することは中々難しいようだった。
その気持ちは、高潔だと有名な銀狼の一族のエルフリートにも良く分かる。
だがエルフリートとグリシスは、いつ何時も意見を同じくするという訳ではなかった。
「確かに彼女にはそんな過去もあったのかもしれない。だが、鼻血を出して気絶するまで砦を守ってくれた事実は変わらないだろう」
「そうかも知れません。でもだからと言って今までの事があるのに手放しで信用はできませんよ」
エルフリートが首を振っても、グリシスはまだ意見を変えるつもりはないようだった。
彼はエルフリートの事をとても大切に考え、いつでもエルフリートの為に動いてくれる。
良い友であり、頼れる側近だ。
だからグリシスがキャロンを嫌うのは分からない理屈でもない。何故なら彼女がエルフリートに害をなす可能性がまだゼロではないからだ。
グリシスが言うように、キャロンは結婚式の日の朝まで男遊びをするような酷い女性だ。
虐められていた姉が泣いてしまうほどの意地悪な女性だ。
でも砦の件があってから、エルフリートは果たして本当にそれが真実なのだろうかと考えた。
いや、真実でなければいいなと考えてしまった。
キャロンは危険を顧みずエルフリートたちを助けてくれた。
男狂いのキャロンだからエルフリートのような夫など邪魔でしかない筈なのに、何故か死んでほしくないと叫んでくれた。
姉を虐めるような性悪な女性の筈なのに、何故かみんなを守りたいと言って化け物に立ち向かってくれた。
鼻血を出しても怯むことさえせず、崩れ落ちて気を失うまで宣言通り全力で塔を守ってくれた。
だけど、化け物に飛び掛かって行こうとするエルフリートを必死になって止めて、絶対に守ってみせると言ったキャロンの顔は、とても真っ直ぐに見えた。
死なないでとぶつかってくれたキャロンが嘘を言ってるようには見えなかった。
絶望的な化け物と相対しても、その強い瞳は最後までまっすぐ前を向いていた。
エルフリートは、その時の横顔がどうしても忘れられない。
誰がなんと言おうと、今まで信じてきた不誠実で意地悪な彼女との違和感がありすぎる。
「エルフリート様。すみません、先程は言いすぎたかも知れません。気分を入れ替えるためにお茶でも飲みませんか」
「そうだな。それがいい」
書斎には、溜まった書類仕事にも十分に集中出来ないような雰囲気が漂っていたので、エルフリートはグリシスに全面的に賛成した。
グリシスは立ち上がり、お茶の準備の為に書斎から去っていった。
エルフリートの他に誰もいなくなった書斎で、少しだけ目を細める。
実はもう二つほど、キャロンについて分かった事があった。
先ず一つはキャロンが絵を描いていて、街でも差別されているような子供を助けてやっている事だ。
なんの偶然かキャロンはエルフリートが思わず購入してしまったほどの絵を描いていた画家本人だし、子供はキャロンに懐いている。
それから二つ目は、時々ふとした時に香っていた、あの花のような匂いについてだ。
これは、下水を被ったようなにおいのするキャロンを屋敷に運んで、驚くメイドに頼んで風呂に入れてもらい、ベッドに寝かされたキャロンに冷えたタオルを載せてやった時にようやく気が付いた。どうやらあの花のような匂いは、キャロンのものらしいということに。
エルフリートが初めてそう認識した時、驚き過ぎてキンキンに冷えたタオルをキャロンの顔面に取り落としていた。
キャロンは初めて会った時も結婚式の日も酷いにおいを漂わせていて、砦を守ってくれた日も物凄いにおいを纏っていた。
それこそ、鼻がもげそうな嫌なにおいだった。彼女が纏っていたそれらの強烈なにおいはエルフリートの利きすぎる鼻を完全にダメにし、そのせいでこの微かな良い匂いはいつもかき消されていたのだ。
恩人であるキャロンが本当はこれっぽっちも臭くないとわかって、エルフリートはホッとしたような嬉しいような胸がざわつく少し変な気持ちになった。
何故か必要以上にキャロンの様子を見に行ってしまったし、キャロンが目を覚ましてからは柄にもなくアレコレと話題を探してしまった。
恩人なのだから気を遣うのは当たり前かもしれないが、それとは少し違う気もする。
この得体の知れない変な感覚を言葉にすることは出来ないが、やっぱりエルフリートは、もう少しキャロンについて知りたいと思ったのだった。




