目覚めた後に
「キャロン、大丈夫ですか!」
目覚めたキャロンに気が付いて、いの一番に飛びついてきたのはイクルだった。
「ふふっイクル、くすぐったいですよ」
心配そうにキャロンの頬やおでこを触る小さな手が忙しなくて、キャロンは思わず笑ってしまった。
鼻血はもう出ていなさそうだし、少し頭が痛いくらいでもう大丈夫そうだ。
キャロンはイクルに落ち着くように言って、ゆっくりと肘を使って上半身を起こした。
窓の外を見る。
空が青くて太陽がさんさんと輝いているのが見えたので、どうやらキャロンは丸一日は眠っていたようだ。
窓から視線を外して部屋を見てみれば中にはイクル以外に誰もいなかったが、ベッド脇のテーブルには水差しとコップ、それからタオルやガーゼなどが置かれていた。
「キャロン、気絶はもう大丈夫ですか。鼻はもう痛くないですか。鼻血がたくさんでていたので、軍人さんも僕も物凄く心配しました」
「そんなに出ていましたか?でももう大丈夫ですよ。イクルも怪我などはしていませんか?」
「大丈夫です。キャロンを捕まえていた兵隊さんをひっかいた時にちょっと擦りむいたくらいです」
「えっ大丈夫なのですか?イクル、見せてください」
「大丈夫です」と言うイクルを捕まえて、キャロンは服の裾をまくった。
怪我はイクルが言った通り擦りむいた程度だったし、誰が施してくれたのかは分からないが、きちんと消毒もされていた。
今回の件では砦に迷い込んでしまったことは事故でも、それからの行動はキャロンが選択したことだ。それにイクルを巻き込んでしまった形になっていたので、彼が何事もなく無事で良かったと胸を撫で下ろす。
「そういえばイクル、私が気を失ってからどうなったか分かりますか?」
キャロンはめくり上げたイクルの服の裾を戻しながら、そう尋ねた。
キャロンがこうして看病されていて屋敷も壊されていないので魔族の侵略自体は止めることが出来たと思われるが、キャロンは化け物の攻撃を防いだ後に気絶してしまったので、その後の経緯を知らない。
イクルはキャロンの質問に対して、化け物と魔族がどうなったのかを簡単に教えてくれた。
「キャロンが化け物の攻撃を防いでから、軍人さんが化け物を倒しました。そうしたら魔族は『もう少し改良がいるみたいだね』と言って去っていきました。強い魔族がいなくなって砦には下っ端の魔族だけになったので、援軍が到着する前に決着はつきました」
「砦も皆さんも無事ということですね」
「はい。でも僕はキャロンが倒れたのでとても心配しました。ずっと傍にいたんですが、戦いが終わった時軍人さんがキャロンを抱き上げてどこかに連れ去ろうとしたから、噛みついてしまいました」
「えっ!……えっと、イクルもその軍人さんも大丈夫でしたか?」
「はい。軍人さんは噛みついた僕の事を許してくれました。それからキャロンを屋敷に連れて帰って医者に診せると言いました。それから僕も屋敷に来てもいいよと言ってくれて、お風呂に入れてくれて手当てもしてくれました。その時やっと、僕はその軍人さんがいつもお店に来てくれる軍人さんだと気が付きました」
「……え?」
「キャロンが寝ている間に、軍人さんにキャロンの事を色々聞かれたので、キャロンの事を話しました。キャロンがとても優しい事とか絵が上手なこととか話したら少し驚いていました」
「イクル、もしかしてその軍人さんって……」
キャロンが言いかけた時、部屋の扉がコンコンと叩かれた。
慌てて返事をすると扉がゆっくり開けられて、すらっとした人影が部屋の中に入ってきた。
エルフリートだった。
「目が覚めたんだな。良かった……」
少しだけラフな格好のエルフリートが、氷水の入ったたらいを持ってキャロンの方にゆっくりと近付いてくる。
きっとキャロンの為に、たらいの氷水でタオルを冷やしてくれるつもりなのだろう。
でもそんなに近づいてきては、またくさい思いをさせてしまう。
しかし逃げることも出来ず、キャロンは少しだけブランケットを上に引っ張って体を隠した。
「あ、あの、すみません」
「君が謝る事など無い。今回は本当に、君のおかげで皆が助かったんだ」
今日のエルフリートは、キャロンに近づいてもくさいと言って眉をしかめることはなかった。
ベッドから少し離れた場所にたらいをおき、タオルを冷やして絞り始めた。
それをきつく絞り切ってから、エルフリートは更にキャロンに近づいてきて、ベッドの横にあった椅子に腰かけた。
「何故君が危険を顧みず皆を助けてくれたのか、何故君にそんなに大きな魔力があるのか。この狐の子にも少し聞いたが、君が目を覚ましたらまだ色々と聞きたいことはあった。だが何よりもまず、砦を守ってくれて有難う。今回の君の活躍は、軍人ならば二階級昇進は間違いなかっただろう」
「いえそんな!出しゃばってしまいましたが、本当に良かったです。何とか砦を守り切れたみたいで……」
「謙遜はいい。君には礼を言っても言い足りない。本当におかげで皆が助かった」
エルフリートに頭を下げられて、キャロンは恐縮した。
恐縮しすぎて、枕元にいたイクルを引き寄せてぎゅっと抱きしめてしまったくらいだ。
しばらく頭を上げてくれと懇願していると、エルフリートはようやく元の姿勢に戻ってくれた。
そして遠慮がちにキャロンに話しかけてきた。
「体調はどうだろうか」
「体調は、頭が少し痛いですがそれ以外は大丈夫かと思います」
「頭痛の薬は要るか?良く効く痛み止めがある」
「ええと、はい、いただいてもいいですか」
「ああ、勿論だ」
頷いたエルフリートは、すっと立ち上がってベッド脇のテーブルに用意されていたコップに水を注ぎ、薬を用意して手渡してくれた。
キャロンが恐る恐るコップを受け取った時、一瞬エルフリートの手が揺らいで中の水が揺れたが、幸運なことに水は零れなかった。
よくよく見れば、水の入ったコップを差し出したエルフリートの右手には、イクルのものらしき噛み跡があった。
この傷が丁度痛んで、エルフリートの手が少し震えたのかもしれない。
キャロンは少し申し訳ないような気分になりつつ、受け取った薬を飲み込んだ。
少し苦かったが、だからこそ良く効きそうだ。
キャロンがコップの水を飲み干すと、エルフリートは今度は冷えたタオルを差し出してきた。
「特に熱はないようだが冷えたタオルはいるか?額に載せておけば気持ちがいいかもしれないと思って用意していたが」
「あ、ありがとうございます」
キャロンは良く冷えたタオルを慎重に受け取り、仰向けに寝てブランケットを顎のあたりまで引き寄せてから、自分で自分の額に載せた。
寝たままの姿勢で、エルフリートをおずおずと見てみる。
エルフリートは用事を終わらせたはずなのに、まだベッド脇に座っているようだ。
自室のベッドに寝ながらエルフリートの顔が見えるのは、何とも変な気分だった。
「腹の具合はどうだろう。果物でも用意した方がいいか?」
「い、いいえ。大丈夫です。食欲はないみたいです」
「そうか。何か食べられそうになったら言ってくれ。水はテーブルにあるからこまめに飲むように」
「はい、ありがとうございます」
「それから暇潰しに、あとで本でも持ってきた方がいいか?」
「え?い、いいです。お手を煩わせたくないので大丈夫です」
「そうか。ならば他に必要なものがあったら言ってくれ」
キャロンは返事の代わりにコクコク頷いた。
なんて事のない内容だけど、エルフリートとこんなに会話したのは初めてかもしれない。
自分はくさいかもしれないと緊張しながらも、少しだけ感慨深かった。
「すまない、たくさん質問をしてしまった。疲れただろうか」
「い、いえ。疲れてはいませんが、もう少しだけ休んでも良いでしょうか」
「ああ、全く構わない。ゆっくり休んでくれ」
エルフリートはベッド脇のテーブルを少し片づけ、氷水の入ったたらいを持ち上げた。
そしてキビキビとした動きで扉のほうへ向かう。
キャロンはその後ろ姿を目で追いながら、エルフリートははそのまま部屋を出ていくのだろうと思っていた。
が、彼は去り際にくるりとキャロンの方を振り返った。
「それと、君の体調が良くなったら、少しだけ話をさせてもらってもいいだろうか」
「あっ、ええと、はい」
「ありがとう。では失礼する」
扉が静かに締まる音がした。
エルフリートが去っていく規則正しい足音が遠ざかっていく。
キャロンはようやく緊張を解いて、ふうと息をついた。
そのタイミングで、キャロンの隣でブランケットを被っていたイクルがモゾモゾと動いた。
「軍人さん、キャロンが眠っている間も冷たいタオルをたくさん替えていました」
「そうでしたか……頭が痛いので冷たいタオルは有難いです」
「はい。軍人さんはとても心配していて、昨日の夜は長い間座ってキャロンの様子を見ていました」
「えっ。なんだかエルフリート様には、沢山ご迷惑をかけてしまいましたかね……」
エルフリートに感謝しながらも、キャロンは申し訳ないなと思って眉を下げた。
キャロンはくさいから、きっとエルフリートは我慢しながら看病してくれていたに違いないのだ。
「でも一番キャロンの心配をしていたのは僕です。僕はキャロンが起きるまでずっとそばにいました」
イクルは困った顔をしたキャロンに身を寄せて、フワフワのしっぽを腕に巻き付けてきた。
「ありがとうございます、イクル」
頭を撫でてやると、イクルはくすぐったそうに身を捩った。
可愛いなと癒されつつ、キャロンは目を閉じる。
(とにかく……エルフリート様たちが無事なようで本当に良かったです)
今でもあの熱風や鼻血が垂れる感覚を鮮明に思い出せるが、キャロンは頑張って良かったと心から思った。
冷静になって考えれば物凄く恐ろしい状況だったが、よく奮い立つことが出来た。
こればかりは、過去の自分に感謝だ。
ふうと大きく息を吐いたキャロンは、目を閉じたまま思い返していた。
しかし間もなく、再びの眠りに落ちていったのであった。




