3.景吉との距離 ※
昼休みを境に、私と景吉は久しぶりに『険悪タイム』へ突入した。
午後の授業が終わり放課後になっても、私と景吉は言葉を交わさないどころか、目も合わせていない。要するにケンカしているのだ。
ケンカのきっかけは、私が言い放った「給料安そう」発言にあるけど、あれは景吉をバカにするために言ったわけじゃない。(半分バカにしてたけど)
私は、仮に景吉が結婚相手になるなら、養ってもらうだけだと生活に困るだろうから、私も協力するつもりだと遠回しに伝えたかった。
だけど、そんなニュアンスを伝える前に景吉から「寄生虫」呼ばわりされ、カチンときて煽り合いになってしまった。どっちが悪いとも言えない気がする。
とりあえず帰り支度を終えた私は、景吉を避けるように教室から出ていった。
私と景吉は帰宅部なので普段は一緒に下校しているが、今日はそうもいかない。
私たちは、昔からケンカをしたあとは互いの怒りが収まるまで、一晩くらい距離を置くようにしている。それがいわゆる『険悪タイム』だ。
いつも一緒にいる景吉と離れると少し不安になるが、別に珍しいことじゃない。
それに、今はもう放課後だ。一人で寂しく下校するくらい、なんてことはない。
それから一晩経って明日になれば、景吉とのわだかまりも解消されるだろう。
と、軽い気持ちでいた私は、帰り際になって思わぬ不運に見舞われた。
「えっ……ウソでしょ」
玄関で靴を履き替え外に出ようとした直後、薄暗くなった屋外からポツポツという嫌な音が聞こえてくる。その可愛らしい雨音が滝のような轟音に変わるまで、さして時間はかからなかった。
今は春を過ぎた梅雨時だ。夕立があっても不思議じゃないが、昼間は快晴なのに夕方から雨になる天気は反則だ。
確か、予報でも雨は夜まで降らないと言っていた。予報を信じた私は、当然ながら傘を持ってきていない。
その瞬間、私はなぜか泣き出したいくらい心細い気持になった。
不運な夕立に見舞われただけなのに、自分自身がどうしようもなく無力な存在に思えた。なんとなくブルーだった気分が、どん底に落された心地だ。
どうやら私は、景吉がそばにいないだけで、こうもか弱い人間に成り下がるらしい。
思えば、私は物心ついた頃から景吉に甘え、守られてきた。
客観的に見れば景吉は冴えない男かもしれない。だけど、同じく冴えない私にとっては、唯一無二の仲間と言える存在だ。
いや、仲間なんてものじゃない。もっと大事な人――私の好きな人だ。
そんな私が、景吉を失ったらどうなるだろうか。
明日になっても景吉が機嫌を直してくれなかったらどうしよう。
もしもこのケンカきっかけで景吉との関係が疎遠になったらどうしよう。
雨という抗うことのできない自然現象に阻まれた私は、余計な心配を次々と喚起させる。
このままじゃ不安に押しつぶされそうだと思った私は、意を決して雨の中に飛び込もうとする。
その瞬間、私は誰かに腕を掴まれ体を引き戻された。
「きゃっ!」
「うおっと!」
よろめいた私は、腕を引いた人物に体を抱きとめられた。
男子の制服を着たその人は少し小柄で、どこか落ち着く匂いがする。
私は顔を上げなくとも、その人が誰であるかすぐにわかった。
「傘、ないのかよ」
ルール違反だ。今は『険悪タイム』だから、話しかけちゃダメなのに。
「濡れたらカゼ引くぞ。スミちゃん、体弱いんだから」
体が弱いのはお互い様だ。冬はいっつも風邪引くクセに。
「俺、折りたたみ傘持ってるから」
それくらい知っている。確か中学三年の時にお父さんの下がりで貰ったやつだ。
私は、景吉のことなら何でも知っている。だって、15年も一緒にいるんだもん。
そして、こんな時はどんな反応をすればいいかも決まっている
「いや~、カゲくんはやっぱり気が利きますな~。危うく三十分も水シャワーを浴びるハメになるとこだったよ~。持つべき者は友達ですな~」
私はいつも、こうして空気を茶化す。
本当は、景吉が『険悪タイム』を破って声をかけてくれたことが嬉しかった。心の底から安心してしまった。
だけど、夕立に遭ったくらいで心細くなっていたことを悟られたくなかった。
それから、相合傘をした私と景吉は、肩を並べて雨の中を歩き出した。
景吉が声をかけてくれたことで『険悪タイム』は早々に終わり、今は普段通り仲良く雑談をしながら歩みを進めている。
本当は謝りたいのに、感謝したいのに、何とも思っていないようなそぶりで普段通りを演じている。
いつからだろうか。
私は雰囲気を茶化すことで、自分の感情を隠すのがクセになってしまった。
その方が、相手にストレートな気持ちを伝えるより精神的に楽だったからだ。
もちろん、全部演技というわけじゃない。
景吉とふざけあったり煽りあったり、漫才みたいな掛け合いをするのは楽しいし、私にもバカっぽい面があるのは事実だ。
だけどやっぱり、私は素直に気持ちを伝えるのが苦手だ。
景吉のことが好きで、まんざらでもない態度をとるくせに、いざとなるとすべて茶化して冗談にしてしまう。
たぶん私は、自分の感情を知られるのが怖いんだ。
私が「好き」と伝えた時、景吉は拒絶を示すかもしれない。それを考えると、怖くて怖くてたまらない。
だから私は、好きな人に好きと伝えられない。
でも、今はそれでいい気がした。
景吉は、たとえ私が気持ちを伝えなくても、そばにいてくれる。
今日みたいに、私が心細いと思えば手を差し伸べてくれる。
今のような関係がこの先ずっと続くなら、私はそれでいい。
だけど、景吉はどう思っているのだろうか。
もしも、景吉も私のことが好きなら――。
「スミちゃん」
不意に名前を呼ばれた私は肩を震わせて驚く。雑談より考え事に集中してしまったようだ。
気付けば、私の家が目の前にある。今日はここで解散だ。
私を玄関前まで送り届けてくれた景吉は、どこか感情の読めない表情を私に向ける。
何か言いたげな雰囲気だ。
「スミちゃん、あのさ――」
私は、景吉が何を言おうとしているか、すぐにわかった。昼間のことを謝るつもりなのだろう。
だから私は、人差し指を口元で立てた『シー』のポーズを取り、景吉の言葉を遮る。
「カゲくんは謝らなくていいよ」
すると、己の行動を先読みされた景吉は少し驚いたような表情を見せ、それから戸惑うように苦笑いを浮かべる。景吉も酷いことを言ったという罪悪感があるから、謝れないとバツが悪いのだろう。
なら、私がその罪悪感を上書きする言葉を言ってあげよう。
そう思い立った私は、自分でもびっくりするくらいに満面の笑みを浮かべ、ゆっくりと言葉を放つ。
「カゲくん。傘入れてくれて、ありがと」
そんな私の言葉に対し、景吉は恥ずかしそうに頭を掻いて、小さく「うん」と呟いた。




