19.二人の気持ち
夏休みもあと1週間となり清々しく晴れたその日、澄恵は俺の家を訪れていた。
シャツにショートパンツという定番のラフな格好をした澄恵は、俺の部屋でローテーブルに向かい、問題集と睨めっこをしている。
澄恵の来訪目的は、遊びでもデートでもない。今までまったく手をつけていなかった宿題を集中的に終わらせるため、毎度のごとく俺を頼ってきたのだ。
ちなみに、俺は夏休みの宿題を早めに終わらせる派なので、お盆前くらいに全て終わらせている。それを知っている澄恵は、端から俺に写させてもらうつもりだったのだろう。
しかし、俺はそれほど甘い人間ではない。
澄恵は期末試験をそこそこの点数で乗り切ったが、中間試験が散々だったので一学期の成績は芳しくなかった。
だからこそ、俺は少しでもおバカな澄恵の基礎学力を高めるために、夏休みの宿題を自力で解かせる方針にしたのだ。
もちろん、澄恵は強く反発した。
ケチ、鬼、スケベなどと罵詈雑言を並べ、俺を強く非難した。(スケベは関係なくないか?)
しまいには「カゲくん、ボクのこと嫌いになったの?」など目を潤ませて泣き落しまで強行してきた。
正直なところ、澄恵の泣き落しは会心の一撃並みの威力があったが、俺は心を鬼にしてどうにか理性を保ち、無理やり澄恵を机に向かわせた。
もちろん、ただやらせるだけではかわいそうなので、澄恵の隣に座った俺はマンツーマンでサポート態勢に入っている。
澄恵の手が止まれば参考になる教科書のページやノートを開き、間違っていればすぐに指摘をする。俺がわからないところはその場で調べ、噛み砕いて説明する。もはや家庭教師として給料を貰ってもいいくらいの働きだ。
そんなわけで、俺は澄恵に肩を寄せて勉強を教え続ける。
ふと、澄恵の後ろ姿に目を向けると、綺麗な『うなじ』が目に入った。
白い肌と黒い髪の境目になったその場所は、不思議と扇情的な魅力がある。
というか、俺は澄恵のうなじをまじまじと見たのは初めてかもしれない。
なぜなら、澄恵は物心ついた頃からロングヘアにしており、普段はうなじが隠れていたからだ。
なぜ今になってうなじが見えているかというと、なんと澄恵は二日前にバッサリと髪を切ってショートヘアにしていたのだ。
なぜ急に髪を切ったのか、などと澄恵に聞くのは野暮というものだろう。
俺は、澄恵を変えたきっかけに思い当たりがある。というか、それくらいしか原因が考えられない。
俺は、数日間に澄恵と一緒に花火を見に行き、その場で澄恵に告白した。
もちろん、澄恵は受け入れてくれた。俺と澄恵は、晴れて恋人同士になったわけだ。
などと余計なことを考えていると、澄恵が不満げな表情を浮かべて振り返ってくる。
「カゲくん疲れた~」
「まだ一時間も経ってないぞ。もうちょっと頑張れよ」
「ぶぅ……」
と、頬を膨らませた澄恵は、渋々勉強に戻る。
恋人同士になったとは言え、俺と澄恵はこうして今までと同じように接している。
元から常に一緒にいるようなものなので、俺たちの関係は何も変わっていないと言えるかもしれない。
だけど、こうして一緒にいると、今まで以上に安心できる気がした。
今まで俺の気持ちは、一方的なものだった。
だけど、今は違う。俺は澄恵の気持ちを知ることができた。澄恵も俺のことが好きなんだと、知ることができた。
それだけで、俺は安心して澄恵のそばにいられる気がした。
もちろん、恋人同士という免罪符を得たからといって、無暗やたらに澄恵とベタベタするほど俺は節操無しではない。
今だって澄恵の斜め後ろに控えているが、体に触れない距離を保っている。
というか、澄恵は俺に言われて頑張って勉強しているのだ。それなのに下心で邪魔するなんてことがあれば、俺は最低の男になってしまう。
というわけで俺が真面目に講師役を続けていると、勉強を始めてから一時間半ほどの時間が経過していた。
澄恵にしてはよく頑張ったほうだろう。
「よし、そろそろ休憩しようか」
「んぁ~、疲れた~!」
すると、脱力した澄恵はわざと俺の体に寄りかかってくる。
俺は驚くこともなく、澄恵の体を受け止めて抱きかかえるような体勢になった。
八月末の今日は真夏日だが、俺の部屋はエアコンがよく効いているので体を寄せていても暑くはない。むしろ、温かくて心地いいくらいだ。
少し前なら気恥ずかしく思えるようなスキンシップだが、今は自然と澄恵に触れることができる。
むしろ、触れていると安心できる気がした。
視線を交わさずとも、言葉を交わさずとも、触れているだけで澄恵の気持ちを確かめることができる気がした。
しばらくしてから、俺は澄恵の背中越しにこんな言葉を問いかける。
「スミちゃん、どうして髪切ったの?」
「髪、長い方がよかった?」
俺はさらさらとした澄恵の髪を優しく撫でながら応じる。
「短いのも似合ってるよ。かわいいと思う」
「ホント? よかった」
そう告げた澄恵は、俺に抱えられたまま嬉しそうに体を左右に振る。
それから、静かに言葉を続けた。
「私、変わりたかったの」
「え?」
澄恵が自分のことを『私』と言うのを、俺は久しぶりに聞いた気がした。
「私、ずっと素直になれずにいた。いっつもふざけて、はぐらかして、わからないフリしていた。素直になるのが怖かったんだ」
俺は澄恵を勇気づけるため、手を握ってやる。
澄恵の手は、少しひんやりとしていた。
「だけどね、景吉に好きって言われて、私も好きって伝えられて、すごく安心したんだ。もう、この気持ちを隠さなくていいんだって……だからね、私はもっと素直になりたいと思ったんだ」
「それじゃあ、これからはいつでもどこでもイチャイチャしてくれる?」
冗談じみた俺の言葉に対し、澄恵はクスクスと笑みをこぼす。
「学校とかはダメだよ。だって恥ずかしいもん……だけど、二人きりの時だったら、いいよ……」
そう告げた澄恵は、体ごと反転させて俺と向き合う。
最初は視線を合わせてくれたが、恥ずかしくなったのか、すぐに顔を赤らめてそっぽを向いてしまった。
髪を短くした澄恵は、今までより表情がよく見える。それが余計に恥ずかしいのかもしれない。
そんな澄恵の頬に、俺は優しく手を添えた。
澄恵の頬は、暖かくて、やわらかくて、とてもさわり心地がいい。
すると、軽く鼻をすすった澄恵はいつの間にか目を潤ませていた。
「なんで泣くんだよ」
「なんでだろ……安心、したのかも」
「そっか」
澄恵は、素直になりたいと言った。
その気持ちは、俺も同じだ。
俺と澄恵は、今まで内に秘めていた『好き』という気持ちを共有した。
もう探り合う必要はない。拒絶されるかもという恐怖に怯える必要もない。
ただ、互いの気持ちを確かめ合うだけでいい。
だから俺は、澄恵の体を強く抱きしめてやった。
俺の気持ちを示すために、強く、強く抱きしめてやった。
これで、安心できただろうか。
そう思った刹那、澄恵は嗚咽交じりに俺の胸の中で小さくつぶやく。
「ありがと」
その言葉を聞けただけで、俺も心の底から安心できた気がした。




