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10.夏川陽太

 夏川に付き添われた俺は、血に染まった鼻を押さえながら保健室に向けて廊下を歩いている。


 これは一体、どういう風の吹きまわしだろうか。

 陽キャ四天王第一(俺認定)である夏川は、陰キャの俺とは対極の存在だ。

 クラスでは時たまそのコミュ力を生かして俺や澄恵をからかったりするが、決して仲がいいわけではない。

 その夏川が自分の活躍していた試合を離れてまで俺に付き添うとは意外だ。


 とは言え、俺と夏川には不思議な縁がある。

 実のところ夏川は澄恵と同じく近所に住む幼馴染で、小学校どころか保育園も同じだった。


 さすがの俺も幼少期は澄恵と二人ボッチではなかったので、遠い昔には夏川と遊んだこともある。保育園の頃は、澄恵も合わせて三人で遊ぶことも多かった。

 だが、昔から陽キャの夏川は友人も多く、お互い中学に入ってからは同じクラスになっても会話する機会がほとんどなかった。

 方や陽キャ、方や陰キャとして住む世界が変わったのだろう。


 だからこそ、こうして夏川と二人きりになるのは十年ぶりくらいになる気がした。


「血、止まったか?」


 二人で保健室に向けて廊下を歩いていると、夏川がそんな言葉をかけてくる。

 俺は鼻をつまんでいた手を離してみると、いつの間にか血は止まっていた。


 その様子を確認した夏川は、軽く安心したようなそぶりを見せる。


「悪かったな俺のせいで。まっ、ぶつけた相手がお前だったのは、不幸中の幸いかもな」


 なかなか失礼な言いようだ。

 とは言え、俺も澄恵や他の人に当たらなくてよかったとは思う。

 夏川も悪気があって俺にボールをぶつけたわけではないので、あまり罪悪感を負わせる必要もないだろう。


「わざとじゃないなら別にいいよ。夏川も、試合抜けてよかったの?」


「なんだお前、普通に喋れるじゃん」


 そう告げて微笑む夏川に対し、俺は「そこは気にしなくていいだろ」という抗議の意思を込めてプイとそっぽを向く。


 しかし、俺自身も夏川と自然に会話できたのは意外に思えた。

 澄恵以外のクラスメイトは全員あかの他人のようなものだが、夏川だけは昔からの知り合いであるという補正がかかっているのかもしれない。

 

 そんなことを考えていると、夏川は俺に付き添った理由を告げた。


「だいたいさ、俺がケガさせたのに放っておけるわけねぇだろ。あの空気の中で試合に戻れるほどツラの皮厚くねぇよ」


「まあ、確かに。俺も手で弾ければよかったんだけど」


「……澄恵のこと庇って、ああなったんだろ?」


 俺はなんとなく、その言葉に答えづらかった。


 夏川の言う通り、俺はとっさに澄恵を庇おうとして顔面レシーブを決めてしまった。

 手でなく顔でボールを受け止めたのは、単に俺の運動神経が悪いだけだ。

 そもそも、ボールが俺の想像していた軌道とズレていたなら、最初から澄恵に当たらない軌道だったかもしれない。骨折り損というわけだ。


 それが恥ずかしくて、俺は返事をためらう。 

 すると、何かを察したらしい夏川は呆れたような笑みを見せた。


「ホントさ、お前らが付き合ってないのが、俺は不思議でしょうがねぇわ」


「……今それ関係ないだろ」


 俺の言葉に対し、夏川は声をあげて笑い始める。


「いやさ、運動神経ゼロのお前がとっさに動けたのも、愛の力かと思ったわけよ。お前って本当に澄恵のこと好きなんだな」


「別に、澄恵のことなんて……」


 俺は、たとえこの場だけの嘘だったとしても、澄恵のことを「何とも思っていない」だなんて言うことができなかった。

 澄恵に対する気持ちに、嘘をつきたくなかったのかもしれない。


 そうして言葉に詰まっていると、夏川がポツリと呟く。


「俺さ、たまにお前のことがうらやましくなるわ。好きな子と毎日イチャイチャできるなんてチョー幸せじゃん」


 夏川の告げた言葉は、少し意外に思えた。


「夏川はモテそうだし、女友達だって多いじゃん」


「モテてたって、好きな子が振り向いてくれなきゃ意味ねぇだろ」


 それはそうだが、リア充そうな陽キャの夏川が俺のことをうらやましく思うとは、何とも不可解な話だ。

 まあしかし、好きな女の子と毎日ベッタリくっついていられるのは、夏川の言う通り幸せなことかもしれない。

 なかなか「好き」と伝えられない悩みこそあれど、澄恵と一緒にいる時間は楽しいと思えるし、たとえ二人ボッチでも充実した日々を過ごせていると思う。


 俺と澄恵は二人でいれば寂しくないから、中学の頃からずっと二人ボッチのままでいるという側面もある。

 今まではそんな状態を『不健全』だと思っていたが、陽キャの夏川が「うらやましい」と言うくらいなら、そんなに悲観しなくていいのかもしれない。


 それから、洗面所で顔や手についた血を洗い流した俺は、夏川と共に保健室の前に辿りついていた。

 すると、部屋の入口の前で夏川は引き返すそぶりを見せる。


「それじゃ、俺は戻るからちゃんと見てもらえよ。後で病院行くことになったら、ちゃんと金払うから言えよな」


 なんとも律義なやつだ。普段はヘラヘラしていても、こういう誠実なところがあるから人気者なのかもしれない。

 俺は一応感謝を告げ、保健室に入って夏川と別れようとする。


 その瞬間、ふと背中から夏川の声が聞こえた。


「俺も昔は、スミちゃんのこと好きだったんだけどな。がんばれよ」

 

 驚いた俺が振り返ると、夏川はすでに廊下の角を曲がって姿を消していた。


 俺の聞き間違いじゃなければ、夏川は「昔はスミちゃんのことが好きだった」と言っていた。夏川が澄恵のことを「スミちゃん」と呼ぶのを聞いたのは、十年ぶりくらいな気がする。

 まさかあの夏川が澄恵のことを好きだったとは驚きだ。


 夏川は、一体いつ頃まで澄恵を好きでいたのだろうか。

 保育園の頃の話か、小中までだったのか。それとも、つい最近まで――。


 夏川は最後に「がんばれ」と俺に言った。

 それは何に対する「がんばれ」なのか。


 俺は、なるべくその意味を深く考えないようにし、保健室へと入っていった。


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