第四十話
「──私、自分の名前が嫌いなの」
「いきなりどうしたんだ? 会長」
協力交渉と言う名の会議は踊り終わってみれば、西日がすっかり傾き、部屋を赤く染める夕暮れ時の一幕。もはや当たり前のようにベランダから帰る会長達を見送りにサンダルを踏む俺に会長が唐突に告白する。
「いいから聞きなさい」
「……あぁ」
思わぬ迫力に一瞬、たじろぐ。
「姫子って名前がね。今はいいけれど、この先二十代、三十代、それ以上になった時を考えてみなさい。いい年をした女が、"姫"子よ──痛々しくて、年を取るのが怖いわ」
「なるほど」
なんとなく、ピンクのフリフリを着た、しわだらけの手足が思い浮かぶ──顔は本能が拒否しているのか、うまくイメージできない。だが、いかに脅威を感じているかは充分に伝わった。
「だから、私は誰にも名前を呼ばせない。例外は私の両親と天之宮当主だけ。辛うじて我慢できるけど、それでも、かなりのストレスよ」
「何が言いたいんだ?」
「呼ばせてあげると言っているのよ。特別に」
「それって──」
「もちろん、呼ばれたら睨むわよ。殺意が湧くもの」
「だよな! ──って、だったら、何で呼ばせるんだよ!」
「それでいいのよ。じゃないと──」
比較的、標高の高い日原山から吹く風はかなり強い。当然、寮の最上階の一角であるうちのベランダにも建物の隙間から時折、気まぐれに流れていく。その風に阻まれ、会長の言葉が届かない。
「? 何て言ったんだ」
「──聞き返さなくていいのよ」
そういって会長は自らを抱えている真田さんに目配せし、名残惜しさの欠片も見せずに対岸の女子寮へと去っていく。──なんだったんだ、あれ?
「──ほだされてしまうから。そう言ったんだ」
会長の隣にいたせいか、帰り際の台詞を拾っていた飛鳥が聞こえなかった部分を補足する。
「って、それ言っていいのかよ?」
「──さあ?」
特に悪びれる様子もなく、平然と言ってのける飛鳥。無粋な俺でもわかる補足はお節介というよりは普段俺が瞳子から受ける“それ”だ。いったい、誰の影響なのか、その悪戯っぽい顔はとても新鮮で、とても魅力的だった。
「──そうむくれるなよ、瞳子」
「別にむくれてないわよ。ついでに言うけど、私ばかり損な役回りだな、なんて思ってないわ。えぇ、欠片も」
「いや、思いっきり根に持ってるじゃねぇか! ──会長の次はこいつかよ」
今しがたまで会長達が使っていたソファーを占領するや否や、うつ伏せに寝転がっては鬱屈したものを吐き出すように足を忙しなく上下に振り回す。……こいつ、自分がスカートなの忘れてないか?
「──見た?」
「気にするくらいならやるなよ」
残念ながら、太ももの裏とスカートの裏地が見えただけで大してめくり上がる事はなかった。……不可抗力なんだから睨むなよ、瞳子。
結局、話し合いは協力するという結論を決めるだけに留め、その確約をどこに持っていくか(書面に示すのか、口約束でいいのか)を詰めるだけとなった。以下、こんな感じで。
「──ってなわけで、つつがなく協力する事になったわけだけど……」
「つつがなく、の意味知ってる?」
「あぁ、そうだね。全然つつがなくというわけにはいかなかったよね。でもそこは蒸し返さないで流してくれたら、結果的につつがなく収まると思うよ? 揉めた元凶」
「だけど、なんだ? 御村」
ここで会話の修正に入ったのは真田さん。話し合いの山場を越えたと判断したらしく、その手には再び、茶葉の香りを漂わせたカップを弄ばせている。いつの間に淹れ直したのか、人ん家の台所をどんだけ我が物にしてるのか、は多分野暮なんだろう、この場合。
「……協力についてだが、基本的な対応は俺達に任せて欲しいんだ」
「私達に戦うなという事か? 優之助」
飛鳥の問う声は硬い。瞳子に言われた、飛鳥と真田さんでは異能者に勝てない、というのを気にしているのだろう。真田さんのこちらを見る目にも咎める色が強い。そういう反応をされるだろうと予想はしていたので、手を横に振り、そうじゃない、と否を示す。
「仕掛けるタイミングをくれって意味だよ。実際、戦闘になったら二人の力が必要になるさ。ただ、因縁については俺達の方が先約だ」
「だから、そちらの意向を優先しろというわけか──私が協力を頼んだ時のように」
真田さんが愛刀の仇に視線を向ける。剣太郎と真田さんと斬られた愛刀。おりしも、キャンプ場での事を蒸し返すには条件が整っている──因縁という言葉は拙かったかもしれない。
「──心配するな。おまえが思うような事にはならない」
「そ、そうか。えと、つまり、"そういう事"になる──会長、それでいいか?」
こちらの内心を察した真田さんのお墨付きは、どう言い繕ったらいいか悩む俺には、か細いながらも安心の為のよすがだ。これ以上、地雷を踏まない内に天之宮の代表である会長に最終決定のお伺いを立てる。
「当真側が主導でも構わない。こちらで出来る事なら協力も惜しまない。でも話が漠然とし過ぎよ。いつ、どこで襲撃するのか、具体的な戦術プラン──相手をどうするつもりなのか、それらの説明はあるのかしら?」
協力相手に求める至極当然の権利として、会長が情報のすり合わせを要求する。一時、瞳子に圧されていた調子はすっかり元通りのようだ。その証拠に、かしら? の聞き方が例によって、質問というより詰問に近い。
「その時がきたら連絡する──ってのは駄目か?」
「それで納得しろと?」
「いや、あの、気持ちはわかるけど、あまり睨まないでくれると助かるというか──ま、まった。いや、ほんと、近い! 近い! ちょっ──」
声とは真逆の笑顔が怖い。細くなる瞼の奥から飛ぶ視線が痛い。間を挟む机などお構いなしに徐々に体を寄せてくるから圧力で苦しい。こっちはとうの昔に降参しているが、会長の手は緩まない。百八十ある図体で頭二つは低い小柄な女子に追い込まれる光景はかなり見苦しかっただろう。見かねた瞳子から助け船が出る。
「優之助なりに考えての事よ。言いだした理由──この場合は、言えない理由ね──にも思い当たる節がある」
「言えない理由?」
「おいおいわかるわ。先手をとりたいから──理由はそれ以上でもそれ以下でもないわ。今はそれで納得して」
「言葉だけで納得しろと?」
瞳子が口添えするも、会長の態度は渋い。春休み前にやらかした事や、ついさっきまでの態度を考えるなら、口だけで念押しするにはいささか物足りないと感じる気持ちはわかる。
「たしかに言質しかとれないのは歯がゆいでしょうけど、信用してもらうしかないわね。これでも当真慎吾の姪よ。彼と私が繋がっているのは知っているでしょ? ──なんなら、理事長の立場で書類に起こしてもらう?」
「──そこまで言うなら、ひとまず信用するわ」
さすがに理事長の名まで出されては、無下にはしづらいようで、渋々ながらも了承する会長。本音を言えば一筆欲しい所だろうが、今日明日で準備できるわけもなく、俺達の出方次第で今後どうするか決めるつもりらしい。
その後、会長は真田さんが紅茶を飲み干すのを待ってから、お開きを宣言。俺に自分の名前を呼ぶ事を強要し、真田さん、飛鳥と共に帰っていった。
要は、信用の置き所はもとより、突きまわしたいのを我慢して大人しく引き下がってくれた会長のおかげで話し合いは極めて穏当に終了する事が出来たというわけだ。とはいえ、いろいろ後回しにしただけにすぎず、会長の譲歩に甘え続けるにも限度がある。それも遠からず、破綻するだろう。
「──やはり、つつがなく、とは言えないかなぁ」
一言で言えば、"三歩進んで二歩下がる"だろうか。しみじみと思い返しては、ため息交じりにポットの残り湯で溶いた紅茶を胃に流し込む。
「あのねぇ、天之宮と当真は共同出資の関係を結んでいるとは言え、仲良しこよしでやってきたわけではないのよ。そこの所、理解してる?」
憤りを通り越したのか、瞳子の声に疲れがにじんでいる。癇癪を起した子供が突然電池が切れたように大人しくなる──例えるならそんな感じ。
「でも、瞳子ちゃんがあんな風に煽らなけられば、もう少し穏便に話は進んでたよね」
「終始漫画読んでただけのあなたに言われる台詞じゃないわよ、空也。というか、人の首に足刀を寸止めした恨みは忘れてないし」
瞳子の恨みがましげな睨みに空也は、お~こわいこわい、と視線からそそくさと逃げる──俺を壁にして。絵面としては俺が瞳子を怒らせたみたいに映るだろう。
「いや、空也を睨めよ。今、完全に俺に向けてるよね、視線」
「どっちも似たようなものでしょ。私の邪魔をしてくれた時点で」
「無理もない。優之助が瞳子の思惑通りに動いた試しがあるか?」
それでフォローしたつもりか剣太郎。そんな疑問も当人にとっては興味の外、相も変わらずページをめくる手は止まらない。単に聞こえたから思った事を言い放っただけ──火種を投下するだけ──の投げっぱなし男。本当にこいつ、ただ漫画読みに来ただけだな。
「そう睨むな、優之助。俺が話し合いに参加した所で出来る事はない。出来るのは剣を振るうだけだ」
「かっこいい事言っている風だが、かなり駄目な発言してるの気づいてるか?」
これで意外に付き合いが良かったり、面倒見がよかったりするのだから、人っていうのはわからない。それがなければ、ただの駄目人間だ。
まぁ、興味がないにもかかわらず話し合いに同席していたのだから、たしかに付き合いはいいのかもしれない──単に漫画が読みたかったからという可能性を捨てきれないが。
「まぁまぁ、逆に言えば戦闘に関してはキッチリやるって事だよ。僕も剣太郎もね。──そういう展開になるんでしょ、優之助?」
取り成す空也の言葉には、ある種の確信が込められている。異能者──特に序列持ちが集まって何事もなく済むはずがない。そういった意味で。
「当然そうなる。ともかく、会長がどうにか食い下がってくれてよかったよ。変にこじれていろいろ明かすのは避けたかったからな。なにせ──」
「──当真瞳呼の計画にハルとカナが一枚噛んでいる、だったわね」
瞳子のよく通る声が俺の発音を上書きし、先回りして紡く。それは昼のいざこざで国彦が俺を焚き付ける為に吐いた台詞だった。




