第百五話
*
私の──私達の兄を一言で表すのは難しい。これが兄の友人達なら自由を愛する風来坊(もしくは糸の切れた凧)だったり、剣の道を邁進する求道者(もしくはただの剣術バカ)だったり、一度見たら忘れられない瞳(もしくは陰険腹黒目力女)など、十人聞けば十人とも似たような特徴なり性質を答えるであろうアクの強さがある。
そんな彼ら彼女らが不思議と兄を中心に──いや、彼ら彼女らの傍に居続けることを良しとしている。それが羽休めの止まり木なのか、いつか斬り倒すための巻藁なのか、使い勝手のいい玩具なのか、それはわからない。先ほど挙げた人物評が彼ら彼女らの一部でしかないように複雑な感情があるのかもしれないし、あるいはもっとシンプルな答えがあるのかもしれない。ただそんな中でいつも騒動の震源に押し上げられる兄を例えたとして、十人が十人とも違う答えが返ってきそうなのは少しおもしろい。
では、私達にとってはどうだろう? やはり一言では表せない上に──そもそも一言で収める必要はないけれど──基になる心情は複雑でとても絞りきれない。この数年間、気を引きたくて思い煩ってほしくてもっともらしい理由をつけて離れて暮らすことへの罪悪感と優越感? 血の繋がりがないのに実の両親より心を砕いてくれた兄? いずれにしても私達が動く理由は今も昔もそう変わらない。
──あぁ、なんだ、結局私達も兄の友人達と同じことをしている。兄を使って自分達のエゴを通そうとたくらんでいる。そんな私達はやっぱり罪深いよね、ハルちゃん。
水曜日
「──ぉはよう、ハルちゃん」
「おはよう、カナ」
日の出にはまだ少し早い早朝のリビングで顔を合わせた双子の妹にそう声を掛ける。私とカナ──海東遥と彼方の朝は早い。共に朝六時前には朝風呂を済ませ、昼食用の弁当作りを兼ねた朝食の準備に取り掛かっている。朝食後、頭の体操に軽い予習やその他細々した用事を経て登校。本来、天乃原学園において三食全てを自ら賄う必要はないけれど、それは時宮時代から習慣であることと、なるべく顔合わせする確率を下げるためで、学園の食事に特段の不満があるわけではない。むしろ仕方のないことはいえ、一流シェフの味を堪能する機会をみすみす逃してしまうのは残念でならないと思う。
しかしその甲斐あってか、今のところ時宮の知り合いとの接触は最低限に済んでいるのだからけして無駄ではない。避けられている──いや、お互いの準備が整うまで接触を控えてくれていると表した方が正しいのか。どちらにしても、こちらの心持ち次第なのだと素直に認めるのは少し難しい。
「ハルちゃん?」
子供じみた葛藤をする私がどう見えたのか、不思議そうにこちらを見るカナになんでもない、と首を振り、なかば無意識にこなしていた朝の支度に区切りを入れる。区切りといっても、あとは軽く身だしなみを整えるだけで出発できるのだから、ほぼ終わらせたようなもの。習慣とは恐ろしいもので、いつどのように包丁を使って調理したのか、指先で攫った英単語の数はいくつだったか、思い出すのに一呼吸分だけ思考が止まる。本当によく怪我をしなかったものだと内心に冷や汗が流れた。
「──行こう、カナ」
むしろ私が待たせたはずだが、それに気を留めることなく、カナが頷きながら私の手を取る。まるで私の想い悩みを振り払うように。
五月とはいえ、早朝ともなれば山の空気が澄んでいることもあってか、少しばかり肌寒さを感じる。夏服ですごすには心許ない気温ではあるが、かといって一枚二枚着込んだとして、本格的に気温の上がる日中帯──それも昼前には間違いなく不要になるので洗濯や嵩張る手荷物のことを考えると、一・二時間のためにあまり持ち出す気にならない。
そんな時間帯の山道は始業にはまだ二時間近く空いているからか、人の気配が薄く、時折遠くで何かしらの部活動らしき声が聞こえてくるくらいだ。だからだろう──
「こんな時間に会うとは珍しいな」
「桐条さん」
──彼女と鉢合わせしてもなんらおかしくはなかった。おそらく朝稽古の一環でのランニング中か、私達の傍を走り抜ける──ことなく、その足を止めたのは生徒会会計、桐条飛鳥だった。
表だってはいないが、私とカナには支援者がいる。生徒会の強権が引き起こすであろう学園における悪影響を危惧し歯止めを期待する者、現生徒会長──ひいては天乃宮へのイニシアチブを取るためにその切り崩しを私達に肩代わりさせたい者、学園も天乃宮も関係なく別の目的から利害の一致を見た者、理由も立場も様々に。
そして彼女は私達の支援者ではなく、敵対する側に立っている。むしろ表向きというか、建前の上では彼女の所属している生徒会が一番の大敵といえるだろう。
しかし、そんな立ち位置にありながら桐条飛鳥の態度から敵意に類するものは見られない。元々、特待生待遇で学園に入学したところを半ば強引に生徒会へ参加させられた──私達は断れたが、桐条にとってはそうはいかなかった──という事情とも無関係ではないだろう。それ以前に私達と積極的に敵対するほどの興味も義理もないという身も蓋もない本音もあるだろうが。
そんな彼女とこの時間に顔合わせしたのは、桐条が言及したように珍しくはあった。だが、それは私達が用事のためにいつもより早く出たせいであって、珍しさ度合いで言うのなら私達を見かけた程度で足を止める方が珍しいといえる。顔見知りには違いないにしても、面と向かって世間話に花を咲かせるような間柄ではけしてないからだ。
「おまえ達は──」
そう言いかけ、言葉に詰まる桐条。これもまた彼女らしくない歯切れの悪さだ。しかしどうやら桐条が足を止めたのは彼女個人の関心に由来するものらしい。もちろん私達を生徒会としてどうこうする気がないのは初めからわかっているが、普段なら一瞥するだけでそのままトレーニングを続けたはずである桐条と私達を結ぶ接点など──
「──おまえ達と優之助はどんな関係だ?」
「……は?」
思わず漏らした声が別人のもののように遠くに聞こえる。おそらく他人から見たなら相当に間が抜けていただろう私の表情をしかし桐条は笑うことなく真っ直ぐに見つめている。
たしかにそれは桐条と私達とを結ぶ唯一の接点だ。生徒会での立場に欠片ほども興味がない彼女がわざわざ足を止めてまで問うたのも理解できる。しかし、それは兄と私達の仲を知っているからできる指摘だ。いや、知らないからこそ今ここで関係を聞いたはず。そもそも桐条がなぜ私達に兄との関係性を問いただすのか?
「──ぅして、そう思うのですか?」
内心の混乱からいまだに動けずにいる私に代わり、かすれがちなカナの声が暗に桐条の疑問──私達と兄が知り合いであること──を肯定する。無関係を装うだけならそれなりに答えようがあるが、カナがそれに気づかないはずがなく、桐条にどのような意図があるのか気になるがゆえの肯定だった。
「副会長や、成田稲穂の言動からそう思った──もしかしたら、くらいの半分以上は思いつきだがな」
向こうも腹の探り合いをするつもりはないとばかりにカナの問いに短く答える桐条。どんな言動からその発想に至ったのかはともかく、この話題はひょっとしなくとも致命的な“何か”を引き起こす危険性を孕んでいる。
天乃原学園における一連の状況は私達が生徒会へ一定の脅威たり得ているから成立している。もしも、その根底にあるのが兄妹喧嘩すらない、ただの“かまって”だったと露見すれば、生徒会への対抗勢力として──ひいては現状を維持できない。仮にできたとしても、もはや私達に関わることは許されず蚊帳の外に追いやられてしまう。
「(まさか、彼女に追い詰められるなんて……)」
完全に想定外だった。時、場所、人物、あらゆる要素が私達に不意をついた。特に人物の部分、特殊な武術を伝える家系に生まれたとはいえ彼女自身の能力や戦力では”私達の物語”に割って入れる余地などなかったはず。そんか彼女の選択一つで今までの仕掛けが、この件に関わるそれぞれの思惑が、なにより兄と再び繋がるためのきっかけが、その一切合切が破綻していく感覚に目の前が暗くなる。
「ん? どうした。顔色が悪くなってないか」
答えに窮する私に向けて桐条がついたのは、尋問の皮肉ではない混じり気なしの労りの言葉だった。
おそらく桐条に自分の質問によって私達を追いやる意図はない。単に最近親しくなった相手の共通の知り合いかどうかの確認──逡巡したのは“らしくない”と自覚しているからだろう──以外に含む余地は皆無だとわかる。だからこそ、喉から出かかる言葉を飲み込むしかない──誰のせいだと思うのか、と。
まるで赤子に爆弾の起爆装置をいじられているようだ。兄と私達の関係を知っている“当事者”達なら互いの利害が複雑に絡みながらも一致していて秘密を明らかにすることはけしてない。誰一人として。だからこそ成立し、強固でもあったが、当事者ではないことでここまで振り回されてしまうとは。
しかも彼女にとって、それら事態の根幹を知り得たとしても何の感慨もわかないだろう。彼女の琴線に触れるのはただ一点、兄への気がかりゆえに。それ以上誰それの企みなど、他人事でしかない。これではまるで──
「(──まるで兄さんみたいじゃない)」
私達──いや、私は彼女をみくびっていたのかもしれない。控えめにいって彼女は天才だろう。家伝の技法である武術を門前の小僧よろしく独学で見て学んだのだから。それも相手に捕捉されない、言い換えれば見極めることが困難な技を長年掛けて。それはけして安易・安直な背景、葛藤ではない。正に尋常ではない執念だといえる。
しかし、それだけで私達が意識したかといえばそんなはずはない。失礼ではあるけれど、桐条程度の執念や才覚、そしてなにより実力は時宮にはそれこそ履いて捨てるほど存在している。
けれど、この瞬間、その前提と前言が覆る。兄と桐条が似ているから──似ているのだと気づいてしまったからだ。おそらく当人同士も気づいていないはず。私達ですら、今の今まで“そう”とは思わなかった。しかし、無視できないいくつかの符号がいやでも想起させる。
──姿かたちではなく、不器用な生き方が。
──様々な異なる才能を目の当たりにしながら、その大小・多寡にかかわらず、自分は自分でしかないのだと理解しているところが。
──いつの間にか、事態の中心に巻き込まれて、そして巻き込んで、難儀な状況に頭を抱えながら、意図を挫くか助けるかして一人残らず変えてしまうところが。
「(──あぁ、気に食わない)」
兄と似ている──そのことがこんなにも不愉快だなんて思いもしなかった。兄の前ですら取り繕っていたものが剥がれ落ちそうだ。これもまた近親憎悪というのだろうか? たとえ盲目的に重ね合わせたとして、そこに親しみを覚えるほど兄も私も安くできていない。
まして、旧知の間柄を除けばこの学園で兄に一番近しいのは──会長や真田凛華も怪しいが──紛れもなく彼女だ。当真瞳子や成田稲穂、そして要芽──当真要目とは別の立ち位置から私達の目的を阻もうと(本人にその気がなくとも結果として)立ち塞がるのかもしれない。これで仲良くやれそうと思う方が無理だ。
だからこそ、桐条への返答は慎重を期さねばならない。どんな関係か? 桐条の家庭の事情はそのコンプレックスを含めて情報は入っている。兄との決闘時に“似た家庭環境”だと親近感を覚えた──実際は似ているどころか根本からして真逆であるが──とも。
そんな彼女に私達が妹であると告げる──どう転んでも私達に好ましい状況にはならないだろう。だからそれを明かすつもりはない。かといって、いまさら無関係も決め込めない。カナが暗に認めたこととは関係なく、確証はなくても何かしらの根拠(それがただの推察に過ぎなかったとしても)を基に桐条は私達に確認したのだ。桐条の中で芽生えた時点ですでに賽は投げられていた。ならば私達にそれを止める術はなく、またそこから逃げるわけにもいかない。
「わ、私達と彼は──」
「いや、やはり言わなくていい。優之助がいないところで聞く話ではないし、何よりお前達とどんな関係だろうと私と優之助の間がどうなるものでもない」
すまなかったな、と言い添えて桐条が中断していた部活を再開しようと私達から遠ざかる。思わず問うてしまった自身の気まずさすら置き去りに、言葉通り何の未練もないとばかりにこちらを振り返りもせず。
「ハルちゃん」
「……わかってる」
もはや豆粒ほど小さくなった桐条の背中を微量の肩すかしと安堵、それ以外を腹立たしさと苦みに彩られた心持ちのまま見送る。やはり彼女のことは好きになれそうにない。それすらも兄と似ていて、悔しく思ってしまうのだから。




