表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
君を殺す薬をもらった。僕を殺す薬を渡した。  作者: 玄武 聡一郎
第一幕:黒の五月。灰色の六月。
8/33

 彼女の家は、小綺麗なマンションの四階にあった。オートロックの扉をくぐり、しっかりとした造りのエレベーターに揺られ、四階へ。

「家の人は?」と問うと、「いない、一人暮らしだから」と返ってきた。高校生が一人で暮らすには、少々立派過ぎる気もした。

 そんな僕の微妙な機微を察知したのか、


「悪い?」


 と半眼でこちらを見る。


「いや、珍しいなと思って」

「それはそうかもね」


 扉が開き、彼女に促されるままに、部屋に入る。

 さわやかな甘い香りがした。思えば、異性の部屋に入るのは初めての経験だった。

 廊下を抜けると、八畳ほどの部屋が広がっていて、ベッドとタンス、それに食事や勉強に使っているのであろう炬燵机が目に留まった。逆に言えば、それ以外には特筆すべきものがない。

 真っ白で、明度の高い、モデルルームみたいな部屋だ。


「適当に座ってて」


 ぽんとクッションを投げ渡され、それを受け取る。

 程なくして、古閑さんが飲み物を持ってきた。

 白と黒。綺麗に二層に分かれた、アイスカフェラテだった。


「暑いね」


 西日が差し込んでいることもあって、部屋の温度は高めだった。六月に入り、季節は夏に向けて準備体操を始めたようで、気温はじりじりと上がり続けていた。


「扇風機でいい?」

「うん」


 エアコンの人工的な風よりも、空気がかき混ぜられて生まれる風の方が好きだった。

 スタンドタイプの扇風機が、首を振りながら風を送り始めた。体中に浮かんでいた汗が、風を受けて乾いていく。


「これ、すごいね」


 カフェラテを指して、僕は言った。

 下の層がミルク、上の層がコーヒー。こんなに綺麗に別れているのは初めて見た。


「そう? 意外と作るの簡単だよ」

「へえ。そうなんだ」

「……」

「……」

「……」

「……」

「普通、作り方とか聞かない?」


 なるほど、それもそうだ。

 僕は用意された台本を読むように言った。


「どうやって作るの?」


 まったく、と古閑さんは僕の正面に腰を下ろした。


「これって、比重が違う液体を組み合わせてるから、混じらずに二層になってるの。コーヒーは牛乳より比重が軽いんだって。だから、比重が重いミルクを注いだ後に、コーヒーをそっと注ぐと二層に分かれる」


 古閑さんの細い指先が、ガラスの表面をつつっと撫でた。


「で、さらに完璧に分けるために、牛乳にガムシロップを混ぜてるの。ガムシロップはすごく比重が重いから、より分かれやすくなるってわけ」

「じゃあミルクの部分だけ飲んだら、めちゃくちゃ甘いってこと?」


 飲んでみたら? とばかりに、古閑さんが人差し指を振った。

 ストローで一口吸い上げる。「ん」と声が出るくらいには甘かった。

 けれど、冷えたミルクと相まった味は、悪くない。


「どうだった?」

「かなり甘い。けど、美味しい」

「そ、よかった。コーヒー部分はちょっと濃いから、混ぜながら飲むといいよ」

「分かった」

「ていうかさ」


 ストローに口をつけたまま、古閑さんに視線を向ける。

 頬杖をついて、僕を見ていた。物珍しそうに。


「よく飲めるよね。私が出した飲み物なんて」

「どういうこと?」


 からからと、古閑さんはプラスチックケースを振った。


「これ、入れてるかもしれないのに」


 彼女の言わんとしていることを察した僕は、なんだそんなことかと、グラスを置いた。


「ディープブルーのカプセルは、本人の胃酸以外には反応しないって話だからね。飲み物に入れたって溶けないし、そもそもストローを通らない」


 この薬の仕組みについては、ざっくりと須々木さんに教えてもらっていた。

 ディープブルーの外側、つまり青色のカプセルは、本人の胃酸に触れることで溶ける仕組みになっているらしい。早い話が、お湯に入れようが、酸の中に突っ込もうが、それこそ持ち主が口の中に入れたところで溶けないのだ。

 それだけ強固に、本人だけを殺す仕組みに特化し、意図せぬ服用を防ぐようになっているのだから、いわゆる「毒を盛られる」ようなことにはならないはずだ。

 僕はそう思ったのだけれど、


「でも、中身だけなら溶かせるかもしれないじゃん」

「中身だけ?」


 予想外の言葉に、僕は視線を上げた。


「カプセルの中身。だいたいこういうのって、粉が入ってるでしょ?」

「ああ、言われてみれば」


 カプセルを割って、粉末を取り出す。その粉末をカフェラテに溶かせば、僕だけを殺すカフェラテの出来上がり。これなら確かに、古閑さんは僕を殺すことができる。


「よく思いついたね。すごいや」

「別に褒められるようなことじゃ……。ていうか、こんな変わった薬が手元にあったら、ふつういろいろ想像しちゃわない?」

「別に」

「ふうん、つまんないやつ」

「僕もそう思う――って、痛い痛い。なんで蹴るのさ」


 古閑さんがこたつ机の下を通して、僕の膝をがしがしと蹴っていた。

 なにが気に入らなかったのだろうか。

 それからさらに二、三度蹴りを入れた後、


「別にー」


 と古閑さんはそっぽを向いて言った。数個前の僕のセリフと同じなのは、たまたまなのだろうか。僕にはよく分からない。

 再び沈黙が訪れたので、僕は再度グラスに口をつけた。

 冷たくて、甘い。

 しばらくして、古閑さんが口を開いた。


「……高校生で一人暮らしって、やっぱり変かな」


 とつぜん何の話だろう。

 話の脈絡は分からないけれど、無視するわけにもいかず僕は答えた。


「変というよりは、珍しいかな。大体みんな、実家から通ってるんじゃない?」

「うん、そうだろうね」


 そう頷くと古閑さんは、


「私、小さい頃に親が離婚しててさ」


 まるで会話の延長線上にあったかのように言った。

 あまりにも自然な語りだしだったので、一瞬、理解が遅れた。

 一拍遅れて僕が口に出せたのは「へえ」というありふれた相槌だけだった。


「お母さんに引き取られたんだけど、小学六年の時に再婚したんだよね」


 いったい……この話はどこに向かっているのだろうか。

 結論がまったく見えなくて、僕はただ押し黙る。


「でも、お母さん、すぐに交通事故で亡くなっちゃって」


 ヘビーな話題だ。

 相槌を打つかどうかすら、迷うくらいに。


「残ったお父さんとは、まあ言うなれば他人でしょ? 気まずくって、逃げてきちゃった」

「……だから、一人暮らししてるのか」

「そういうこと」

「どうしてそんな話を?」

「ただの雑談。悪い?」

「悪くはないけど」


 意外ではあった。

 話の内容が、ではなく。

 古閑さんが僕にそんな話をしたことが。

 扇風機が回る音がする。

 白い部屋の空気を、ぐるぐるとかき混ぜていた。

 そんな、他人行儀に首を振る扇風機を眺めていると。


「僕も」


 気づけば僕は口を開いて、自分の話を始めていた。


「似たようなものかもしれない」

「どういうこと?」

「僕の家も、ちょっと普通じゃないから」


 僕は、当たり障りのない範囲で、家庭の事情を話した。

 古閑さんは、笑いも同情もせず、ただ黙して僕の話を聞いていた。

 やがて僕が全て語り終えると、彼女は薄い唇を開いた。


「じゃあお父さんとは、ずいぶん長い間、顔を合わせてないんだ」

「そうだね。顔も思い出せないくらいには」

「うちとは逆だね」


 古閑さんの家には母親がおらず、父親とはほとんど話していない。

 僕の家には父親が寄り付かず、母親ともほとんど話していない。

 確かに、逆だった。

 逆で、似ていた。

 だからどうという話では、ないのだけれど。


「……」

「……」


 また少し、間が空いた。

 結露した水滴が、ガラスのコップの淵を撫でるように落ちる。僕はそれを人差し指の腹ですくい取って、手のひらでもんだ。


「私たちって何なんだろうね」


 古閑さんがつぶやいた。

 沈黙に耐えかねて出した話題、というわけではなさそうだった。むしろ、この話をしたいがために僕を呼んだ――なんとなく、そんな気がした。


「ずいぶん哲学的な問いだね」


 僕が言うと、古閑さんは「バカ」を冠詞のように言葉の頭につけて、


「そういう意味じゃない」


 と言った。


「デカルト的な話をしたいわけじゃないのか」

「あんたと違って、私はそういうの知らないから」

「じゃあ何の話?」

「私たちは、いつから大人になれるのかなって」


 さっきさ、と古賀さんは続ける。


「警備員の人が叫んでたの、聞いた?」

「バカなクソガキどもがちゃんとした大人になるように、みっちり説教してやる! ってやつ?」

「それ」


 もちろん、覚えていた。

 僕は頷く。


「あれ聞いた時さ、なんか納得いかなくて」


 分かる。僕も同じ気持ちだった。

 あの人たちは、きっと僕たちを助けに来てくれたのだ。そんな善意ある大人に迷惑をかけて、挙句の果てに逃げ出した。僕たちに非があるのは百も承知だ。それでも――


「私たちが大人だったら、もっと違う対応されてたのかな」


 きっと、少なくとも。

 怒鳴られたり、説教されたり。そういうことは、なかったのだと思う。


「これもさ」


 いつの間にか、古閑さんの手にはディープブルーのケースが握られていた。


「十八歳になったら飲めるわけだよね。それは私たちが大人になるから?」

「そう、須々木さんは言ってたね」

「十八歳になったら、大人になるんだ。急に。それって変じゃない?」


 これは、例えばの話だ。

 十八歳の誕生日を迎え、一週間が過ぎた人。

 十八歳の誕生日を、一週間後に控えた人。

 この二人の間に、何か明瞭な差はあるだろうか?

 ない。

 ないと言い切れる。

 たった二週間の差で、人格や人生観が変わるような、そんな体験をするはずもない。ましてや、誕生日をまたいだ程度で。


「大人って、なんなんだろうね」


 しかしこれは難しい話でもあった。

 今の例え話では、二人の差はたったの二週間だったけれど。

 ではこれが四週間になれば、どうだろうか?

 六週間では? 八週間では?

 そうやって徐々に徐々に幅を広げていくと、次第に大人と子供の分かれ目が曖昧になる。

 ならば、僕たちはいつ大人になるのだろうか。

 どうして僕たちは今、ディープブルーを飲んではいけないのだろうか。

 彼女の言い分は、こういうことだろう。

 だけど――


「僕たちはさ」


 それはきっと、間違っている。

 古閑さんの言う通り、そこの敷居はきっと、とても曖昧だ。


「カフェラテの、この部分にいるんだよ」


 僕はコップの外側から、黒と白の境目の、ほんの少し下側を指した。


「僕たちは年を取るにつれて、徐々に上に登っていく。そして」


 ガムシロップのたぷりつまった、甘くて白いミルクから、ほろ苦いコーヒーへむけて、指を伝わせる。人差し指は、やがて二つが混ざり合った、斑な部分へ。


「ミルクかコーヒーか、よく分からない部分に差し掛かる」

「白か黒か分からない」

「どちらでもないのかもしれない」


 僕は頷いた。


「本当は分からないんだよ。誰が大人になったのか、誰がまだ子供のままかなんて。人それぞれ、歩みの速さが違うんだから」


 分からなくて、曖昧だ。

 そして曖昧だからこそ、


「一本の線が敷かれているんだと思う」


 法律で定められた線を飛び越えたという事実。その目に見えない直線が、大人と子供をくっきりと分ける。分けてしまう。だってそうしなければ、煩雑になってしまうから。


「ふうん」


 僕が話し終えると古閑さんは、


「分かってるようなこと、言うじゃん」


 そう不服気に言った。

 そしてストローでカフェラテをかき混ぜる。コップの壁面に当たった氷が、がらがらと音を立てた。勢いが良すぎて、カフェラテが数滴、テーブルの上に飛び出していく。


「有名な哲学者の言葉があるんだよ。「『本当に自立している人間など一握りだ。多くの人間は、与えられた線を飛び越えただけで、自立したと思い込んでいる』って。それを分かりやすく言い換えただけだよ」


 古閑さんは感心したんだか不服なんだか、良く分からない音を喉から鳴らした。


「そういうの、どこで調べてくるの?」

「教養だよ」

「嫌味?」


 まさかと、僕は笑った。

 そんなことあるわけない。

 あるわけが、なかった。



 気付けば日が落ちていて、部屋の中はずいぶんと暗くなっていた。電気をつけていないからか、古閑さんの顔がろくに見えないくらい、室内が仄暗い。

 招かれたとはいえ、一人暮らしの女の子の家に、長々と居座るのは良くないだろう。

 そろそろ帰ろうと、帰り支度を始めた。

 その時だった。


「春海」


 名前を呼ばれ、振り返った。

 瞬間。

 肩を強く掴まれ、壁に押さえつけられた。反動で、軽く後頭部を打ち付ける。

 何事かと視界を正面にやると、古閑さんが何かを構えていた。

 残り火のように差し込んだ西日を受けて、それは鈍く、光る。



 ナイフ、だった。



 次の瞬間、鈍色の軌跡を残しながら、僕の真横を素通りする。

 ごすんと、壁に突き刺さる音がした。

 もう少し横にずれていたら、僕の顔面に突き刺さっていたのだろうか。壁の素材と、僕の骨、どちらの方が堅いのか分からないから、なんとも言い難いところだ。


「なんのつもり?」


 僕が問うと、


「蚊がいた」


 彼女は素っ気なく答えた。斬新な蚊の殺し方だ。

 頭を起こして振り返ると、彼女が刺したのは壁ではなく、コルクボードだった。たぶんこの部屋って賃貸だもんなと、妙なところで納得する。

 これ以上ナイフが追撃してくる様子もなかったので、僕は立ち上がった。


「じゃあ僕、帰るね」

「ん。また明日。今日はありがと」


 古閑さんは、何事もなかったかのようにひらひらと小さく右手を振った。

 僕が白昼夢を見ていたのかと思うくらいに、何事もなかったみたいに。

 だからというわけではないけれど。


「……えっと」


 確認するように、僕は言う。


「さっきのさ。他の人にはあんまりやらない方がいいと思うよ」


 彼女は応える。

 とても軽い口調で。


「バーカ。当たり前じゃん」


 部屋の中は、夕日の残り火がちらつく程度で、薄暗くて。

 表情までは読み取れなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ