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君を殺す薬をもらった。僕を殺す薬を渡した。  作者: 玄武 聡一郎
第一幕:黒の五月。灰色の六月。
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 家に帰ると、テーブルの上に千円札が三枚置かれていた。

 端っこにくっついていた付箋をゴミ箱に捨て、ぺらぺらの財布に突っ込んだ。

 冷蔵庫の中から昨日作った野菜炒めを取り出そうとすると、隣に母親が自分用に作ったシチューが置かれていた。彼女が自分で料理をするのは珍しい。何かいいことでもあったのかもしれない。

 野菜炒めを電子レンジにかけている間に、着替えを済ませる。

 廊下の奥の部屋から明かりが漏れている。スーツ姿のまま寝ているのか、あるいは酒缶をあおっているのか。どちらでもいいかと、僕は少し温まり過ぎた野菜炒めを取り出した。

 春海家は、随分前から家族としての体を成していない。

 父親は長期の出張か何かで家にいないし、母親も不規則な生活でほとんど家を空けている。

 二人が何の仕事をしているかはよく知らない。別段興味もなかった。

 たまに思い出したように机の上に置かれている数枚の千円札だけが、母親が僕のことを忘れていないという唯一の証拠のように思えた。

 最後に会話を交わしたのは、いつのことだったか。

「高校卒業したらどうするの?」そんなことを聞かれた気がする。

「家を出て働くつもりだよ」と返すと、無感情に「そう」と一言残し、自分の部屋に戻っていったっけ。

 僕がこの家を離れた後、二人はどうするのだろうかと考えて、何も変わらないかと自嘲する。

 僕という存在は、春海家にとって重しになっているわけでも、ましてやかすがいになっているわけでもない。

 いようがいまいが、変わらない。

 今二人が離婚していないのは、単純に手続きが面倒くさいだけだろう。もしかしたら別れることで、何か僕には知らないデメリットが生じるのかもしれない。僕はそう解釈している。

 味気ない野菜炒めをほおばりながら、ふと小学生の頃のことを思い出した。

「自分の名前の由来について調べてきてください」

 そんな宿題が出されたことがあった。

 その頃には既に、自分が望まれずこの世に生まれたということを知っていた僕は、わざわざ母親に聞くようなことはせず、何かしら自分でそれっぽい理由を考えようと思った。

 試しに「流」という漢字の意味について調べてみた。流れる以上の意味はなかった。

 次に熟語を調べてみた。本流、支流、激流、濁流、流水、流血、流動……どれもピンと来ず、いい話が作れないなと思っていると、一つの熟語に目が止まった。

 流産。

 妊娠したにもかかわらず、何らかの原因で妊娠が継続できなくなった状態のこと。

 これだな、と僕は直観した。両親は僕に生まれて欲しくなかったのだ。この世に形を成す前に、自然に消滅して欲しかったのだ。

「残念だったね」

「気にすることないよ」

 そんな白々しい言葉をかけ合いながら、二人で祝賀会でも開きたかったのかもしれない。

 だけど僕は誰にも望まれないままに生まれてきてしまったから、彼らはせめてもの想いを僕の名前に込めたのだろう。

 どこかに流れて行って欲しい、と。

 結局僕は「川のせせらぎのように、自由であって欲しいという願いを込めて付けられました」なんて適当な意味をでっち上げた。当時の担任の先生は「いい名前ですね」と笑って褒めてくれた。この世には良い意味が込められた名前しかないのだと、信じて疑わない笑顔だった。

 食べ終わった食器を洗い流し、ついでに母親が使った後の調理器具を洗いながら、僕は今日出会った彼女の名前について考えた。

 古閑翠。

 あの後、教室に戻って名簿を見て、みどりという名前が、緑でもなく、碧でもなく、翠であることを確認した。出会った一瞬、あの刹那、彼女の髪が魅せた艶やかな色合いとマッチした、良い漢字だと思った。

 どうやら翠という文字は、本来は鳥、中でもカワセミを指す漢字だったらしい。混じりけのないきれいな羽根を持つ鳥、が由来なのだとか。

 僕は目をつぶって、カワセミの姿を思い描く。

 霧深い湖のほとりで、長いくちばしを左右に振りながら枝にとまっている。

 どこからか吹いてきた風を合図に、翠色の羽根を広げて空に飛び立っていく。

 瞬間、差し込んだ一筋の光が湖に反射して、カワセミの羽根をきらめかせた。

 美しい。それに自由だ。僕が適当に考えた自分の名前の由来よりも、ずっと。

 洗い物を終えた僕は、手を拭いて自分の部屋に戻った。

 ワークチェアに背を預けながら、ポケットからプラスチックケースを取り出してみる。

 見た目は同じ。けれど中身は違う。

 僕を殺す薬は、今、古閑さんの手の中にある。

 改めて考えると不思議な関係だった。

 互いのディープブルーを交換する。

 それは、その気になれば彼女をいつでも殺せるということだった。

 そして彼女にいつでも殺されるということだった。

 メッセージアプリのIDを交換するみたいな気軽さで、僕たちは互いの命を握り合っている。

 古閑さんはどうしてこの薬を手にしたのだろうか。

 どんな悩みが、彼女をそこまで駆り立てたのだろうか。

 ケースの中の薬は、からからと軽い音を返すばかりで、答えを示してくれるはずもなかった。

 目をつぶって、考える。

 古閑さんも、今この薬を見つめている。そんな情景を思い描いた。

 僕のちっぽけな願いは、それでも叶わなかったけれど。


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