表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/33

14

 目を開けると、暗闇があった。

 視界は全くと言っていいほど機能していなくて、代わりに触覚と嗅覚が敏感に周囲の世界を認識する。

 嗅ぎ慣れない、だけどいつか嗅いだことのある甘い香り。

 脇と首元に冷たい物が当たっている。手を動かして掴んでみると、氷の入ったビニール袋が、しっとりと手のひらを濡らした。

 次第に意識が明瞭になり始めて、僕はポケットからスマホを取り出し、画面を確認した。痛いほどに明るい照明が、目を焼いた。

 二十三時三十分。

 がばり、と起き上がる。

 はずみで、額に置いてあったらしい氷嚢が濁点を伴って落ちていった。


「ん……起きたの?」


 足元から声がする。

 次第に暗闇に慣れてきた目が、ぼんやりと人の姿を捉えた。


「古閑、さん……?」

「寝ぼけてんの? それとも記憶飛んでんの?」

「ごめん、ちょっと混乱してる」


 今日は……そうだ、白雪さんと古賀さんの仲裁をするために彼氏役をやって、そのあと何故かカラオケに行って……そしたら帰り道、突然具合が悪くなって、そして――


「……あ」

「倒れたあんたを介抱するために、私の家に連れて来たってわけ」


 感謝してよね、という言葉と共に、何かが足の上に放り投げられる。

 イオン飲料水だった。


「寝る前にも飲ませたけど、もうちょっと飲んどいた方がいいよ? 結構吐いてたし。熱とかはないけど、なんか顔熱かったし。熱中症? 知恵熱? 分かんないけど、もうちょっとゆっくりしときなよ」

「ありがとう……」


 素直にお礼を言って、ペットボトルを傾けた。生ぬるくて、薄いスポーツドリンクみたいな液体が、だけど体中にしみわたるようだった。自覚がないだけで、体は水分を欲していたらしい。古賀さんの介抱のお陰か、気分はそんなに悪くなかった。


「まったく、調子悪いなら言いなさいよ。カラオケなんて、行かなくても良かったのに」

「ごめん。でも――」

「でも、なによ」

「……ちょっと色々、考え事してて」

「……ばーか」


 ベッドのスプリングが、ぎしりと音を立てた。


「何考えてたかしらないけど、それで倒れてたら、世話ないでしょ」

「ごめん」

「うん。そのごめんは、受け取っておく」


 毛布越しに、古閑さんの体温を感じた。真っ暗な部屋の中で、その感触だけはとても現実味があって、落ち着いた。

 スマホが一つ震えて、メッセージの着信を知らせた。

 白雪さんからだった。

 続いて、北風君からもメッセージが入る。

 内容はどちらも似たような感じで、僕の体をいたわってくれていた。


「誰から?」

「白雪さんと北風君から。僕が倒れたこと、二人に連絡したの?」

「うん。二人とも心配してたから、大丈夫だよって送っといた」

「そっか」


 少し申し訳ない気持ちになりながら親指でスクロールをして。

 北風君のメッセージを最後まで読んだ僕は、スマホを布団の上にぶん投げた。


「どうしたの?」

「なんでもない」


 なにが「家に上がったからって、変なことしちゃダメだぞ!」だ。

 彼は何かと一言多いと思う。

 内容を知らない古閑さんは、眉をひそめて僕が投げたスマホを手に取った。


「ちゃんとお礼言わなきゃダメだよ」

「……うん、分かってる」


 スマホを受け取りながら、頷いた。


「意外といい人だね、白雪さん」

「でしょ。意外と、は余計」

「だって、古賀さんと喧嘩してる時はあんまり印象良くなかったから」

「誰にだって、欠点の一つや二つあるでしょ」

「大事な友達なんだね」

「うん。だから、仲直りできてよかった」

「それでも、死ぬんだね」

「……っ」

「一緒の大学行きたいって、言ってたよ」


 カラオケでの、ちょっとした会話だ。

 白雪さんは大学に進学し、海外留学にチャレンジしたいのだと言っていた。

 一方の古閑さんは進学を選ばない。家庭の事情もあるし、高校を出たら働くつもりなのだと、そう言っていた。

 僕と同じだった。


「バカ言わないで」


 古閑さんはもぞもぞと後退して、僕の太ももに密着した。

 どうやら足を上げて、三角座りをしているらしい。


「先のことなんて、考えられると思う?」

「……そうだね」


 進学するか、就職するか。

 普通の高校生が、高校三年生で悩む選択肢を、僕たちは持っていない。

 生きるか、死ぬか。

 ただそれだけを考えて、それ以上のことを考える余裕はなくて。

 対外的に勉強や受験をしない言い訳を、就職という進路に預けている。

 八月に誕生日を迎える僕らは、それと同時にきっと死を迎える。

 だから、八月より先の未来は見えない。

 灰色の靄がかかっていて、見通しも立たず、ただ漫然と流れる時の流れの上を、一歩一歩進むしかない。何の答えも、得られぬままに。


「不安は自分の力量を図る試金石だ。弱き者は押しつぶされ、強き者は不安すらも自信への糧にする、か」

「……誰の言葉?」

「マーク・エマルソン。アメリカの思想家だよ」


 少し、間があった。

 今日は僕のためにエアコンをつけてくれたようで、冷たい空気を吐き出す低い唸り声が、部屋の中に静かに響いていた。


「あんたの()()さ……やめた方がいいよ。クセになるから」


 僕は無意識に、唇を撫でていた。

 存在しない哲学者の、ありもしない架空の名言を、虚構を。

 息をするみたいに吐き出すことを、咎めるみたいに。

 しばらくして、彼女は言った。


「ごめん……立ち入り過ぎた」

「いや、いいよ」


 僕はかぶりを振る。古閑さんの言っていることは正しい。

 飾らない言葉で、率直に、物怖じすることなく言い切ってくれるのは、好ましかった。

 ……。

 ……()()()()()()


「……ああ、そうか」


 僕はそこで気付く。

 なんだ、そういうことか。僕は、そんな簡単なことに悩んでいたのか。

 そのことに気付かず、あげく体調まで崩して迷惑をかけるなんて……ほんと、馬鹿みたいだ。


「どうしたの?」

「いや、さ……」


 どう話出したものかと少し言いよどんでから、僕は言う。


「今日、ファミレスにいたときからずっとモヤモヤしてたんだけど、その理由がようやくわかった」

「なにがモヤモヤしてたの」

「君の好きなところを、言えなかったこと」

「は?」


 彼氏役を演じていた時、白雪さんに問われた。古賀さんのどこを好きなのか、と。

 僕はそれに答えられなかった。なにも、言えなかった。


「でも君は言ってくれた。僕の好きなところをすぐに」

「あ、あんなの、デタラメだよ。私は――」

「デタラメでもいいんだ。だけど」


 だけど――なんなのだろう。

 僕はどうして、こんなにも意固地になっているのだろう。

 少し考えて、気付く。


「……僕だけ何も言えてないのは、フェアじゃないだろ」

「フェア?」

「そう、フェアじゃないんだよ」


 ようやく答えが見つかったので、僕は続ける。

 珍しく、舌がよく回った。


「僕だけが何かを一方的にもらうなんて、あっちゃダメだと思うんだ。不公平だと思うんだ。だけど……今ようやく分かったんだ。君の好きなところ」

「ふうん……。で、なんだったの?」

「僕は」


 一拍置いて、言う。


「古閑さんの口が悪いところが、いいと思う」

「……」

「……」

「……なによそれ」


 ぷふっ、と吹き出す音が聞こえて、そのまま流れるように、彼女はけらけらと笑った。


「なによ、それ。ぜんっっっぜん、褒められてる気がしないんですけど」

「そう? 結構頑張って考えたんだけど」

「はあ? 絞り出して出したのがそれとか、バカにしてんの? もっとなんかあるでしょ、考え直しなさいよ」

「ええ……もうないよ」

「ふ、ざ、け、ん、な!」


 彼女の細くて白い腕ががばっと伸びて、僕を掴み、そのままベッドに押し倒した。僕は彼女の攻撃から逃れようともがいたけれど、腹の上に乗られ、肩を押さえつけられて、全くと言っていいほど身動きが取れなくなってしまった。


「ほら、観念しなさい。なんかもっといいこと言うまで、離さないから」

「褒めたつもりなんだけどなあ……」

「あんた、ほんといい性格してるよね……」


 その時、古閑さんの髪が、一束、耳から垂れた。シルクが落ちるように、滑らかに。

 僕はその様を目で追いながら、言う。


「ああ、そういえば……」

「なによ。なに言うつもり。変なことだったら、今度こそただじゃ――」

「髪が綺麗だと思う」


 古閑さんの動きが、ぴたりと止まった。


「……え?」

「髪が綺麗だ、すごく」


 暗闇に目が慣れてきたとはいえ、部屋の中は電気一つ付いていない。外はもうとっぷりと日が暮れて、青白い街灯の光が、ベランダのすりガラスに刻まれて、バラバラと部屋の中に散らばっている程度だ。だから、古閑さんの表情も、よく見えない。

 何かまた、まずいことを言ってしまったのだろうかと訝しんでいると。


「ねえ、春海」

「なに?」

「……ごめん。もう一回だけ……確認させて」

「どういう――」


 そして次の瞬間。



 古閑さんの手が、僕の首にかかった。



 ほっそりとした両指が、僕の首をじわじわと締め上げる。

 頚部が圧迫される。

 段々と呼吸が苦しくなり、気道が押さえつけられているのだと気付いた。

 古閑さんの顔が近づいてきて、ようやく彼女の表情を視認できた。

 無表情だった。

 強いて言うならば、目だけは感情がこもっているように感じた。何かを推し量るような、まるで僕を試すような、そんな瞳の色をしていた。

 あの日、古閑さんが僕に向かってナイフを振るった時のことを思い出した。

 きっとこれも同じなのだろう。

 肺に入る空気が、いよいよ少なくなってきた。

 酸素を求めて、肺が膨らもうと奮闘するのだけれど、胸部に置かれた彼女の肘が、それを許さない。

 苦しいな……確かに、苦しい。

 だけど――


「……こが、さん」


 とんとんと、彼女の腕を叩く。

 とたんに指の力がゆるまって、気道が解放される。

 押しとどめられていた酸素が一気に肺に入り込み、僕は軽くせき込んだ。そのせいで流れた涙をぬぐいながら、呼吸を整えて言う。


「これじゃ死ねないよ」

「……うん」


 彼女も分かっていたのだろう。

 人の首を絞めて殺すには、相当の握力が必要だ。

 柔道の締め技のように、首の血流を止める場合はその限りではないけれど、だとすればさっきの彼女の手の位置は間違っている。

 結論から言えば、あれではいくらやっても、僕は死ねない。


「やるならもっと、ちゃんとやってくれないと」

「……あんた、やっぱ変だよね」

「ええ……古閑さんに言われるのか……」


 古閑さんの指が、僕の首元を撫でた。それはまるで、いたわるような手つきだった。


「痛かった?」

「痛みは、あんまり」

「苦しかった?」

「そこそこ」

「ふうん」


 興味があるのかないのか、分かりにくい声音だった。


「髪、褒められるの嫌だった?」

「そんなことない」

「だって急に首絞めるから。怒ったのかと思った」

「嬉しかったよ」


 囁くように、彼女は言った。

 エアコンの風の音にすら負けてしまいそうなほど。


「ならどうして――」

「聞かないで」

「……分かった」


 互いに深入りはしないという約束だ。僕は胸の内にわいた疑問を飲み込むことにした。

 しばらくすると、段々と僕の首を撫でていた指の動きがせわしなくなり、くすぐるように肌の上を這い始めた。頭を振って逃れようとしたけれど、彼女の両手が後頭部に回り込み、僕の頭部を固定した。


「ねえ」


 古閑さんの顔が近づいてくる。

 僕の髪の毛の合間を縫うように、長くて細い指先が、頭皮を柔らかく包みこむ。


「もうこんな時間だけど」


 ぱさりと、古閑さんの髪が流れ落ちて、簾のように左側を覆った。弱々しくも唯一の光源だった街灯の光すら遮られ、視界の明度が格段に落ちる。

 その中で。

 彼女の髪は、美しく闇から浮き上がっていた。

 暗闇の中ですら視認できるほどの、艶やかな黒。

 翠髪。

 彼女に初めて出会った時と同じ様に――それ以上に。

 僕の目を捉えて離さない。


「今日はこの後――どうするの?」


 そっと、左手を伸ばした。

 しっとりと、絡みつくように、指の間を艶めかしく撫でる。

 かと思えば、次の瞬間には逃げるように離れていく。

 つかず離れず、僕の指が髪を弄んでいるのではなく、髪が僕の指で遊んでいるみたいだった。


「ねえ、聞いてる?」


 古閑さんの吐息が僕の頬をくすぐった。

 エアコンが空気の流れを変えたのだろうか。左手に絡む黒髪が、わずかに風になびいた。

 甘い香りと、ほんの少しの塩素の香りが漂って、鼻腔をくすぐる。

 上げていた左手がしびれて、傾いた。

 古閑さんの頬に触れる。

 彼女はそのまま、頬ずりをするように小さく顔を動かした。

 もしも。

 もしもこのまま僕がここに残ったら、どうなるのだろうか。

 何かが変わるのだろうか。

 それとも、何も変わらず、そのままの日常が流れるのだろうか。

 あの日、僕と古閑さんがディープブルーを交換した後も、当たり前のように毎日が過ぎ去っているように。

 僕のささやかな願いが、叶えられないままでいるように。

 だとしたら、僕は――


「古閑さん」


 左手を、ベッドの上に下ろす。

 重力に負けて巡り切らなかった血液が、思い出したように循環を始める。


「今日は、帰るよ」


 じんじんと熱を帯びている左手を握りしめてそう言うと、彼女は、


「ふうん」


 小さくつぶやいて、そして僕の体に身を寄せた。

 額が触れるくらい近づいて、そしてそのまま通り過ぎる。

 彼女の吐息が耳朶をくすぐる。

 相変わらず頭は固定されていて、動かせない。

 唇が開く、リップ音すら聞こえるほどの近い距離。

 その位置で、彼女はそっと、暗闇に溶けるほどの小さな声で、いたずらっぽく囁いた。



「つまんないやつ」




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ