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 作ることは、壊すことより難しい。

 長い時間頭をひねって作り上げたジグソーパズルも。

 慎重に慎重を期して積み上げたトランプタワーも。

 細い糸の上を歩くようにして正解を選び続けてきたはずの、人間関係も。

 壊すことは、とても容易い。

 きっとそれは形あるすべての物が、精密機械のように、複雑な工程の果てに組み上がっているからだ。

 何か一つのパーツを抜くだけで、いとも簡単にその在り方が変わってしまう。

 壊す方法は無限にあって、しかもそれは、ひどく単純な一工程で完了してしまう。

 不公平な力関係だと思う。

 等価交換のように、何かを作り上げることと壊すことに同じ労力がかかったとすれば、世の中の在り方はもう少し変わっていたのではないだろうか。


 そんなことを、ほんの一瞬だけ考えて。

 忘れた。



 ※



 ざらついた気配を感じたのは、朝、古閑さんと昇降口で出会った時のことだった。

 スチール製の灰色な下駄箱が、色気のない音でせわしなく開閉していた。気だるげな挨拶が、その合間を縫うようにもったりと行きかっている。

 古閑さんが上履きに履き替えようと腰をかがめると、滑らかな黒髪が背中から右肩へ音もなく滑り落ちて、彼女の顔を隠した。周囲に誰もいなかったので、僕は何気なく声をかけた。


「おはよう、古閑さん」


 人差し指で髪を耳にかけるその動作が、ひどく緩慢としていた。もしかしたら僕が知らないだけで、女性の髪というのは、どっしり重いのではないかと錯覚するくらいに。

 そうして古閑さんは僕の顔をちらりと見ると、


「ああ、あんたか」


 とつぶやいて、思い出したように「おはよ」と付け加えた。

 理由は判然としないのだけど、僕は古閑さんのその声を聞いた瞬間に、今日、何かが起こりそうだと直感した。

 論理的な説明ができるわけではない。ただ周囲の空気がぐらついて、バケツの中に入れた水がちゃぷんと波打つような。

 そんな光景を、幻視した。


「何ボーっとしてんのよ」


 下駄箱の前で立ち尽くしていた僕に、彼女は「さっさと行こうよ」と不機嫌そうに言った。僕は「なんでもない」と首を振り、彼女に続いた。



 教室に入ってからも、ひどく妙な感覚が続いていた。

 足元がぐらぐらと揺れているとでも言えばいいのか。床がゴムみたいな素材になって、遠くで巨大な怪物が大地を踏みしめた衝撃が伝播して、ぐわんぐわんとリノリウムの床が波打つ。だけどそれには誰も気づかずに、いつも通りの日常を過ごしている。そんな奇妙な感覚。

 教室の端から、相変わらずよく通る声がする。

 古閑さんを含む数人がたむろして話していた。毎日毎日、よくもまあ話題が尽きないものだ。

 今日の話題は、昨日の合コンについてのようだった。

 声が聞こえる。


「ねー、なんで昨日電話出てくれなかったのよ」

「ごめん。昨日は帰ったら寝ちゃってて」

「ウケる。夕方から寝てるとか赤ちゃんじゃん」


 古閑さんが右手をカーディガンのポケットに突っ込んだ。手の甲がちらちらと動く。

 青いカプセルがプラスチックケースに当たる音が、やけにはっきりと、脳内で響いた。

 こんなところまで聞こえるはずもないのに。


「ていうかさー、昨日合コンやるって伝えたじゃん。寝るとかありえないんだけど」

「そーそー、おかげでこっちだけメンツ一人足りなくて気まずかったんだからねー」

「ごめんってば。次は絶対行くから」


 机の上にぽたりと雫が落ちた。

 あわてて周囲を見渡したけど、何もない。

 自分の顔をぬぐって、汗が垂れていることに気が付いた。季節は初夏。確かに暑い日は続いているけれど、まだ汗がしたたり落ちるほどの温度ではない。

 なんだ、これ……?

 声が聞こえる。


「とかいって、この前も合コンすっぽかさなかった? これで二回目じゃない?」

「あー、ほんとだー。前は何だっけ? お腹痛いから?」

「もしかして、ウチらと遊ぶの避けてんの?」

「そういうわけじゃ……」

「じゃぁさ、スマホに今から次の合コンの予定入れといてあげる。そしたら絶対忘れないっしょ?」

「おー、ナイスアイディア。ほら、翠。観念してスマホ寄こしなー」

「ま、待ってってば。なにもそこまでしなくても……」


 声が、聞こえる。

 調律の合っていないヴァイオリンが、オーケストラで必死に音を合わせようともがいている。

 弦が悲鳴を上げている。


「どーせ、ポケットの中に入ってんでしょー。うりうり、ここか? それともこっちか?」

「ちょっと、ほんとに待って。そこは――」

「ん? なにこれ、ケース?」


 声、が。


「返して」

「いいじゃんちょっとくらい。なに入ってんの、これ?」

「なんかカラカラいってる~。なんだろ、飴とか?」

「返してってば」

「開けてみたら?」

「えー、さすがにそれは……」

「でも気になるし」

「まぁ確かに、じゃぁ思い切って――」



「返せっ! それ以上汚い手で触れんな!」



 静寂が。

 訪れた。

 物音を一つでも立てれば白い目で見られてしまいそうな、そんな痛々しい静けさ。

 やがて女子グループの一人が口を開く。少し声が、震えていた。


「何必死になってんの……ばっかじゃないの」


 それを皮切りに、女子たちがさえずり出す。


「っていうか今、汚い手って言った? さいってーなんだけど」「つーか怒鳴るとかありえなくない? 普通に返してって言えば済む話なのに」


 気持ち悪い。

 なんだよこれ。なんで古賀さんが責められてるんだよ。

 なんで誰も、口を挟まないんだよ。なんで誰もあいつらが悪いって言わないんだよ。

 教室の生徒たちはみな遠巻きに女子グループの喧嘩を見守るばかりで、卑怯にも傍観者を貫いている。いつもはあんなに騒がしくはしゃいでいるクセに、こういうときだけ静かになって。ずるいじゃないか。おかしいじゃないか。


 いや――僕も、同じか。

 同じ、なのか。


「ねぇ、なにこれ?」「喧嘩でしょ?」「よそでやってくんねぇかなぁ……」「なぁ……俺が今、お腹なるんじゃないかってビクビクしてる話、していい?」「もうしてんじゃねえかばーか」


 こいつらと、同じ。

 顔も名前も分からない有象無象が、好き勝手な言葉を吐き散らしている。

 無責任に、無遠慮に、安全圏で談笑しながら、馬鹿みたいな会話を並べて。

 なんだよ、なんでこんな気持ちになるんだよ。


「いいから返してよ。大事なものだから」

「言い方、もっと考えなよ。私たち傷ついたんだから」


 なんで。


「なに、傷ついたって。勝手に言ってろよ」

「ほらまたそういう言い方。りり子泣きそうじゃん」


 なんで。


「謝って。じゃないとこれは返さない」

「はぁ? いい加減にしてよ。何の権利が合って人の物取って偉そうにしてるわけ? いい加減に――してよ!」

「きゃぁっ! ちょっと誰か、この子止めて!」


 なんで――ッ


 バケツの中に入れた水が、ちゃぷんと波打った。

 そんな光景を、幻視した。



「古賀さん、もういいよ。大丈夫だから」



 ……。

 …………。

 手が、古閑さんの肩に当たっている。

 女子たちにつかみかかろうとした古閑さんを、僕の手が止めている。

 なにやってるんだ、僕。


「……春海。あんた、本気で言ってんの?」

「うん、本気だよ。だから落ち着いて。ほら、ゆっくり深呼吸」

「ふざけんな!」


 掌に衝撃が走って、体が軽くよろめいた。

 古賀さんの鋭い目が、僕を射抜く。これまで見たことがないくらいの怒りが、瞳の奥で尖っていた。


「あれは、あんたが……あんたのっ……!」


 そして古賀さんは何も言わず、そのまま教室を出て行った。

 残された僕たちは、しばしあっけに取られたように古賀さんの出て行った方向を眺め、


「なにあれ」


 一人の女子の発言で、時間を取り戻した。


「勝手にキレちゃってさ、意味わかんない」


 徐々に徐々に、さざ波のように教室の中にざわめきが戻っていく。騒ぎ方を思い出したように、少しずつ。

 野次馬たちは野次馬たちで、目の前の女子グループは、女子グループで、それぞれ固まって、今あったホットな事件についてあれこれ話を膨らませている。

 僕という存在は、ちらちらと視線を向けられるだけで、どちらの輪の中にも決して入ることはない。それはいい。別段、入りたいとも思わない。

 だけど――


「それ、返してくれないかな」


 これだけは、取り返さなくちゃ。


「なんで春海君に渡さなくちゃなんないの」

「君が、古閑さんに返すつもりがなさそうだったから」

「だから、なんでそれであんたに渡さなくちゃなんないのかって聞いてんの」


 名前も分からない女子生徒が、イライラと机を指で叩く。

 その質問にたいして、彼女を満足させられる回答を僕は持ち合わせていない。だから事実だけを伝える。淡々と。


「それは、君が持ってても意味のないものなんだ。それで、古閑さんにとっては、今、なによりも大事な物なんだ。言ってること、分かるよね」

「いや、だから――」

「分かるよね」


 そのディープブルーは、僕専用の自死薬だ。その存在を知らない人からすれば、何の効力もないただのカプセルだ。だけど古賀さんは――この世でただ一人、古閑さんだけは、その薬を持っていて、意味のある他人なんだ。


「それ、返してくれないかな」


 僕は、三つしかセリフを言えない人形みたいに、同じ言葉を繰り返す。

 やがて目の前の女子生徒は、そんな僕を不気味に思ったのか「返せばいいんでしょ、返せば」と、不服げにディープブルーを僕の手に押し付けた。


「ありがとう、古閑さんには、僕から渡しておくから」

「はぁ……もう好きにして。疲れちゃった。っていうかさ」


 古閑さんを探しに行こうとする僕の背中に、女子生徒が声をかけた。


「あんたたち、どういう関係なの?」


 どういう関係、と問われると困ってしまう。

 ついこの間まで、互いに会話も交わしたことがなかったような間柄だ。友達と言えば丸く収まる気もするが、なんとなく、しっくりこない。


「……考えとくよ」

「意味分かんな……」


 脱力したのか、机につっぷしたような音が聞こえたので、僕はそのまま教室を出た。古閑さんにディープブルーを届けるためだ。

 けれど、いくら探しても、古閑さんを見つけることはできなかった。

 休み時間が終わっても、古閑さんは教室に返ってこず、その日の授業がすべて終わっても、古閑さんは姿を見せなかった。


 そして。


 それから一週間、古閑さんは学校に来なかった。



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