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 あれから二週間ほどが経過して、七月になった。

 代り映えのしない二週間だった。

 古閑さんの家に行った後、僕たちの仲は急接近した――なんてことも、もちろんなかった。

 むしろ大したイベントもなかったので、ろくに会話も交わしていないのが現実だ。

「おはよう」「調子どう?」「消しゴム取って」「じゃ」こんな素気ない言葉を、一日に数回、投げ合うか合わないか。僕たちの関係は、その程度のものだった。

 ディープブルーという非現実的な薬を交換したところで、僕の周りを覆っている抑揚のない世界は変わらない。灰色の現実を、再確認させられた気分だ。

 学校へ行く。授業を受ける。下校する。寝る。そんなルーティンを繰り返すだけ。きっと僕は気付けば誕生日を迎えていて、古閑さんから薬を返してもらって、さくっと死んでしまうのだろう。

 そんなことを考えながら、教室に入り、席に着く。

 声の塊が耳を打った。


「ほら、これ今度の合コンのメンバー」

「ええ……ほんとにやるの?」

「ったりまえじゃん! 翠も早く、彼氏見つけないと」

「もー、私は別にいいのに」

「あたしは興味あるなー。この前別れたばっかりだしい。写真ないの、写真ー」

「もちろん用意してますともー。誰から見るー?」

「一番イケメンな人ー」

「りり子……あんたショートケーキでイチゴ最初に食べる派でしょ」

「え、なんで分かったの?」


 自分の机に頬杖をついて、僕はなんとはなしに、教室の端にいる一団を眺めた。

 明るくて、騒がしくて、落ち着きがない。

 ありふれていて、どこにでもいそうで、色々な意味で凡庸な、女子集団。

 そんな中に古閑さんが溶け込んでいた。何食わぬ顔で。

 ふと、脳内に再生されるのは、あの日の鈍色の軌跡。

 僕の顔の真横を通り過ぎて行った、他人行儀なナイフ。



『蚊がいた』



 ……あれは結局、なんだったのだろうか。

 僕を殺そうとしていたと考えるのが自然だけど……それなら、ディープブルーの中身をカフェオレに溶かせばよかったはずだ。わざわざナイフを使う必要なんてないだろう。

 それに、僕を殺そうとした理由も分からない。

 その後あっけなく僕を見送った理由も分からない。


「……変なやつ」


 今、目の前で平凡に笑っている古閑翠と、僕と一緒にいる時の彼女がかみ合わない。

 まるでまったくの別人みたいだ。


「まーた古閑さん見てんの?」


 視界が左右にぐわんと揺れた。茶髪君が首をがっちりとホールドしているのが、目を向けなくても分かった。


「ほんと、興味津々だねえ春海。このむっつりスケベめ」

「そういうんじゃないよ」

「またまたあ。古閑さんの豊満なボデエに、釘付けになってたんだろー」

「違うってば」


 軽く笑って、とんとんと茶髪君の腕を叩く。思ったより反応が薄かったからだろう、茶髪君は「早く素直になれよ。いつでも相談に乗るぜ」と言い残して去っていった。

 みんなそういう話が好きなんだなと、思う。

 古閑さんを取り巻く女子たちも、茶髪君も、惚れた腫れたの話ばかりしていて。

 まるでそれが世界の中心になって回っているような顔をする。

 だけど……そんなのはまやかしだ。愛だの恋だの、形のないあいまいな概念が、大層なものであるはずがない。

 猫がマタタビにうっとりと頬ずりするように。

 マルーラの実を食べたアフリカの動物たちが、千鳥足で辺りを歩き回るように。

 強烈な刺激でもって、脳のどこかを焼き切られ、あたかもそれが素晴らしいものであるかのように錯覚しているだけなのだ。

 世界の中心にいるのは自分だ。そして世界とは、両手を伸ばした範囲のことだ。

 もっと実存的で、物体的で、無機質で、味気ないものだ。


「ほらどう? この子とかいいんじゃない? ぜんっぜん私のタイプじゃないから、逆に翠のタイプだったり」

「えー何それ。どういう基準?」


 古閑さんは、教室の端でからからと笑っていた。

 チャイムが鳴って、授業が始まるその時まで、僕はなぜか彼女の笑顔を眺めていた。



 ※



 事が起こったのは、すべての授業が終わった放課後のことだった。

 玄関へ続く渡り廊下に差し掛かった時、こつんと足首に何かが当たった。目線を下げると、小柄なサイズのローファーが、ぴこぴことつま先を上げ下げしている。僕にこんなちょっかいのかけ方をしてくるのは、この学校で……いや、この世界で一人しかいない。


「よっ」


 組んだ両腕からひょこっと右手の指をあげ、最小限の動きで挨拶をした古賀さんは、僕の挨拶を聞く前に「それで」と話し出した。


「そろそろ決まった?」


 相変わらず主語が足りないんだよなぁ。もう慣れたけど。


「なにが?」

「死ぬまでにやりたいこと」

「決めてないけど」

「なんでよ」

「なんでと言われましても……」


 次会った時までに決めておく、なんて約束を交わした覚えもない。文句を言われる筋合いはないと思うのだけれど。

 そんなことを考えていると、古閑さんは不機嫌そうに唇を尖らせて言う。


「この前は私のやりたいことに付き合ってもらったでしょ」

「うん」

「じゃぁ次は、私があんたのやりたいことに付き合わないとフェアじゃないじゃん」

「別に気にしないけど」

「私が気にするの」


 ううんと僕は思わずうなった。なるほど、古閑さんの言いたいことはよく分かった。彼女はこの前僕がビルの屋上について行ったことを貸しだと思っていて、そのお返しがしたいわけだ。

 気持ちは嬉しいけれど、正直同じくらい困ってしまう。

 あれから二週間、僕なりに考えてみたのだ。

 死ぬまでにやりたいこと、やってみたいことがないかどうか、何度も何度も自問した。けれど何回自分に問いかけたところで、返ってくる答えは「なにもない」だった。

 だから遠慮しているわけでもなんでもなく、今古賀さんにお願いできることはなにもないのだ。

 こうなってくると、死ぬまでにやりたいことが色々ありそうな古賀さんが羨ましくさえ思えてくる。


「そうだ」


 ふと、あることを思いついて、僕は古賀さんに問いかけた。


「古賀さんはさ、他にもあるんでしょ。死ぬまでにやりたいこと」

「私? 私はまぁ、一応あるけど」

「じゃぁ、それをしようよ」

「はぁ?」


 古賀さんが眉を顰める。


「私の話聞いてた? 私はあんたの――」

「友達のやりたいことを手伝いたい」


 友達、という言葉を使うのは、非常に小っ恥ずかしかったけれど、他に適切な言葉が思い浮かばなかったのだから仕方がない。恥を忍んだまま、僕は言う。


「それが僕の死ぬ前にやりたいことだから」

「……今決めたでしょ」

「バレた?」

「バカじゃないの」


 自分でもそう思う。でも、これが最適解だという自信もあった。


「付き合うよ、なんでも。今日はどこに行く? この前がビルの屋上だったから、次は山の上? それともスカイダイビングにでも挑戦してみる?」

「なんで私が高いところが好きみたいな設定になってんのよ」

「他に思いつかなくて」


 そういえば、どうして古賀さんはビルの屋上なんかに行ってみたかったのだろうか。単に景色がいいからってわけでもなさそうだけど……。まぁ古賀さんの考えてることは分からないことだらけだし、考えるだけ無駄か。


「あんたさ、料理できる?」

「え?」

「料理、できるのかって聞いてんの」

「まぁ、簡単な物なら」

「そ。じゃぁちょうどいいや」


 そう言うと古賀さんは、スクールバッグを肩にかけて、親指で玄関口を指さした。


「買い物行こ。そろそろ近くのスーパー、タイムセールやってるし」



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