34 その香りは
部屋の静謐な空気は変わっていない。
ナタリーがいつも掃除をしてくれていることが、マリスはあれから一度も入ることはなかった。この部屋に、人間を押し込むことも二十三年一度もない。
最後に過ごした時間がそのまま残っているのではないかと思っていたが、そんなことはなかった。
ただの部屋だ。
「……はあ」
気の抜けたマリスは、いつも自分が座っていたソファにどすんと座る。
どうしてここに来たのだろう。
思わず頬杖をつき、そのまま顔を覆った。
あれから両親とも離れ、子供たちの世話もしてきて、叔母にもなり、それなりに年を重ねていたつもりだが、見た目も変わらないように中身も変わっていないのかもしれない。
マリスは顔を覆ったまま目を閉じる。
あのイバラは、まだ自分の中にあるのだろうか。
誰かで試したことなどない。もしイバラがでなければ、どれほどダメージを受けるのかわかっていた。疑っているのではなく、ただただ、怖かった。
……上に戻ろう。
マリスは目を開けて、顔を覆う手を離そうとした。
が、ふと何か黒いものが指の隙間から見える。
ローテーブルの先。
向かいのソファの足下に、黒いものが。
靴。
靴だ、と思った瞬間、マリスは手を離して顔を上げていた。
「……サイラス」
口からぽろりとその懐かしい名前がこぼれる。
呼ばれた男は、昔と寸分も変わらない姿でそこに座っていた。
額で分けた前髪から見える赤く輝く目、左右の耳についたピアス、胸元まで伸びた髪。そして、黒いコート。
「ようやく来たな、マリス」
その美しい顔は、再会を喜ぶというよりも、明らかにムッとしている。マリスは思わず「はあ?!」と叫んでいた。
「態度が悪いぞ」
「いや、ちょっと待って。なんで今更?」
「……今更ではない。一年前、ティアと当主を交代してから、ここに来ていたんだが」
そんなの知らない、と言いたかったが、そういえばことあるごとにティアからの手紙に「思い出の場所に行ってみては」とか、毎日顔を見せるようになったトーリからは「あなたも好きに生きていいんですよ」やら「ほら、いつも会っていた場所にでも行って思い出に浸ってみては」とやたら催促されていた記憶が戻ってきた。
それらすべてを「もう気にしないで」とさらっと流してきた自分も思い出す。
「俺を知らないものたちの前に突然現れるのもどうかと思って、君が地下の階段前でじっと立っているときにこうして待っていたが、全く来ない。もうこうなったらマリスが自分からここへ来るまで、何年でも待つつもりだったんだよ。ここに来ないのなら、君の中に俺はいないのだろう、と」
「それ、本気で言ってるの?」
「いいや?」
思わず睨めば、サイラスはにやりと笑って否定した。
「君が俺の存在を忘れていないことはわかっていたよ。誰とも接触していない」
暗にイバラのことを言っているのだろう。
マリスはじっとりとサイラスの楽しげな目を見つめる。
「で、何しに来たの?」
「それでこそマリスだ」
「それはどうも」
「君に求婚しに来た」
思わず、マリスは時間を遡ったのかと思った。
お互い見た目は全く変わっていないし、している会話も昔通りのもので、カノンとトーリのような甘さは含んでいない。
そもそも、サイラスのことをマリスは選ばなかった。
「……何言っているの」
「だから、求婚を」
「私はあなたを選ばなかったこと、忘れたの?」
マリスが言えば、サイラスは笑った。
「忘れてない。けど、違うだろう?」
「違うって何が」
「君は俺を選んでない。が、姉を選んでもない」
自信満々に言っているが、意味が分からない。
マリスが口を開こうとすると、サイラスはそれを止めた。
「君はこう言った。俺だけを選べない、と。そうだろう」
「……そうだっけ」
「そうだ。つまりどちらも選んでいない。姉を選ぶと言葉にしなかったのなら、どちらも選んでないことになる。つまり、俺はまだ振られていない」
「……なにそれ」
「振られていないので、求婚するために来た」
「……」
「……」
「……ふ!」
馬鹿馬鹿しい沈黙に耐えられなかったマリスが吹き出せば、サイラスもくっと笑って肩をふるわせる。
わざとらしい再会の演出をしなかったサイラスが懐かしくて、嬉しくて、マリスはようやく力が抜けた。反動で、涙がでそうになる。
「まさか、待ってたの?」
誤魔化すように言えば、サイラスはソファから一瞬消えて、マリスの目の前に現れた。ローテーブルに座っている。しかも、近い。
「……行儀が悪いよ」
「マリスに言われたくない」
「そうね」
何度もそれに足をかけて蹴り飛ばそうとした記憶に笑うと、サイラスはゆっくりと手を伸ばしてきた。マリスの首もとから、服の中に隠れていたチェーンを優しく引っ張り出す。
その先に、薔薇の指輪が引っかかっていた。
「持っていてくれたんだな?」
肌身離さず持っていたことを見抜かれて、マリスは澄ました顔でその手をやんわりと叩く。
「私が先に聞いたんだけど?」
「相変わらず照れ屋だな」
「サイラス」
「待ってたよ」
伏せた目が、マリスの胸元で揺れる薔薇の指輪を慈しむように見ている。
「君があの時、俺を選べない、と言ってくれた瞬間から、こうしようと考えた」
「わかってて聞いたんでしょ」
選ばせる気など最初からなかったくせに、と言えば、子供のように無邪気に笑う。
「ああ、うん。わかってた。君は決して自分の意志を変えないし、上手いこと言ってこちらの思い通りに動いてくれたりもしないしな。それに、お互い厄介な立場だっただろう。あまりにも役目が大切すぎた」
「あのまま感情のままに一緒にいたら、どうなってたと思う?」
マリスは尋ねた。
サイラスは逡巡する様子もなくあっさりと答える。
「無理だっただろうな。マリスは十日ほどで逃げ出していただろうし」
「十日?」
「七日か」
くすくすと笑いながら言う。
その昔自分も思ったように、やはりあのままではきっと上手く行かないことはサイラスだってわかっていたのだ。
「私、自分を許せる道を選んだの」
マリスが呟くと、サイラスはゆるく頷いた。
「ここに尽くす為じゃない。ただの意地よ」
「意地を通したのなら立派だと思うが?」
「そんなことを言うのはサイラスだけだわ」
「そうか? 君を溺愛する姉は絶対にそうは言わないだろう。俺もそう思うよ。君を姉のように慕う姪のカノンだって、花聖院の娘たち、特に君に育てられたアイとレカだって、よく献血にくるハリーだって、もちろん吸血鬼の全員も、君の働きを認めているし、尽くしている姿に高潔さを感じている。評価は周りが与えてくれるものだ。それはそのまま受け取っていい」
「……」
「うん?」
「……」
愛情深く見つめられ、首を傾げて微笑まれているが、マリスはすべてサイラスに筒抜けになっていたことに思わず目が据わった。
しかし、サイラスは微笑み続けるままだ。
「いや、知ってたけど。知ってたけどさ……」
「何のことだろう」
「吸血鬼の情報だけだと思うじゃない。いったいどこからどこまで知ってるの?」
「二十三年分の情報は今だけじゃ語れないな」
「いい。語らなくていい」
「それは残念だ」
サイラスがマリスの手を掴む。
おとなしくされるがままにしていると、嬉しそうに目を細めた。
「長かったか?」
「二十三年が?」
「ああ」
「長かったようで、そうでもないような。サイラスの周りの人間が常にいたせいで、忘れることもできなかったし」
「俺はずっと会いたかったよ」
突然真剣に言われてしまい、マリスは一瞬詰まったが、ぎこちなく頷いた。
ちらりと赤い耳を見て、サイラスがくすぐったそうに笑う。
「……そうか、よかった」
「サイラス」
「ん?」
「待っていてくれてありがとう」
マリスはできるだけ優しく伝わるように、感謝を口にした。
昔よりは素直に言葉にするように意識はしてきたが、相手がサイラスとなると妙に緊張する。
見透かしたような目が、宥めるようにマリスを見た。
「気にするな。君が罪悪感なく俺の側にいてくれるように勝手に動いただけだ。無理矢理連れ去って十日で逃げ出されちゃ俺は正気でいられないだろうし、この花聖院は血で染まっていたかもしれないだろう?」
「……笑えないわ」
「ふふ、だよな」
サイラスの手がマリスの首もとへ静かに伸びる。
じっとしていると、指輪はサイラスの手に渡っていた。
「で、結婚してくれるのか?」
指輪をマリスに見せながら聞く。
「それだけど」
「ああ」
「その気持ちは本当に嬉しい。会いたかったし、ずっと想ってた。でも、カノンが結婚するって言ってるし、まだこの先も花聖院がどうなっていくかわからないし」
「わかった」
サイラスがにっこりと笑う。
立ち上がったかと思うと、マリスはぐいっと引っ張られていた。
身体が持ち上がり、子供を抱き抱えるように、その腕に軽々とマリスの身体をしっかりと抱きとめる。
「さー、行こう」
「えっ、ちょっと、サイラス」
「マリス、お前、次はカノンに子供が産まれたからと言い出すぞ。違うか」
「……」
「恥ずかしがるのは可愛いが、二十三年待ったので限界だ。院長殿、俺はこれ以上待てないのでマリスを連れて行くがいいだろうか」
天井を見上げたサイラスの声に、ハッとする。
すっかり忘れていたが、筒抜けなのだった。
マリスの顔が一気に真っ赤に染まる。
「……ん、ああ、元当主様、お久しぶりでございます」
どう聞いても笑っていたような震える声で、ナタリーが返事をする。
「お元気で何よりです。マリスのことですが、どうぞ持って行ってくださいませ。あなたの仰るように、なんだかんだ理由が見つかってしまいますので、今のうちにどうぞ」
「ナタリー!」
「……マリス、ここへの献身は感謝するけれど、当主様たちのおかげで色々と変わったのよ。あなたもいい加減素直になってはどう?」
「でも、まだ子供たちが」
「……私とカノンを信頼できないの?」
「そうじゃないよ、そんなわけない」
「院長殿、彼女はここがどうしても好きらしい。マリスがここに通う許可をいただけるか?」
「……まあ」
説き伏せられそうな気配を察したマリスが表情を曇らせたのを見るや否や、サイラスはすぐさま次の手を打った。
連れ去ることはやめたらしい。
マリスがほっとし、ナタリーは感嘆の声で答えた。
「……あなたは本当に怖い人だわ。ねえ、マリス、断れるかしら」
ナタリーは問いかけ、サイラスはずいっとマリスに指輪を見せる。
抱き抱えられたままのマリスはしばらく黙っていたが、自分を見つめるサイラスの鮮やかな赤い瞳に観念したように、そろそろとその指輪に向けて左手を向けた。
自ら、薬指にその輪を通す。
そうして、そのままサイラスの首もとに抱きついた。
「これでいい?!」
「ふっ!」
サイラスが無邪気に笑いながら、マリスを強く抱きしめる。
あまりにも恥ずかしくて、でも嬉しくて、どこか寂しくて、マリスはぎゅうっとすがりついた。
かわいげのない自分を、この人はどこまでも許してくれるのだろう。
こうして逃げ道を一つ一つ塞いで、そうしてやっと選べることを、知ってくれている。弱くて情けない心を、それでいいのだと甘やかしてくれる。
きっと、この先も。
この人だけが、自分を甘やかしてくれるのだ。
マリスはその首に、すっとすり寄った。
「……好き、大好きよ」
少しだけ、素直になる。
また強くなる腕の中で、サイラスが同じようにマリスに伝えてくれる。
ああ、こんなに温かい人だったのだ。
やはりどこか花のにおいがするような気がする。
それは、
苦くて、甘くて、柔らかく心を揺らす、鮮やかな香り。
深く満たされる、優しい香り。
完
ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。
ブックマークや、いいね、評価を頂き、本当に励まされました。
おかげで完結でき、物凄く安堵しています。
反省点が多い物語ではありましたが、ほんの少しでも楽しんでいただけたら幸いです。
藤谷




