33 変わり行く
「えっとね、最初に会ったのは、ほら、私が初めてこの制服を着たときで……夜にトーリさんが来てたじゃない。マリスちゃんの友達だって聞いてたけど、なんて綺麗な人なんだろうって」
友達ではない、と言いたかったが、言葉が出てこないマリスはしかめっ面のまま続きを促すように頷く。
「それで、まあ、一目惚れです」
うふふ、と可愛らしく笑うカノンは、トーリの腕に巻き付いた。
「……カノン」
「なに?」
「彼が、始祖の血族だと言うことは」
「うん、知ってる」
マリスの絞り出した問いに、カノンは大人びた声で答えた。
その声を聞き、澄んだ目を見れば、彼女の中で葛藤があったことも、立場と役目で悩んだことも痛いほど伝わってきた。けれどそれを飛び越えて、今カノンはここにいるのだ。そうであるのなら、マリスが反対することはできない。
「時代が変わったのです」
トーリが言う。
何も恥ずべきことはない、と堂々としているところを見れば、この「婚約」は多方面から既に了承を得ているらしい。
「……そう」
「変えてくださったので」
「あ、そう」
意味深な言葉を意味深な笑みでくれたので、マリスはあっさりと流す。
トーリはくすくすと笑った。
随分表情が軟らかい。今、ティアと並べば誰でも双子を見抜けるような気がした。ティアはどこか、硬質で気高い雰囲気がますます強くなっていた。吸血鬼らしいその雰囲気がトーリからは感じられない。
始祖の血族と言われても、一瞬疑ってしまうほどの穏やかさだった。
「マリス様。ここはもう中立である必要はないのです」
トーリの言葉が、ふと温度を持って広がる。
「我々は、対立せず、対等であれるようになれました。この花聖院が担ってきた重責は大きいでしょうし、これからもここの娘たちには役目を全うしてもらうことになります。そういう立場なので」
目が、青い限りは。
それが生きる場所を示すのなら仕方がないのだ、とトーリは言う。
「けれど、あなた方はもう自由です」
ふいに、マリスの元に深い薔薇の香りが広がった。
あの手紙の花びら。
文字の一つ一つが、マリスの脳裏に蘇ってくる。
自分の中にだけ大切にしていたそれが、一気に溢れたようだった。
○
吸血鬼と人間はやはり会うことは少なかったが、確かに時代は変わった。
それはもう、何かの意思を感じるほどの凄まじいスピードで。
マリスは中庭に置いた木の丸椅子に座ったまま、折り畳まれた古ぼけた新聞をちらりと見る。
吸血鬼の当主と人間の国王がにこやかに握手を交わしている写真が一面に華々しく載っている。
黒い豊かな黒髪を一つにまとめたティアは、ローブにティアラとかなりめかし込んでいて、対する国王はそれはもうデレッデレだった。
ティアが当主を継ぐことになった、と本人から聞いたときには、少々困惑気味だった彼女を思いきり励ました。ティアじゃなければ誰がやるのだろう、とさえ思えたのだ。先頭に立ち、導ける引力を持った者でなければ務まらない。
未だに、夜の待合室に昔なじみの「輸血を必要としない吸血鬼」たちが代わる代わる見張りにやってくるが、彼女ほど誰よりも始祖の血族を背負う気迫を持っている者はいなかった。
マリスは新聞のスピーチを指でなぞる。
『吸血鬼は愛情深い生き物であり、それは日々血液の協力をしてくれている人に対しても持ち得るものです。我々は先の争いを決して忘れません。忘れないからこそ、これまで通りよい隣人として生きていけることでしょう』
記事の賞賛が程々であるところに、ティアの手腕を見た気がする。
こうして大々的に「隣人宣言」がでることになったが、だからといって関係が大きく変わったわけではなかった。
生きていく場所が違い、文化が違い、歴史が違う。
無理な歩み寄りは歪な関係を生み出すからこそ、今まではっきりとした「和平交渉」のようなものはなかった。曖昧だが協定という規律がある状態の方が、きっとお互い便利だったのだろう。
しかし、それを変えたのだ。
表面上の平和だったものを、永久的に続けていくために相互の努力を惜しまない、と。互いを「隣人」として、決して過干渉はせず、しかしタブー視もしない。
そう踏み込んだ宣言をもって、吸血鬼と人間は対等となった。
『そして、今まで我らの架け橋となってくれていた花聖院の娘たちに、心より感謝します』
最後の一言を、マリスは何度も何度もなぞった。
これだけの言葉にとどめてくれたことをありがたく思う。
何度も読んでいるせいで、一年前の日付のそれは、もうくたくたになっていた。
ティアは忙しくなったせいで顔を見せることはほとんどないが、なぜか月に二度、手紙をよこしてくる。
それも薔薇の花びらに変わるので、当主になったものは手紙を薔薇の花びらに変える特殊能力でもあるのかとマリスは少々おかしくなった。
手紙の返事でそれを伝えれば、花びらを白に変えてきたので、今はマリスの机の上には赤い花びらの詰まった瓶と、赤と白の花びらが入った瓶が二つ、置かれている。
マリスは一人、中庭で空を見上げる。
あれから一年で色々と変わった。
花聖院の娘たちは、希望する者は自宅へ帰ることもある。
しかし、いくら対等になっても、中立である必要がなくなっても、彼女たちの身の安全に関してはまだ未知数だった。人でも吸血鬼でもない花聖院の青い目の子供たちにとっては、ここはまだまだ唯一の安全圏なのだ。
もし次に青い目の子供が産まれたら、その際にはここで育てるのか、それともここへ通うことにするのかを話し合うことになるそうだが、ナタリー曰く、預けることを選択する家族の方が圧倒的に多いだろう、ということだった。
だからこうして、一斉に「帰省日」を設けている。
みんなそろって帰れば怖くない、というやつらしい。
いつか瞳の色が抜け落ちてここを去ることになったときには、新しい環境に適応できるまで施設で世話になっていたが、こうして慣れておけば、その必要もなくなるだろう。
花聖院は静かだ。
風が吹く度に、百合の芳香がする。
「……」
マリスは立ち上がった。
ナタリーとカノンが二人でお茶をしているところに、「悪いけど、下にいるわ」と告げて地下の階段を下りていく。
扉は開いていた。
そうして、久しぶりにマリスは完全隔離部屋へと足を踏み入れたのだった。




