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29 五年



 五年。

 マリスは、サイラス会うことも、その名前を口にすることもなかった。五年という年月はあっという間だった、と言いたいが、現実はそうでもない。


 輸血をやめたラーシュはふらりと来るし、昼間にはエリカが時折訪ねてくる。採血をせず、マリスにお菓子を持ってきては二人で庭でお茶をすることもあった。

 トーリもなにも用事がないのに来る。彼はいつも黙って二時間ほど待合室に待機して、そして十二時を過ぎると「それではマリス様、また」と言って消えた。


 

「トーリが一週間前に来たばかりよ」


 マリスが言うと、ティアは「うふふ」と上品に笑った。


「知っています。だから私も会いたくなって」


 微笑まれれば、あっそうなどと適当な言葉を返せなくなる。

 こうして花聖院に来る始祖の血族の吸血鬼はトーリだけでなく、ティアもやってくる。待合室に見慣れない顔がいたと思えば、五年前に初めて来たサイラスが引き連れていた吸血鬼だったりもした。彼らには輸血が必要ないというのに。


 つまり、五年という月日の中でサイラスの関係者に会わない月はなかったのだ。


 ティアに至っては、月に二回こうして顔を会わせている。

 とうとういつの間にか友人となり、マリスも顔を見れば落ち着くようになってしまっていた。


「トーリったら、マリス様と久しぶりに会ったと嬉しそうに自慢するんですもの。友人でもないくせに」

「……嬉しそう?」


 なにもせず番犬のように座っているだけのあのトーリが、なにを嬉しそうに話すというのか。マリスの表情を読んで、ティアは笑う。


「あれはあれで、マリス様のことを大変気に入っているんですよ。私たちを見分けられる人は稀ですから、そういう人に出会えただけでも嬉しくて……私もですけど、あなたのその心遣いも好ましく思っています」

「ふうん? 別になにもしてないけどね」

「ふふ。何を仰います。マリス様のわかりにくい優しさは、よく似ていらっしゃいます」


 誰と、などティアは言わない。

 ここに来る誰もが、サイラスのことを口にしないのだ。

 それは、この来訪がサイラス指示ではないことを暗に示すためだろう。そんな心配などしていない。彼らがどけだけ主を敬愛しているか、マリスはちゃんとわかっている。


 自主的にこうして様子を見に来るのは、きっとマリスにサイラスは「大丈夫」だと、そしてサイラスにマリスは「大丈夫」だと伝えるためなのだ。そう言葉にしなくても、彼らが顔を出し続ける間は、その様子が伝わっているという確信を連れてきてくれた。


 ティアは華やぐように笑う。


「マリス様、私たちはいつもあなたと共にあります」

「……なに急に」

「あなたが一人で寂しくならぬように」

「別に、一人じゃないけど」


 家族ならたくさんいる。

 父も、約束通り院にいる時間が多くなり、姉たちもいる。

 この五年で、二人ほど瞳の青い色が消えて院を去ったが、他は何も変わりはない。


 ティアはゆっくりと首を横に振った。

 夜空のような美しい黒髪が揺れ、どうしてかそれを羨ましく思う。



「あなたは一人になります」



 綺麗に色づいた唇が、さらりと残酷な言葉を口にする。

 隣をちらりと見て、マリスは浅い息を吐いた。


「今日はそれを教えに来たのね」


 マリスの言葉に、彼女は黙って微笑む。ティアは時折、マリスに必要なことを必要なときに教えてくれた。少ない言葉だが、しかしきちんと伝わることがわかっているように、いつも悠然としている。

 それは、サイラスによく似ていた。


「そう……どれくらい?」


 マリスは静かに聞く。

 花聖院の直系の娘である母やナタリーは人とは少し違う。そして、マリスは母と姉とまた違う。休息や睡眠。そしてきっと、人生の長さ。

 ティアが遠くを見るように目を細めた。


「私たちもわかりません。ただ、紫色の瞳の者は、短い命を散らす者と、長い時を生きる者がいると言うことだけは聞いています。両極端ですが、短命の者は二十歳を越えられないそうです」

「じゃあ」

「ええ。あなたは今二十四歳。短命ではないようですね」


 もしかして、とティアを見れば、彼女はどこか悲しげに頷いた。


 マリスがサイラスと再会したのは十九歳の頃。

 彼は、マリスがどちらなのかを見極めていたのだ。


「短命であれば、十九歳の終わりの頃には身体を起こすことも難しい。私がそれを聞いたのもついこの間なのですが、もし、あなたが短命であればきっとあの人はあなたがなんと言おうと、中立のバランスが崩れようと、あなたをここから連れ去って、二人だけで過ごしたかったんでしょう」


 でも、そうじゃないから、とティアは続ける。


「そうじゃないから、たとえあなたと離れても……生きていてくれればいいのだと、そう思っているように私には見えます。いつも、あなたの手紙を手元に置いては撫でている」


 それを見るティアは、きっと無表情ではないのだろう。

 マリスは声をかけることができない。

 自分も、同じように毎日手紙だったバラの花びらの入った瓶に触れている。以前は隠していたが、今はベッドサイドのテーブルの上で月明かりに淡く光っていた。


「マリス様」


 ティアから呼ばれ、マリスは視線を合わせる。

 慈しむようなそれは穏やかだ。


「いつも共におります」


 サイラスが、と言いたいのだろう。

 マリスは笑う。


「ありがとう、と伝えておいて」

 

 そう言えば、ティアは少女のように可愛らしく笑った。

 






 マリスは一人、待合室の中でゆっくりと目を瞑った。

 彼ら吸血鬼は情が深い。

 こうして輸血に来る吸血鬼たちにマリスの存在感を示すため、守るために来ていることに感謝しながら、これからの自分の長くなる人生を、マリスは静かに受け入れた。

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