26 約束と誓い
どんな顔で見ていたのか知る由もないが、マリスはぎこちなく父に顔を向けた。
サイラスがどこか等か引っ張り出した木製に座ったままの父は、立ち上がって話している二人を見上げていた。
ばちっと目が合えば、穏やかにそうっと微笑まれる。
マリスを安心させるような表情であり、誰にも言わないよ、と言っているようにも見えた。まだ、口は出さないよ、と。
「マリス」
意識を戻すようにサイラスに呼ばれ、マリスはちらりとサイラスを見た。
赤い目が輝いている。
「……どうにでもなれるって、どういう意味なの」
若干棒読みのマリスが聞けば、サイラスは笑みを深めた。
「簡単なことだ。今は婚約だけをしよう」
「は?」
「結婚の約束を、二人だけですればいい」
「できない約束はしないし、したくない」
「何を言ってる。そのうち結婚はするぞ」
「……ねえ、そっちこそ何を言っているの? 私はいつか人間と結婚を」
「させない」
「サイラス」
「俺も、マリスも、お互い以外とは結婚しない。そういう約束をとりあえずするんだよ。誰にも言わないまま」
「それに何の意味があるの」
「意味ならある」
自信に満ちて言い切るサイラスを見上げれば、マリスを見て目を細めた。
「いつか、後継に値する者が出てくる。俺の弟たちの誰かが系譜を繋いでくれるだろう。そうしてお互いが役目を果たした後に、一緒になればいい」
その言葉の意味を、マリスはわからないわけではない。
自分たちの役目は全うするが、しかし立場はほかの者に預けてしまえと言っているのだ。
「……ナタリーに押しつけろと?」
「ああ」
「本気で言ってる?」
「本気だ。そもそも、俺はイバラを消す気はない。つまり、君は一生人と結婚はできない」
マリスは手を握りしめる。
その覚悟もあった。
父にもそれを言った覚えがある。
マリス自身が結婚しなければ、面倒なことにはならない、と。
そのときは、ナタリーに立場を背負わせてしまうことになってしまうことも理解した上で、最善だと思ったのだ。けれどそれは、ナタリーの支えになり、一生ここに尽くして生きていくつもりでそう思ったのであって、重責を負わせて自分だけが望んだ暮らしの中でのうのうと生きていくつもりなどなかった。
怒りとは違う、動揺よりももっと苦いものが、マリスの中に広がっていく。
「俺と婚約したとしても、それとも拒否して二度と会わなくなっても……どちらにしても同じだ。君の姉が結婚をして、そうしてここは続いていく」
じっとこちらを見る目は、すでに覚悟ができているように強く、まっすぐだ。
マリスがそれを受け入れようと受け入れまいと、結局はこうなるのだと伝えてくる。
「マリスが悩んでも罪悪感でもがき苦しんでも、俺はイバラを消しはしない。他の男が君に触れるなど、絶対に許さない。そんなことがあれば、俺は躊躇わずに行動にでる。脅しではなく」
冗談でも脅しでもなく、サイラスはやるだろう。
あのイバラの影が、見知らぬ誰かを締め付ける様子が容易に想像できた。
マリスはその燃えるような目から逃げられない。
「どちらにしても結果が同じなら、俺を選べ、マリス」
あまりにも真っ直ぐに、しかし結果など分かりきっているように、サイラスが言う。
「……できない」
マリスが言えば、サイラスはただ静かに笑った。
「それはできないよ、サイラス」
吸血鬼の愛情深さは、叶わなければ死を選ぶのと等しいほどに危ういという。
それは、死を選べるほどに彼らの愛情が深く、そして複雑なのだということを、マリスは初めて思い知った。
「……、たとえ結果が同じだろうと、私はサイラスだけを選べない。会えなくなっても、どうしてもそれだけはできない」
会えなくなる、と口にした途端、心がずしりと重くなった。指先が冷えていく。
それでも、サイラスを選ぶことができなかった。
誰にも言わずに、二人でこっそり結婚の約束をして、役目を全うする振りをしながら、いつか一緒に過ごせる日を待ち続けるなどと言う器用なことはマリスにはできない。
重責を担うナタリーの横で、本当の家族から離れて生きていく姉たちの傍で、どうすればそんなことができると言うのだろう。
「だけど」
ああ、なんて浅ましい、とマリスは思う。
「約束する。私は人と結婚はしない。イバラはこのままでいい」
会えなくなってもいいといいながら、本当は断ち切りたくないのだ。
卑怯で、馬鹿馬鹿しくて、自分が嫌いになりそうだった。
それでも、サイラスに渡せるものがあるのなら渡したかった。
結婚すると言う約束は渡せないが、誰とも結婚しないと言う誓いならば渡せる。
マリスの瞳を見て、サイラスは微笑む。
「わかった」
伸びてきた手が、ぽん、とマリスの頭に乗せられる。
「ありがとう、マリス」
それを言わなければならないのは自分だ、とマリスは思う。
サイラスは、選べないマリスを許したのだ。
傲慢に選択を迫っていたように見えて、そうではない。マリスが選べないことをわかっていて、自らそこへ導いた。
サイラスは最初からそうだった。
無理を言っているように見えて、受け入れられないマリスが仕方なく受け入れる「理由」をいつもくれていた。マリス自身が選択しなくていいように、責任を負わぬように気持ちを伝えてくれていた。
「フィン、マリスを頼む」
それだけ言うと、サイラスはマリスの頭を一際大きく撫でる。
乱れた髪で視界が遮られた直後、その黒い姿はきれいに消えていた。
マリスはぼうっと、サイラスがいた場所を見つめる。
サイラスもう姿を見せることはないだろう。
そんな予感に、視界が滲んだ。




