092
夜の星々を隠し…厚く広がる雨雲と激しく打ち付ける雨、そして煙る景色をハイルヘルン伯爵は、執務室の窓から眺めていた。
「(これだけ強い雨が一晩降り続けると、どれだけ準備が整っていたとしても王都までの日程に狂いがでるだろう。)」
雨垂れに耳を傾け、溜息をつく。
明日ハイルヘルン領から届く予定の荷物は、一旦王都にあるタウンハウスで保管し、後に商人と契約を交わし卸す事になっている。
大量に届く荷物の中には作物も含まれており、ハイルヘルン領の管理人に渡してある魔石を使い、対応はしているものの…中身の具合が心配だ。
雨のせいで傷みが進むのではないか…王都までの日程が長引けば、そのまま交渉が不利になるだろう。
今年のハイルヘルン領は冷害の為、不作だった。
民から納められたものだけでは、到底しのげるものではない。
少しでも資金を得るため、今までの流通経路とは別に、王都での新規契約を決意したというのに…品質が悪いと買い叩かれては、わざわざ領地から運んだ意味がない。
この交渉で得た金額はそのまま国に納める、税金の一部となる予定だからだ。
尽きる事がない悩みを抱え、ハイルヘルン伯爵は頭を抱えていた。
今頭を過ぎるのは…もうひとつの悩みの種である、次男のヴォルビリスのことだった。
ハイルヘルン伯爵には息子が三人いる。
――― 長男で頭が良く、跡取りのビュグロス。
――― 容姿の優れた、次男のヴォルビリス。
――― そして末っ子だが、対応力が抜群に高い三男のブルーエ。
それぞれが違う素質を持ち、ハイルヘルンの領地と伯爵家を盛り立ててくれるはずだった。
その流れを変えてしまったのは、妻のテュリプだ。
三兄弟の中で唯一自分の容姿を受け継いだヴォルビリスだけに、偏った愛情を注いでいた。
「あの子には、伯爵位よりも高貴な身分が相応しいの。ヴォルならば…あの子の容姿ならば、それが可能だわ。」
本来であれば、ヴォルビリスを伯爵家の後継に推したいところだったのだろう。
しかし誰が見ても長男のビュグロスの方が、経営を学び人を見る目がある。
願望を叶えることが難しいと悟ったテュリプは、あらゆる社交の場で高位貴族との縁談を探っていた。
その行動がテュリプに味方したのか…当時、王の処罰という悪名で知れ渡っていた『時限令嬢』との婚約の話が舞い込んできたのだ。
今がどんなに評判が悪くても、うまくいけば侯爵位が手に入る。
今自分が置かれている伯爵夫人としての地位よりも、もっと上…今まで付き合ってきたご婦人達が頭を下げるような、そんな立場から見下してみたい。
ヴォルビリスにはテュリプの願望を叶える為の、力が…美しさがある。
元々容姿に絶対の自信があり気位の高い妻であるテュリプと、幼い頃からその容姿で持て囃されてきたヴォルビリスは、婚約当初から相手を見下した偏見を持っていた。
しかし王命で婚約した以上、途中で破棄することは許されない。
そして悪名を馳せているとはいえ、あの『碧眼翁』の孫なのだ…侮っていいはずがない。
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「お前は、自分の立場がわかっているのか?」
静まり返った執務室で、ハイルヘルン伯爵の低い声が響き渡る。
自ら学園を謹慎させたヴォルビリスへと、厳しい言葉を投げつけた。
今ハイルヘルン伯爵家の執務室には、滅多に揃う事のない家族全員が揃っていた。
机に座っている伯爵に並び、長男のビュグロスと三男のブルーエが。
そして伯爵に向かい合うように、不貞腐れた表情のテュリプと億劫そうなヴォルビリスがいた。
伯爵の言葉に対して反応を見せないヴォルビリスに対し、苛立ちが込み上げるが…通り過ぎれば呆れの感情しかなかった。
白の系譜からの抗議により、ハイルヘルン伯爵は青の系譜の頂点であるノヴァーリス公爵こと『碧眼翁』より呼出しを受けた。
青の系譜からの処分と、白の系譜への謝罪。
そしてマグダリン伯爵からの執拗な要求が迫っている。
正直に言うと…ハイルヘルン伯爵の跡継ぎには長兄のビュグロス、そして補佐に三男のブルーエがいるので、ヴォルビリスが落ちこぼれようと遊び惚けようと問題はない。
しかしテュリプ夫人は自分に一番似たヴォルビリスへどうにかして、権力を持たせたくてしょうがないのだ。
「あの子に恥をかかせるなんて!ヴォルへ女性が言い寄ることなど、あの容姿を持ってすれば当然の事ではありませんか…それをいちいち騒ぎ立てて。カルネヴァルの小娘が身の程を弁えればよいだけのことを…。幼いからとはいえ、我慢のない!」
普段のテュリプは伯爵家の貴婦人として、社交界では様々な話題もそつなく盛り上げることのできる教養に溢れる人物だと評判だ。
しかしヴォルビリスに関することになると、一気に判断がおかしくなる。
今回の事でさえも婚約者であるカルネヴァル令嬢が、ヴォルビリスに対して正しく対応しなかったのだと主張している。
「貴方…私、ディアンジュ様に会いに行こうかと思います。」
テュリプも元は、ティアンジュと同じ…桃の系譜。
更に言えば、互いに未婚の時にはその容姿において社交界で注目され…愛らしい仕草で慕ってくるディアンジュを、テュリプは可愛がっていたのだ。
そんなテュリプからの話となれば、現在侯爵夫人となっているディアンジュでも受け入れるだろう。
しかし先日の碧眼翁からの呼び出しでは、感情は抑えているものの…なにか隠し切れない不気味さを感じる。
かつて古くから爵位を賜り長く続いた貴族が、碧眼翁の不興をかい衰退もしくは没落していっているのを目の当たりにしている。
ハイルヘルン伯爵は、自領の突然の不作やこの時期に限った大雨が頭をよぎり…身震いをする。
「…やめておきなさい。」
妻であるテュリプには説明しても、理解できないだろう。
碧眼翁をただ知っているだけの者と、実際にその恐怖を感じた者とでは考え方が全く違うのだ。
「…母上。いくらヴォルが可愛いからと言って、ロンサール候もカルネヴァル令嬢も侯爵の身分。碧眼翁からのお叱りもありますので、ここは大人しく自重するべきです。」
父親の悩みを察して、長男のビュグロスがさり気なく手助けするべく口を挟んだ。
「ビュグロス!貴方に言われなくても…私は、ハイルヘルンの為に申しているのです!」
それは…おおよそ親子の会話では感じられない、敵対心による反撃だった。
テュリプにとって、ヴォルビリスを差し置いて後継者になったビュグロスは「息子」ではなく「敵」なのだ。
言葉の届かない母親にビュグロスはたじろぎ、自分の意見を飲み込んだ。
そんな息子を見て不憫に思ったハイルヘルン伯爵は、ビュグロスへ軽く手を上げ後は自分に任せるようにと視線を交わす。
「カルネヴァル侯爵家は、今でもなにかと問題が多い。近頃は侯爵夫人も体調が思わしくなく、籠っておいでだそうだ。今慌てて動くのは得策ではないだろう。」
感情を高ぶらせているテュリプの為に、言葉を選び宥めるように説明をする。
「でも…でも、あんまりです!ヴォルが何をしたと言うのですか…。そうだ、せめてお加減の悪いディアンジュ様のお見舞いという名目で…。」
「いい加減にしなさいっ!」
聞き分けなく自分の考えを話し続けるテュリプに対して、ハイルヘルン伯爵は声を荒げた。
…降り続く雨のせいか、それとも問題を抱えているせいか、頭痛がひどくなっていく。
「とにかく、それはない。この件に関して、口を挟むことは許さない…わかったな!」
テュリプは怯えた様子を見せたが、その視線の強さは変わらない。
きっと自分に隠れてカルネヴァル侯爵夫人へと接触を図るか、実家を経由しつつあの手この手を使いヴォルビリスを庇うのだろう。
ハイルヘルン伯爵は、ふとヴォルビリスへ視線を移す。
護られることが当然とした姿で、動じもせず…まるで他人の事のように無関心な瞳だ。
「ヴォルビリス…お前が考えもせずに動いた出来事で、このようなことになっておるのだ。理解はしているのだな?」
伯爵の声掛けにちらりと視線を動かすも、変わらず関心が薄いように見えるヴォルビリスは返事もせずに小さくうなずくだけだった。
「そもそもお前自身、加護は発現したのか?シエール令嬢にばかり、苦言を寄せているようだが…本来ならお前の方が年が上な分、もう発現していてもおかしくないはずだが?」
「あなた、それは個人差のあるもの。そんなことでヴォルビリスを責めないでくださいまし!」
過剰に反応したテュリプは、隣に立つヴォルビリスの手を引き自身の後ろへと下がらせる。
ハイルヘルン伯爵はそのことを深く掘り下げるつもりもなかったようで、テュリプの反応に呆れながら言葉を続けた。
「せっかくフュテュール・ジヴロンへ入学できたのだ。せめて有益な進路を確保できるよう学んでほしいのだが…このありさまでは。」
言葉が途切れ、再び持ち上がる問題に頭を悩ませる…ハイルヘルン伯爵は、家族に言い出せないでいた。
今回の出来事でマグダリン伯爵家から、応じがたい要求が来ている。
『王命である婚姻が果たされなかった時には、我が娘オーティの名誉を護る為にも、貴殿の令息であるヴォルビリス殿を婿として迎え入れる…もしくは、それに相応しい対応を希望する。』
白の系譜、マグダリン伯爵といえば…金に執着する抜け目のない男だと、貴族の中でも有名な話だ。
たしか系譜内での地位を確かなものにするために、自分の娘をロンサール候の愛妾にし…ゆくゆくは後妻を狙っているという噂だったが。
今回の騒動でその道が閉ざされたため、新たな金蔓が必要というわけか。
それも現在のヴォルビリスの婚約者は碧眼公の孫…王命もあり、表立っては動けない。
青の系譜、白の系譜…共に旗色が悪いというのに、この婚約を揺るがす要求をしてくるとは。
ヴォルビリスの将来に見える利益を欲するのか、もしくは娘の名誉を担保に相応の金銭を要求しているのか。
「とにかく、お前の考えのなさにはうんざりだ。私が良いというまで、部屋で反省をするように。」
そういうとヴォルビリスを払うように手を振り、執務室より追い出した。
ヴォルビリスが後ろ手に扉を閉めると、母親であるテュリプが抱きしめてくる。
「ヴォル…母が、貴方を護ります。少しの間窮屈でしょうが、大人しくしていなさい。」
そういうとヴォルビリスの頬へそっと手を添え、微笑んだ。
侍女に連れられ離れていく母親を見送ると、踵を返し自室へと戻る。
白い壁の廊下は雨雲により、青黒く影を落としていた。
目の前が収縮していくように、身の内にある感情がぐるぐると渦を巻く。
――― いつも物事が上手くいかない時には、あいつがいた。
今回だけじゃない、自分が思い描いた結果にはいつも届かない。
その視線の先にはいつも…あの澄ました顔が、俺を見下している。
「婚約者…シエール=カルネヴァル。」
行動だけではない、欲しい称号、欲しい人材、信頼に至るまで…全てにおいてあの女の方が優れ、自分には手に入れることが出来ない。
女性だというのに顔に醜い傷があり、評判においては『時限令嬢』とも揶揄されているというのに…何故。
年齢も下のあの女に、なぜこうも掻きまわされるのか?
考えれば考える程、深みにはまり抜け出せない感覚に襲われる。
「(俺が手に入れているモノは、あの女に劣っている…俺の所有するモノは、全て偽物か?)」
頭に浮かぶのはあの女の呆れた顔、そしてあの女に追従する侍女、執事、学園の生徒達。
そして自分の元を去り恨めしい表情を残したプリムヴェールと、一途に思いを押し付け厄介ごとを引き起こし縋るオーティ。
ヴォルビリスの頭の中では、その全ての人物が自分を非難していた。
妬ましい…それほどまでに、人々の心を掌握しているあの女が妬ましくて仕方がない。
目の前に火花が飛ぶかのように、思考が巡る。
ギリギリと奥歯を噛みしめ、腹の底からあの女への黒い感情が浮かび上がってくる。
極限まで感情が高ぶり、視界がチカチカと揺れ動く。
気分の悪さを感じ身体をふらつかせると、足元からぶわりと生暖かく込み上げるものを感じた。
「…そうか、これが…この気持ち悪い感情が…加護なのか。」
ヴォルビリスは俯き、苦々しい気持ちを飲み込みながら…体を震わせ喉の奥で小さな声を立て笑っていた。




