084
今日の『夜の部屋』は、静かな黒い森。
星のない闇夜に青白く丸い大きな月が、貼り付いたように浮かんでいた。
息を潜めるよう静まり返った森は、時折…思い出したかのように、木々を揺らす。
その渇いた葉の擦れる音は耳元で囁くかのように、訪れる者達に安らぎを与えていた。
数歩進むと黒一色だった木々が薄まり、濃紺の空が開けてきた。
そこには月に向かい大きく口を開き、暖かい光に包まれた白い天幕が張ってあった。
広い天幕の中には至る所に、凝った装飾の白い椅子と変わった形のランプ、そして鏡が立てかけられていた。
「ああ、ご苦労だったカーシス。」
待ち人を迎えるために、ロンサール候が天幕の入り口まで駆け寄ってきた。
シャントリエリ辺境伯の子息であるカーシスと並び立つ姿は、対の神々しい彫刻のようであった。
白い姿をした長身で逞しく、神秘的で美しい容姿をしたロンサール候と…しなやかな獣のように隙を見せず、焦がれる者の探求心を掻き立てる魅力を持つカーシス。
二人は言葉もなく頷き、すれ違うと、カーシスは天幕の中の椅子へ…そしてロンサール候はシエールとグルドゥの元までやってきた。
「二人とも待っていたよ。今日都合が合う者だけ来てもらったんだが…。元々七名しか所属していないので、少なくてすまない。」
天幕の中には、カーシスの他に二人いた。
一人は手前でお茶の準備をしている女性。
甘いキャラメルのような髪の毛を耳にかけ、オレンジの花の髪飾りを添えている。
ふわふわと柔らかそうな髪の毛に相まって、髪飾りが砂糖菓子のようで美味しそうだ。
流れるような所作で、お茶を準備する姿を眺めていると、ふと目が合い微笑みを返してくる。
とても品の良い仕草に、まともな教育を受けた貴族の令嬢であることが想像できる。
もう一人は奥の椅子に腰かけている。
先程まで一緒だったカーシスが隣の椅子に腰かけている様子を見ると…親しい間柄なのかもしれない。
両膝に肘をつき、手袋に包まれた手を組み力を込めて握り締めている。
前のめりに体を倒した姿勢で、前髪の隙間からこちらを伺っているようだった。
学園内で手袋をしている者は珍しい…しかし、そんな印象的な部分を持っているというのにシエールはこの生徒の顔をいっこうに覚えることができなかった。
なにか気持ちの悪い違和感を感じつつ、気がつけばグルドゥと共に中央の椅子へと案内されていた。
「まずはこれを渡しておこう。」
ロンサール候がトレイに乗せ、出してきたものは六つの星が輪になって連なるデザインが美しいジャボットピンタイプのピンブローチだった。
浅い知識ながらに、シエールは疑問に思ったことを口に出す。
「…確か、コミュニティの紋章はワッペンだったはず。なぜこれはピンブローチなのですか?」
シエールが発した問いに、ロンサール候が少し微笑んで答えてくれた。
「私達のコミュニティは少し特殊でね…学園から与えられる『エトワール』を持つ者、その他にも優秀な人材が集まることから学園より公認を受けている。…つまりこの『六つの星』の紋章を持つということは『エトワール』を持つことと同等の意味を持つ。」
シエールは、少し身構える。
時限令嬢と呼ばれ、貴族より疎まれている自分が目立つことは…なるべく避けるべきだ。
そうすることで自分の周囲にいる、リジアンやリューンそしてエタンセルを護ることができる。
しかしまたシエールの中で、なにを犠牲にしてもリューンの噂を払拭すると決意もしている。
自分の中の葛藤に、動揺が瞳に表れ、波のように揺れ動く。
そんなシエールを察してか、ロンサール候は話を続けた。
「グルドゥはいいとして、シエール嬢に関しては複雑な思いがあるだろう。だが、今回貴女がここに入った目的を考え…できれば着けてもらいたい。」
ロンサール候はシエールの目を見て、言葉を放つ。
その視線には、信じてほしいという強い願いが込められていた。
シエールは小さく頭を振り、迷いを祓った。
何を戸惑っていたのだろう…リューンの名誉の為になんでもすると決めたはずなのに。
渡されたピンブローチに視線を落とし、自分の手の中で見つめていた。
造りは高価なもので、アクセサリーとしても十分に通用するだろう代物だった。
ぎゅっと握り締め両手で包むと、心の中で祈り…襟元へと着けた。
少し離れた位置にある、ピンブローチを付けた自分が映る鏡があった。
いつもより少しだけ、大人な顔立ちの自分に見えた。
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「さて、これで二人とも正式な所属となった。明日からでも、シエール嬢…貴女の憂いを払拭するべく行動を起こすとしよう。」
ロンサール候は椅子から立ち上がると、奥にいたカーシスへ顔を向け声をかけた。
「カーシス!明日の午後の授業の前に、リューン=サンフレア嬢のところへ会いに行く。お前も一緒に来てくれ。」
それまでロンサール候の言葉に耳を傾け、静かに椅子に収まっていたカーシスが口を開く。
「………断る。」
間髪入れずに断りを告げるカーシスを、ロンサール候は睨みつける。
カーシスはその視線に、溜息をつきながら理由を話し出した。
「相手が女性ならば、私が行けば怯えてしまう。一人で行くのが嫌ならば、レオニダスを連れて行けばいいだろう?」
そういうとキャラメル色の髪の毛の令嬢へと、視線を送る。
急に名前が挙がった令嬢は、少しだけ頬を膨らませた。
「ミリュークラスの私が…いくら同じコミュニティだとしても、ロンサール候と一緒に尋ねては不自然です。」
「まあ…たしかに、アモワーズ嬢を連れてアヴァンセを歩くのは可哀そうだ。」
そういうとロンサール候はもう一人の男性の方へと視線を向けるが、相手の男性が顔を上げる気配がないとわかり溜息をつく。
「頼む、カーシス。…あの白鳥王子と同じように女好きだと思われることだけは、耐えられそうにない。」
この会話はシエールにも理解ができた。
ロンサール候が言う『あの白鳥王子』とは、ヴォルビリスのことだろう。
幼い頃の二つ名が『陽光の中の白鳥』であったことでも有名だが、ヴォルビリスは成長してからも美しい容姿に磨きがかかっていた。
学園に入って知ったことだが、ヴォルビリスを慕う者達で『湖のほとりで白鳥を愛でる会』というコミュニティがあるほどだ。
想像するに、ロンサール候はヴォルビリスのように女性を複数周りに置き、言葉遊びを楽しむような人物に見られたくないと言いたいのだろう。
「あっ、いや…貴女の婚約者であることを失念していた、申し訳ない。」
親しさから見える軽口は、日頃から話題にのぼる頻度が高いと想像できる。
それほどシエールの婚約者であるヴォルビリスは、学園の中でも悪い意味で注目の人物のようだった。
普段関わることのない婚約者の、学園での評判にシエールは頭が痛くなる思いだ。
「お気になさらないでください。私もあの白鳥王子と婚約を結んでいるということが、恥ずかしくて仕方がありませんもの。」
そう言うと、キャラメル色の髪の毛を持つ女性からカップを受け取りゆっくりと口へと運ぶ。
シエールは努めて普段と変わらない様子で、お茶をいただいた。
少しだけ呆気にとられていたロンサール候だったが、嬉しそうにシエールをのぞき込むと顎に手の口を添え肘をつく。
「私達は気が合いそうだ。私はこの件に、全力で当たると誓おう。そして満足いく結果をだせたなら、貴女に一つ叶えて欲しいお願いがあるのだが…いいだろうか?決して難しい事を言うつもりはないよ。」
ロンサール候の言葉に、シエールは不安を覚えた。
何でも手に入れられ不自由のない侯爵が叶えて欲しいお願い…その内容がわからないまま、了承することに対する不安だった。
ふとシエールの椅子の手すりに、グルドゥが手をかけてきた。
シエールがそっと見上げると、その表情は穏やかに見守っているようだった。
そのグルドゥの視線が、天幕の内側へと移動する。
シエールもつられて振り返ると、そこにはロンサール候やカーシス達の優しい視線が注がれていた。
「お引き受けいたします。」
シエールは手に持ったカップをグルドゥへ渡すと、椅子から立ち上がりこの場の全員に対して綺麗に礼を取ったのだった。




