077
「お顔の色が優れませんわ、シエール様。…眠れているのですか?」
エタンセルの心配で、自分がまた思考の渦に捕らわれていることを知った。
心ここに非ず…話し掛けられたことで、シエールは自分が学園に来ていることを思い出したのだ。
「ごめんなさい、なんでもないの。」
特別待遇生であるシエールは、頻繁に学園へ通う必要はない。
それでも日を空けずに、こうして学園へ足を運んだのは…その後の噂と、今後の対応に必要な情報を収集するためだった。
髪の毛が短くなったシエールを見て、ひそひそと囁く者の姿は多くみられた。
だから…なんだというのだろう。
シエールは今の短さも気に入っているし、こんなことは以前からずっと同じように起きていたことだ。
ただ今までのシエールならば、視界にも入ってこなかったはずの姿がチラチラと目の前をかすめる。
通り過ぎたあとのシエールの背中にこう言葉を投げかけているのだろう…「愚かな令嬢」だと。
エタンセルは心配そうに、シエールの顔を覗き込んでいた。
なにやら袋から取り出すと、ぎゅっと握り締める。
「差し出がましいと思いましたが、よろしければ…これを。」
出されたものを受け取る為に、何も考えずに手を伸ばしてしまった。
睡眠が足りていないこともあり、まとまらない思考が更に鈍っているのかもしれない。
少し悲しそうにしているエタンセルから渡された物…どうしていいか判断できずに、エタンセルを見つめると「どうぞ」と後押しされるように手を差し出された。
促されるまま、シエールはその袋を開いてみることにした。
手触りの良い毛足のある布で作られた小さな青い袋の紐を、そっと引いて解く。
袋の口を開いて掌へと出してみると、小さな金属が触れ合うシャラシャラとした軽い音と共に転がり出た。
「これは…。エタンセルの眼鏡についている物と、似ているようだけど?」
――― 銀色の薔薇の花びらに、吸い込まれそうなほど透明の雫がひとつ。
少しの驚きを乗せて、シエールはエタンセルへと視線を戻す。
彼女は何かに耐える様に、シエール動向を伺っていた。
シエールはエタンセルの表情を見て、胸が締め付けられるような気持ちになった。
シエールの掌に乗る小さな金属は、アクセサリに加工した魔石だった。
きっと彼女は、シエールが魔石を見てどのような反応が返ってくるか不安だったのだろう。
「シエール様は以前、私の眼鏡についている魔石を『羨ましい』とおっしゃっていましたので…。今回のようなことがあった時にこそ必要かと、勝手ながら作らせていただきました。」
「あの…妖魔アルプの?」
たしかエタンセルを心配したご両親がお守りになるようにと、存在を薄くする効果を乗せて持たせてくれたという。
改めて掌の中を見る。
薔薇に滴る雫を覗くと、吸い込まれるほどの透明さの中に、生命力溢れるシエールの姿を写し出していた。
「ありがとう!あの、お支払いを…。」
思いもしない突然の贈り物に、シエールは慌てていた。
他人から受ける親切に慣れていないシエールは、焦りを隠しきれない様子でエタンセルへと金額を訪ねようとした。
「いえ…これは私がシエール様を思い、勝手にしたことですから。」
エタンセルは頭を振り、シエールの申し出を断った。
「ダメよ、こんな高価なものを…。それにエタンセルも商人の娘なのだから、こんなことをしてはいけないわ。」
貴族として育ったシエールと、商人の娘として育ったエタンセルは金銭に関する考え方も違うはずだ。
商人の娘である以上、対価なく価値あるものを渡してはいけない。
シエールに窘められたエタンセルは、それでも頭を振り金銭の支払いを拒んだ。
「お父様はいつもおっしゃいます。良い商人は、惚れ込んだものには金銭を惜しまないと…私、シエール様が大好きなので。」
エタンセルの飾らない好意に、シエールは驚き動きを止めた。
親切にも慣れていないが、真っすぐに向けられる好意も…どう対応していいかわからない。
とまどっていると、エタンセルは続けて話しかけてきた。
「それにこれはシエール様に使っていただかなくては。シエール様が身に着けてらっしゃるヴェールに飾れるようにと、作りましたので。」
エタンセルはシエールの掌から、魔石を摘まむと右目近くのヴェールの端へと着けてくれた。
ヴェールが重さで引っ張られるのではないかと心配をしたが、魔石は重さを感じなかった。
…こんなことで存在が薄れるなんで、不思議な話だ。
周囲にいた人たちへと視線を送ると、先程まではシエールから隠れる様に視線をそらし囁いていたが、今は互いに何気ない身内の会話で盛り上がっているようだ。
誰もシエールを気にしていないし、煙たがられたり、悪意を含んだりする視線を感じない。
「…すごい。すごい効果なのね。」
「明確にシエール様を探している者には効きませんが、通りすがりに目に入る程度の者には存在が薄くなって感じられます。」
誰もシエールを気にかけることはないし、なにより他人の視線を気にしなくて済む。
今までも気にしていないつもりではいたが、これほどまでに清々しいものだとは。
シエールはエタンセルの手を取り、両手で握ると…か細い声で一生懸命に伝える。
「…あの、ありがとう。とても嬉しい。」
自分の胸の内はこんな言葉では収まらないほどなのに、出てくる言葉はたどたどしい。
しかしシエールにとっては精一杯の言葉だった。
その様子を見て、エタンセルは少しだけ頬を染めシエールの手を握り返す。
「シエール様に喜んでいただけて、私も嬉しいです。」
エタンセルの表情からは、シエールが喜んでいること、シエールの役に立てたことが純粋に嬉しいと感じ取れる。
シエールはこの感謝を金銭ではなく、エタンセルへの誠実さで返していこうと決めたのだった。




