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目に見えないものに喉元を掴まれているという感覚を、味わうのは初めてだった。
息苦しさと同時に、四肢の自由を奪われる…普段はどうやって動いていたのかさえ、思い出せないでいた。
小さく呼吸を繰り返し、やっとの思いで声の主へと視線を向けると…その相貌は非常に平坦で冷ややかなものだった。
もっと怪物のように醜い表情で、もっと獣のように荒々しい体躯であるかのような人物…達人であるかのような者が放つ気に当てられ、今も呼吸がままならない。
整えられた長めの前髪に細身の体に不釣り合いな長身、年齢は誰よりも上であろうその人物からは、誰にも有無を言わせないという気が滲み出ていた。
現に今…最後の言葉以降の二の句が継げないでいる。
「リジアン…待って。話を聞きましょう?」
シエールが声をかけるとリジアンは片眉を上げ、いけ好かない者へ向け鼻に皺を寄せた。
ふざけた事を口にしたまま帰す気など、毛頭ない。
何故自分が引かねばならないのか、主従の関係である幼い令嬢の窘めも、耳に入れたくない様子だ。
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「お、お待ちください!」
突然…それまで誰よりも項垂れていたアスフォデルが、目を見開きこちらを見つめている。
「やはり…やはりだ、貴方がいらっしゃるのではないかと。この度は私のせいでとんでもないことになり、申し開きもありません。一度ならずも、また私は間違える。私はどのように償えば良いでしょうか?ずっと、ずっと謝罪をする機会を待ち望んでおりました、ヴィリディ伯爵。」
他の事は目に入らず、一心不乱にリジアンの元へと自身の足を絡ませながら辿り着くと…アスフォデルは一筋の涙を流し、膝をついた。
同僚となってから一度もそのような姿を見たことがなかったヴァーグは、目の前のことが信じられないとばかりに目を瞬かせ、自分の額に手を当てた。
誰もが言葉を探し、躊躇い続けていた。
疑問ばかりが頭に浮かんでくる。
グルドゥの言葉よりも、アスフォデルの行動よりも、どうしても知りたかった疑問に突き動かされシエールは振り返った。
「リジアン…貴方、現伯なの?」
この結論に、同じように控えていたリューンも驚きを隠せない。
リューンもまた、リジアンが貴族だとは聞かされていなかった…ましてや現在も伯爵として、領地を治めているなんて。
カルネヴァル侯爵邸の客間は、突然沸き起こった問題を起点とし困惑を極めていた。
――― グルドゥの求婚。
――― アスフォデルの謝罪。
――― リジアンの正体。
どれから手をつけていいのか、検討もつかない。
最初に動いたのは、リジアンだった…大きく溜息をつくと、シエールが座るソファの隣へと腰かける。
優雅な姿勢で自ら紅茶を淹れ、口へと運んだ。
その場に捨て置かれたアスフォデルや、周囲の者たちは何も声を発せられないままその姿を見つめている。
「結果がそうだというだけです。我が伯爵家は優秀な者が多い、不在の間は弟が代わりを務めております。どうせなら爵位も代わってほしいのですが、どんな仕事でも引き受けてくれるというのに、それだけは嫌だと撥ねつけられるのです。そして私がここにいる理由は…そのうちお話しますが、その前に。」
手に持っていたカップを受け皿に戻し、視線を隣へと流す。
未だ床に膝をついているアスフォデルへ向かい、リジアンは厳しさをのせて口を開いた。
「ドストラリ君。私は君がもう少し、考える力がある者だと思っていましたよ?」
名前を呼ばれたアスフォデルは我に返り、リジアンの方へと身体を向け膝立ちのまま頭を下げる。
「も、申し訳ありません…爵位を伏せていらっしゃるとは、夢にも思っておりませんでしたので。」
リジアンは手に持った紅茶へと視線を移し、その心を落ち着かせるように揺れる赤い色合いと立ち昇る香りに過去の自分を追想していた。
液体に映る自分は、その昔アスフォデルと共に過ごした時期よりも老いを感じとれる。
自分の感情や思考とは別のところで、確実に年月は過ぎ去っているのだ。
あの全身から立ち昇る憎悪や後悔、そして拒絶もまた…薄れることはなく今も寸分違わぬほどこの身に焼き付いているというのに、遠い…頭の中にある記憶でしかないのだ。
隣で膝立ちをしている若者…この者も過去の自分の被害者であり、今も囚われている。
解放して導くのもまた、先行く者の役目なのだろう…それが救いとなるのならばなおさらだ。
「少し考えれば思い至ったはずですが?お嬢様は貴方に、私の名前を告げなかったはずです。そして私の格好と、控えている位置…何か事情や背景がある、と考えるのが普通でしょう。」
「…返す、言葉もありません。」
項垂れる首と一緒に、柔らかそうに見えるオレンジに近いブラウンの髪の毛がアスフォデルの顔を隠していく。
「私にも、非はあります…過去から逃げ出そうと、すべての接触から身を隠したのですから。きっと貴方は消化しきれない罪悪感を抱えたまま、日々を過ごしてきたのでしょう。それがどれほど憂鬱なことであるかは、想像するにたやすい。もう少し早く貴方と話すべきだったと…今ではそう思っています。まあ貴方との過去の話は、私達の個人的なものになりますからのちほどゆっくりと…それよりも。」
リジアンは紅茶をテーブルに置き、アスフォデルへ向かって綺麗な笑顔を向ける。
その笑顔は表面上で、とても友好的には感じられない。
言葉が途切れ不安に思うアスフォデルは、顔を上げリジアンよりもたらされる次の言葉を息を飲んで待つ。
「…貴方は本日、お嬢様へ謝罪に訪れたのではないのですか?」
その場にいた者皆が、言葉を失くしシエールへと振り返る。
あまりにもシエールの態度が普通過ぎて、肝心な要件を失念していることに三人は自身の不甲斐なさに身を小さくし居たたまれなくなっていた。




