026
シエールはその晩、窓際から夜空に浮かぶ月を見ていた。
深い紺碧の中に靄を纏って浮かぶ、綺麗な円を描く月…まるで今日会ったあの女の子の髪の毛のようだ。
きっと彼女の髪の毛は、柔らかく輝く月の光のカーテンのように流れるのだろう。
今日会ったことを思い浮かべ、ぎゅっと目を閉じる。
夕食が終わり、つい先程まで…シエールは自分の想いをリジアンへと伝えた。
リジアンの返事は決して良いものではなかったが、シエールの譲れない気持ちは届いたはずだ。
「…うまくやれるはずよ、シエール。」
自分自身へ、励ますように言葉を紡ぐとシエールはベッドへ横になる。
微睡みの中で、あの女の子のことを思い出す。
「そうか…リューンか。」
彼女の名前は月、そしてそれを主とする女神の名前だった。
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午後になると、シエールは日差しを避けボンネットに頭を包み、昨日の場所でリューンが来るのを待っていた。
こんな早くに来るはずがないけれど、それでもすれ違いにならないように…シエールは待ちきれない気持ちで一杯だった。
リジアンは早すぎると反対したが、シエールはそれを聞かずに一人立って遠くを見つめている。
その後ろに立ち持っていた懐中時計を見て、空に茜が差すのにまだまだ時間があることにリジアンは辟易しているようだった。
「お嬢様、私は良い事だとは思いません。ただでさえお嬢様のお立場は…危ういのです。」
リジアンは昨日さんざん話し合っていた時に、繰り返した言葉を口に出す。
シエールはリジアンへ、返事をかえさなかった。
少しすると、昨日の木の陰から大きな帽子が見えた。
こちらを伺い様子を見ているようだが、たしかに昨日のリューンと同じ格好だ。
シエールが動き出そうと身体が傾いたのを、リジアンが肩へ手を置き制止する。
向こうはその様子を見て、こちらを警戒しているようだった。
そうしていると、リューンの方でなにやら動きがあった。
リューンの後ろにいた大人が、リューンの制止を振り切ってこちらへと歩いてくる。
その姿は長いスカートをなびかせた、少し年のいった大人の女性だった。
「お初にお目にかかります。私はこの先の城下で孤児院の院長をしている者でございます。まさか、貴方がこちらにいらっしゃるとは。私は貴方が何者なのかを存じております。その昔…私がまだ修道女だった時、さる高貴な身分の女性から、貴方のに対する胸の内を繰り返しお話いただいておりました。」
そう言ってリジアンの前で両手を組み、祈るように膝をついた。
リジアンは目を細め、重い頭を支える様に手を当てた。
「そうですか…あの方を。私は現在、カルネヴァル侯爵家の執事です。私の事はリジアンとお呼び下さい。」
そう言うとリジアンは女性に、顔を上げる様に促す。
「院長先生!大丈夫?」
リューンはその女性の元へ駆け寄ると、リジアンを帽子の鍔の隙間から睨み上げた。
そして院長先生と呼ばれた女性は、シエールへと身体を向けなおす。
その瞳からは悲しい、自責の念が込められていた。
シエールはそんな視線を受けたことがない、顔には出さないが内心戸惑っていた。
「足を運んでいただき、ありがとうございます。」
シエールがちょこんとスカートをつまみ、挨拶をする。
「畏れ多いことでございます。このようなお手間をとらせてしまい、申し訳ありません。」
院長は深々と、シエールに向かって頭を下げた。
「さっそくで申し訳ありませんが、この子を…リューンをこちらで匿っていただけませんでしょうか。侯爵家が身元を明らかに出来ない者を、簡単に引き入れるわけにはいかないことはわかっております。ですがこの子は数奇な運命に振り回され、このまま私の元へいれば、連れ去られ、売り払われるかもわかりません。」
リューンはその内容に驚いて、院長のスカートを思い切り引っ張った。
「ちょっと待って…先生、話が違う!私はこの子の…。」
院長はリューンの頭を自分の方へ引き寄せ、大きく頭を振る。
「違わないわ。私は貴女から話を聞いて、この話をする為にここにいるのだから。」
もう一度院長は、リジアンとシエールを見つめて懇願する。
「どうか、どうかお願いいたします。この子には加護があります。先日この子は私達の役に立とうと、人前で加護を使ったのです。この子の見た目の美しさと、加護を持つという特殊さ…きっとそのうち噂は広まり、したたかな者共が手を伸ばしてくるに違いありません。その前にどうか、この子を安全な場所へ置いていただけませんか?」
シエールには想像することが難しかった…たしかにリューンは孤児院にいるには見た目が美しすぎる。
その上加護を持つというだけで、そんなに危険なものなのだろうか?
「それは確かに、そのまま暮らすのは危険でしょう。しかし、こちらへ置くと言うのも…。」
リジアンが考えながらも良い返事を出さないことに、シエールはひらめいたことを口にする。
「秘密の部屋にいてもらうのは、どうかしら?」
その言葉にリジアンの思い切り冷めた視線が下りてくる。
「猫を飼うのとはわけが違います…閉じ込めて、その先どうするのです?考えても見なさい、一か所に王の反感を買った人物が二人も集まるのです。それがリスクでなくて何だと言うのです。」
リジアンにこんなにも冷たく、そしてきっぱりと突き放されたことはなかった。
自分の考えが浅かったことに、申し訳なさを感じる。
シエールとリジアンは同じ鎖で繋がれ、底の見えない暗闇の中で綱を渡っている同志だ…それをシエール自ら、飛び降りようとする事と同じだ。
「私がっ!」
リューンが大きく声を上げる。
「私が迂闊でした。私がどうにかなるのはしょうがない…でも、こんなことで孤児院や院長先生へ迷惑をかけたくはありません。なんでもします、孤児院に迷惑がかからないようこちらへ置いていただけませんか?」
リジアンは黙ってリューンの言葉を聞いていた。
「…他の貴族へは、当てはないのですか?」
院長は黙ったまま頭を振り、ぽつぽつと話す。
「私共が貴族様の元へ出向いたとして…お金の無心に来たと思われ、門前払いをくらうだけです。そうでない場合は好色な貴族の妾へと、リューンを差し出すことになります。」
院長は震えながら、両手を握りしめたまま辛い表情で俯く。
「私達が慈善的な気持ちで、この子を引き取るとは思っていないでしょう?」
リジアンは院長がわかっているはずだと、言葉にして確認をする。
「ええ。しかし私には、お金はありませんが差し出せる物があります。それでなんとかお願いできませんでしょうか…。」
とうとう院長は目を閉じ、祈るような恰好で返事を待った。
その姿は、差し出せる物を問われることを恐れているようにも見えた。
「リジアン…私は今、余所見をしている場合ではないことはわかっているわ。でもこれは違う、今ここで目を閉じてしまえばあの王陛下と同じになってしまう。最初は自分と同じような境遇にあるリューンをどうにか助けられないかと思ってた。ここへ来て味方になってくれないかとも。でもそれが私達にとってどれだけ危険かをわかっていなかった…自分勝手な行動だと反省もしたわ。でもどうしても、リューンがこのままでいいとは思えないの!」
シエールはリジアンへ自分の想いが伝わるよう、必死に訴えかけた。
しかしその訴えを乗せた声は、風とともにリジアンを通り抜け、広い空へと舞い上がっていった。




