菓子先輩のおいしいレシピ⑩
キーマカレーとナンを盛り付けて、二人分のプレートを居間に運ぶ。どうせならおばあちゃんにも食べて欲しかった。
居間では、菓子先輩とおばあちゃんが神妙に正座して待っていた。
「あ、あの……、そんなにかしこまらなくても」
「ああ、うん……。なんだか緊張してしまって」
「ばあちゃんもなんだか、ドキドキしてしまってねえ」
二人にも私の緊張とドキドキが移ってしまったのだろうか。プレートを置くときに手が震えてしまった。
「あとこれは、仏壇に」
おばあちゃんに借りた仏様用の食器。菓子先輩のお母さんにも食べて欲しくて、見守っていて欲しくて、仏壇にもキーマカレーを供えた。
「仏様にカレーって、おかしかったでしょうか」
「いいんじゃないかしら。お母さんもおじいちゃんも、喜んでると思うわ。それにインドだったらカレーをお供えするのも普通のことなんじゃないかしら、きっと」
インドの仏様事情は私には分からないが、日本の仏様も今日は大目に見てくれるはず。たぶん。
「じゃあ、いただきます」
「ばあちゃんもいただくねえ」
まずはおばあちゃんがキーマカレーをナンにつけてひとくち。
「ん……!?」
口に入れた瞬間固まってしまって動かないので、あわててコップに入れた水を差しだした。
「お、おばあちゃん、大丈夫ですか!?」
のどに詰まってしまったと思って焦ったのだが、おばあちゃんはゆっくり飲みこんだあと、目を赤くしていた。
「これは、これは、娘の味だねえ……。甘さも、まろやかさも、おんなじだよ……」
かしゃん。
プレートにスプーンが落ちる音がする。菓子先輩がスプーンを落とした姿勢のまま、驚いた顔でおばあちゃんを見ていた。
「あ、ご、ごめんなさい。びっくりしてしまって……。私も、いただかないと……」
菓子先輩がごはんとキーマカレーをスプーンによそって、口に運ぼうとする。でも、直前で手が震えてしまってうまくいかない。
「あ、あら? どうしてかしら……。なんだかすごく、こわくなっちゃって。もし、これでダメだったらと思うと、わたし」
菓子先輩の全身が、小刻みに震えていた。
「ごめんなさい、せっかくこむぎちゃんが作ってくれたのに、何してるのかしら。ダメね……」
「……いいんです、ダメでもっ」
「こむぎちゃん?」
気が付くと私は菓子先輩の細い肩に、腕に、しがみついていた。
「ずっと菓子先輩が治らなくてもっ、私がずっとずっと、菓子先輩の料理を味見しますっ……! ずっとそばにいるし、離れたりしませんっ! 菓子先輩よりも長生きだってするし、だから、だから……!」
お母さんみたいに、菓子先輩の前から突然いなくなったりしない。菓子先輩が必要としてくれるなら、どこへだって飛んでいく。もうこわいことなんて何もないから。だからこれ以上、菓子先輩が苦しむ必要なんてないんだから――。
「こむぎちゃん……」
菓子先輩の大きくてきれいな瞳から、涙が一粒、すうっとこぼれた。
私がはじめて見た、菓子先輩の涙だった。
菓子先輩は私の肩におでこをのせて、すん、と鼻をすすった。
「ありがとう、私……。ずっと誰かにそう言ってもらいたかった気がする」
私はやっと、菓子先輩の止まり木になれたのかな。誰にも自分の内側を見せなかった菓子先輩が、安心して弱さを見せられる場所に、なれたのかな。
「今のままだって、ずっと、菓子先輩は私のいちばん大切な先輩です。だから……もう、無理に治そうとしなくてもいいです」
菓子先輩の背中を優しくさすって、ああ、これで恩返しができたという切ない感傷にひたっていたのに――。
「いいえっ」
菓子先輩はがばっと起き上がり、振り乱した髪のままキーマカレーと向き合った。獲物でも狩るような爛々とした目をしている。こわい。
「私、食べるわ」
菓子先輩はナンを大きくひきちぎり、キーマカレーをこんもりと載せた。
「そ、それはいくらなんでも多すぎるんじゃ」
「いただきます」
菓子先輩は大きな口をあけて、一口でほおばってしまった。私とおばあちゃんは呆然として顔を見合わせる。
「か、菓子ちゃん、だいじょうぶかい?」
「菓子先輩、お、お水」
涙目のまま、もっしゃもっしゃと咀嚼している菓子先輩は異様な迫力があった。見守るしかない私とおばあちゃんの前で、菓子先輩はごくん――とキーマカレーを飲みこんだ。
「ど、どうでしたか……?」
「菓子ちゃん、おいしかったかい?」
菓子先輩は目を伏せたまま黙り込んでおり、そう簡単にはいかないか――と思ったときだった。
菓子先輩の肩がぴくりと動いた。
「か、菓子先輩? どうしましたか……?」
菓子先輩の目が困惑に震えて、私とおばあちゃんを交互に見回している。
「からい……? ような気がする……?」
「えっ」
「あと、甘い……? かもしれない」
「菓子先輩、味覚が……!」
「菓子ちゃん、味が戻ったのかい?」
「わ、わからない。ひ、久しぶりすぎて、感覚が追い付かなくて。でも、おいしい……と思う」
菓子先輩と出会ってから、味に対するコメントを一度も聞いたことがないことに最近気付いた。それもそのはずで、だって菓子先輩は味が分からなかったんだから。
だから、「おいしい」という言葉を聞いたのも、これがはじめてのことで――。
「う、う、う」
「ちょ、ちょっとこむぎちゃん、そんなに泣かれたら、わ、わたしもっ」
歯を食いしばったまま涙と鼻水を流す私を見て、菓子先輩も大粒の涙をぼろぼろと流しはじめた。それを見ていたおばあちゃんも、菓子先輩を抱きしめながらおいおいと泣いている。
「よかった、よかったよぉっ……!」
開け放たれた襖の向こうに、仏壇が見える。一瞬、写真の中の菓子先輩のお母さんが微笑んだ気がして、目をこすった。光の反射が見せた、錯覚だったのだろうか? 私はそれだけじゃない気がする。だって、この部屋に流れる空気も、光も、音も、全部がこんなにやさしさにあふれているんだから――。
*
「ところで、この前のキーマカレーをどうやって改良したの?」
しばし泣いて落ち着いた私たちは、おばあちゃんの入れた緑茶を飲みながらデザートタイムに移行していた。大福を食べながら「甘い、おいしい」とはしゃいでいた菓子先輩が、無邪気に尋ねた。
「うっ」
「お父さんとおばあちゃんが、この前のものはもっとスパイシーだったって言ってたでしょ? こむぎちゃんはレシピ通りに作ったって言ってたし、どうやってお母さんの味にしたのかな~って」
「……菓子先輩って、かぼちゃが嫌いですよね」
「えっ」
菓子先輩の目が泳ぐ。
「最初に浅木先生に会ったときに、かぼちゃサラダサンドを避けていたし、文化祭で私がパンプキンパイを提案したときも、不自然に却下されたし」
「う、ううっ」
かぼちゃ、という名称を聞くたびに菓子先輩の顔がゆがむ。私がじっと見つめると、観念したように白状した。
「実はそうなの。小さいころかぼちゃから虫が出てくるところを見ちゃってから、食べられなくなって。味が分からなくなってからも、かぼちゃは見るのもいやだったから視界に入れないようにしてて……」
はっ、と気付いたように菓子先輩が私の目を凝視する。顔色が赤から青にさーっと変わるのが少しかわいそうに思えた。好き嫌いは良くないことだけど、せっかく言わないようにしていたのに。
「ま、まさか?」
「そのまさかです。菓子先輩のお母さんは、かぼちゃをペーストにしてキーマカレーに入れていたみたいです……」
菓子先輩は、う、と言いながら口をおさえた。
「そ、それは知らないままのほうが良かったかも……」
「これを機に、好き嫌いもなくしたらどうですか」
「こむぎちゃん、きびしい……」
「もう、菓子先輩に甘くする理由ないですから」
「ひどい、受験生なのに」
こんな軽口をたたけることが嬉しい。
これで菓子先輩は何の心配も不安もなく、受験と卒業、新しい日々に向かって行ける。もう、私がいなくても大丈夫。味見してくれる人も、心配してくれる後輩も必要ない。私がいないことにもだんだん慣れてしまうのだろう。菓子先輩の大学生活はきっと、希望に満ち溢れているのだから。




