95 ノア、再び
「最後の我儘だ。エスアール」
セラはそう口にすると、ぐっと俺に顔を近づけてきた。
頭の中では『いったいどんな我儘を言うつもりだろうか』と脳をフル稼働させていたのに、彼女の急激な接近によって思考回路が深刻なエラーを起こしてしまう。
鼻と鼻が触れ合い、数センチ前でセラの長いまつ毛が瞼と共に細かく揺れているのが見えた。討伐した魔物の粒子が彼女の背後で舞っており、なんとも幻想的な雰囲気を醸し出している。
それから、俺の唇に柔らかいモノが押し付けられていることに気付いた。
「――んぅ!?」
これはキスだ――混乱した頭がそう認識するのに、どれぐらいの時間を要しただろうか。キャパシティの小さい俺の脳には荷が重すぎる事態である。
時間の流れも定かではなく、数秒なのか数分なのかさえはっきりしない。
いつの間にか腰に回されていた彼女の手が、グッと俺の身体を引き寄せる。だが、セラの身体の感触を味わう余裕など俺にはなかった。
なにしろ、俺にはキスをした経験が皆無なのだから。ハグよりも、粘膜同士の接触のほうが緊急事態に決まっている。
自然と、自分の口元に意識が集中した。
温かく、心地の良い感触――自分以外の誰かの熱が、確かに俺の唇を刺激している。
その熱は、まるで雪が溶けるように消えていった。
「――また会おう」
そして彼女もまた、空気に溶けて消えてしまった。
最高の笑顔で、涙を頬に伝わせながら、消えてしまった。
雪原の中にポツンと一人。
枯れ木と同じように、俺はしばらくの間そのまま立ち尽くしていた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
彼女がこの世界からいなくなってから、数分後。俺はその場で仰向けに倒れ込んだ。雪のクッションを最大限に活用し、大の字になる。
俺が倒れたのは、ショックで気を失ったわけでもなければ、貧血を起こしたわけでもない。意識は残念なことにはっきりとしている。
セラが消えたという現実を、しっかりと認識できてしまっている。
「なんか、気力がごっそり奪われた感じだな……」
虚無感――といえばいいだろうか。
俺の中の大事な何かが失われてしまって、激しい喪失感が襲ってきている。
頬に痒みを感じたので触れてみると、僅かに濡れていた。
「……俺、泣いてたのか。全然気づかなかった」
瞼を下ろし、視界を右腕で覆った。
つい先程まで目の前にいたセラの姿が、ぼんやりと脳裏にうつる。
「綺麗だったな、セラ」
次に彼女に会った時、どんな顔をされるのだろうかと考えると憂鬱で仕方がない。俺のことは綺麗さっぱり忘れてしまっているのだろうし、きっと素っ気ない態度をとられてしまうのだろう。
「うっ……うぅっ」
嗚咽が漏れる。でも、もはや周囲を気にする必要はない。この世界には誰もいないのだから、好きなだけ泣いても問題は無い。どれだけ泣いても、笑うやつはいない。
そう、思っていたのだが――、
「存在は――できないのに――形跡が無い――? ――に近しい人物だけ? 彼の影響か、いや、――にそんな力はない――何か――の――」
ぶつぶつぶつぶつぶつ。
左耳から聞いた覚えのあるソプラノボイスが聞こえてきた。
人がせっかく感傷にひたっていたというのに――クソガキめ。
だがまぁ……俺には悲しむよりもやらなきゃいけないことがあるよな。
「……いつからそこにいた。それに、何をぶつぶつ言ってんだよ」
服の袖で涙を拭い、顔を横に倒した。するとそこには、相変わらず半身が変色してしまっているノアの姿があった。創造神のくせに、相変わらず小学生みたいなナリをしている。
彼女は「ごめんごめん」と手を合わせて片目を瞑る。
「こっちの話だから、気にしなくていいよ。この場にきたのはついさっきさ」
「フワッとした回答だな」
「だって本当だもん」
神を名乗るならもっと神らしく振舞ってくれ。『だもん』じゃねぇよ。
嘆息しつつ上半身を起こし、その場であぐらをかく。それから睨むような半目をノアに向けた。
「それで、俺はこれからどうすればいい?」
「今から詳しく話すよ。でもその前に――」
ノアはそう言ってから、表情を変えることなく指をパチンと鳴らす。
すると、一瞬にして景色が切り替わった。同時に雪の柔らかさが消え、代わりに硬い地面の感触が伝わってくる。
「――こういうの、やるならやるって言ってくれよ。ビックリするだろ」
紫色の空。
灰色の大地。
ただそれだけが延々と続いている風景だ。
「でも、君がSランクダンジョンを踏破したからさ。ベノムの封印が弱まっちゃって、正直あの世界を保つだけでもかなりきついんだ」
「『でも』じゃねぇだろ。人に迷惑をかけたならまず『ごめんなさい』だ」
「一応僕神様なんだけどな……君、もしかして本当に僕のこと子供だと思ってないよね?」
「子供だろうが大人だろうが関係ないだろ」
「それ以前に神様なんだけど……」
などと、とてつもなく無駄なやりとりを繰り返す。
最後にはきちんと彼女の口から「ごめんなさい」を引き出すことに成功したから、まぁ良しとしようか。
「話が脱線してるぞ。で、ここはいったいなんだ? ダンジョンの中なのか?」
360度周囲を見渡してみるが、どの方向をみても景色は同じ。
空には星が一つもないのに、明るさを保っているのは不気味な感じがするな。紫色の空ってだけで十分に気持ち悪いが。
「脱線させたのは君じゃないか。はぁ……ここはダンジョンの中じゃないよ。穴の空いた封印なんてあるだけ無駄だし、この世界に君しかいなくなった以上、ダンジョンなんて施設は必要ないからね。山も川も何もかも、今の君には必要ないだろう?」
「……何が無駄で何が必要かなんて興味はないが、ダンジョンが無かったらどうやってレベルを上げろっていうんだ?」
さすがに筋トレしてベノムを倒せなんて言われたら諦めるぞ。
「それに関しては問題ないよ。……なんと言えばわかりやすいかな――ベノムは今も成長し続けようとしているんだけど、それは僕が食い止めている。そのせき止めた邪素を僕が魔物の姿に変換し、君が討伐することで魔素に変換される。そしてその魔素が君を強くするためのエネルギー源って感じかな」
……ふむ。
仕組みはわからないが、どうやら俺のレベル上げには魔素とやらが必要らしい。
「お前が直接魔素とやらには変換できないのか?」
「無理だね。魔素に変換することもできないし、僕は変換した魔物に対して手出しもできない」
「色々制約みたいなものがあるんだな」
「そういうことさ。話が早くて助かるよ」
ほっとしたような表情で、ノアが頷く。
彼女の言葉から考えると、ダンジョンが無くても魔物は用意できるらしい。
邪素はベノムから漏れだした余剰分だけしか変換できないようだから、どれだけ魔物を倒そうがベノム自身を弱らせることはできないのだろう。
スライムレベルに弱くなったベノムと戦えたらよかったのに。……それはそれで少しつまらない気もするが。
さらに詳しく聞くと、魔物を倒して獲得した魔素を元にして、装備やポーションなども作成が可能らしい。
ダンジョンのドロップ品は全て、ベノムから漏れ出した邪素が原料だったようだ。なんか敵の力を使って強くなってるってのは、複雑だな。
その他にも色々説明は受けたが、結局俺のやるべきことは変わらないみたいだ。
魔物を倒し、レベルを上げ、ベノムに挑む。
そして世界を在るべき姿に戻して、仲間と再会を果たすのだ。どれだけ時間がかかっても、俺自身が報われなくとも構わない。
――闘争の日々を始めるとしよう。
「まずはプレイヤーボーナスを、全て獲得していこうか」
そう呟くと、無意識に俺の口角はつり上がった。




