83 壊れゆく世界
「少し、一人にさせてくれ」
会話が噛み合わず、悲しそうに眉を八の字にしているセラにそう告げてから、俺は自室に引きこもった。扉のしまるカチャリという音が、今の俺たちの心情を表すかのように静かに鳴った。
ベッドも部屋の明かりも、壁も、床も、変化はない。
その『変わっていない』ということに、俺は人知れず安堵の息を漏らした。脱力した状態でベッドに倒れこみ、枕に頬を付けて顔だけ横に向ける。
空腹も眠気も悲しみもない。この世界はもう、闇に覆われているというのに。
「夢なら覚めてくれ……」
口に出した言葉を、ハッキリとした思考が否定する。これは夢じゃないぞ――と。
部屋に入る前、リビングで知り合いの名前を一人一人セラに言って、その人物の名前を知っているか彼女に確認した。結果――この世界から消えたのは、いま確認できる範囲ではフェノンとシリーのみである。
迅雷の軌跡も、レグルスさんも、ライレスさんも、マーガス公爵も、全て彼女は知っていた。
だが、
「国が消えたのに、誰も気づいてないとはな……」
彼女たち以外にも消えたものがあった。
それはリンデール王国を除く、5つの国。
いつの間にかこの世界には、リンデール王国しか存在していないことになっていた。それも、土地ごと消えて海になってしまっているというのだから、実際に消えた人数は数えきれないレベルなのだろう。
この事実も、俺がセラに「フェノンは他国との婚約が白紙になって――」と話をした時に、彼女によって他に国が無いということを告げられて知った情報だ。
皆が自然に振舞っているせいで、何が異常で、何が普通なのか。それが分かりづらくなってしまっている。
ただ、消えた。
不治の病で死んだわけでもなければ、どこかの暗殺者に殺されたわけでもなく、秘密組織に誘拐されたわけでもなければ、神隠しのように行方不明になったわけでもない。
消えたのだ。存在まるごと、消えたのだ。
もう二度とフェノンたちに会えないかもしれないというのに、感情が上手く表せず、泣くこともできない。きっと、俺の心がまだこの不可思議な現象を受け止めきれていないのだろう。
茫然自失とは、まさに今の俺みたいな状況を言うのではないだろうか。
深く息を吐きつつ、あの謎の耳鳴りが起きた時の状況を思い返す。
そして一つ、とても大事なことを思い出した。
子供の声だ。
「――あのクソガキ……」
本当に『ガキ』なのかどうかは知らないが、声の主は言っていた。
『ベノムを倒してくれ。それですべては、元に戻る』――と。
あいつはきっとこの世界のことを知っている。なにせ、誰も知らないはずのベノムの名前を口にしたのだから、明らかに普通じゃない。
フェノンが消えることも、シリーが消えることも、国が消えることも、このクソガキは知っていたのだ。だから『元に戻る』なんて言葉を使ったのだと思う。
だとすれば。
「ベノムを倒せってことだろうな」
あのクソガキがフェノンたちを消し、俺を脅迫しているのか。それとも別の何者かがこの世界を壊し、あの子供が俺に助言を与えているのか。
……わからん。
「どっちにしたって、このままじゃマズいだろうな。フェノンたちを早く元に戻してあげたいのはもちろんだが、セラたちも頭がおかしくなってしまうかもしれん」
自分に言い聞かせるように、ため息混じりに呟く。
どうにも、彼女たち(セラにしか確認していないが)は記憶が無理やり改ざんされてしまったためか、記憶から抜け落ちている部分や、辻褄の合わない歴史が脳内に残ってしまっているようだ。
例えば、フェノンとセラにもらったユカリムスビの花が彫られた、木製のネックレス。
セラに見せてみると、彼女は「私が全て彫った」と言いつつも、フェノンが掘った部分に視線を落としながら首を傾げていた。
記憶になかったり、自分の彫り方とは違う部分があったのかもしれない。それを追及すればセラが混乱してしまいそうだったのでさっさと回収したが、おかげで『俺にだけ記憶が植え付けられた』という可能性は無くなった。
フェノンやシリーは俺の妄想の世界で生きていたのではなく、間違いなくこの世界に存在したのだ。それがわかっただけでも十分。
ならば俺は、正しい世界を取り戻すべく動くべきなのだろう。
その方法がたとえ、ベノムを倒すというバカみたいな難易度のものだとしても――だ。俺は一度、それを成し遂げているのだから、不可能というわけでもない。
「Aランクダンジョンを50回踏破して、三次職に転職してからSランクダンジョンだな」
可能な限りの最短で。フェノンたちをこの世界に復帰させよう。あの笑顔を、取り戻そう。
失っていることに気付いていないこの世界の住人には、今の俺の気持ちを理解するのは難しいだろう。もちろん、それはセラも同じだ。
だから俺は一人で成し遂げなければならない。なにより、危険すぎる戦いに大事な人は連れていけない。連れていきたくない。
もともと俺はソロプレイヤーだし、孤独には慣れっこだからな。何も問題はない。
部屋の明かりを消したところで、セラが「腹は減っていないか?」と震えたような声で扉越しに尋ねてきた。勘違いでなければ、彼女は俺のことを心配してくれているのだと思う。
しかし、腹も減っていなければ誰かと食事をする気にもなれなかったので、「今日はもう寝るわ」と返事をして、俺は布団に潜り込んだ。
「……わるいな」
布団の中で膝を抱えてうずくまり、気を使ってくれたセラに詫びる。
迅雷の軌跡がAランクダンジョンを踏破したことで、この謎の現象は引き起こされたのだと思う。だからSランクダンジョンを踏破するまでは、これ以上悪化するようなことはないはずだ。
そんな甘い考えは、翌朝、いともたやすく崩れ去った。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「三次職に転職するために、しばらくはAランクダンジョンに籠るよ。セラも来るか?」
居住者が半分になってしまい、少し寂しく思える朝の食卓。この寂しさを感じているのは、きっと俺だけなのだろうけど。
俺の問いかけに、セラは申し訳なさそうな顔をしながら「実はな」と話し始める。
「昨日の夜に王都からギルドの人間が訪ねてきたんだ。王都のギルドマスターがエスアールに詳しい話を聞きたいと言っていたらしい。きっと、今の状況について一番詳しいのは貴方だということは彼もわかっているのだろう」
昨日の夜ということは――俺が寝た後に誰かが訪ねてきたのだろうか? よく見ると、セラの顔には少し疲労が滲んでいるようにも見える。もしかすると、夜遅くまで俺の代わりに対応してくれていたのかもしれないな。
「レグルスさんか。こっちに来てくれたらいいのに」
あのハゲめ――と心の中で悪態を吐きつつ、不満の気持ちを隠すことなく口にする。
いつもなら、セラが『そんな顔をするな』と苦笑しながら言う流れだ。だけど、今日は違った。
彼女はとても悲しそうな顔で、口を震わせながら言葉を紡ぐ。
「……済まない。その『レグルス』という名は、初めて聞くのだが……」
彼女の言葉を聞いた時の俺の気持ちを、いったいどんな言葉を使えば言い表せるだろう。
レグルスさんの名は、昨晩セラに確認していたはずだ。だというのに、彼女はその名を知らないという。
「…………はは、はははははっ」
もはや笑うしかなかった。
壊れてしまった。この世界は、完全に壊れてしまったのだ。
つまりAランクダンジョン踏破によって引き起こされた崩壊は、今もなお続いているということだ。俺の目の前にいるセラさえも、今この瞬間に消えてもおかしくない――そんな状況であるということだ。それを理解してしまった。
テーブルに肘を突き、頭を抱え込んだ。頭蓋がきしみそうなほど、力強く頭を掴む。
セラが何か声を掛けてきているが、何を言っているのか認識できない。頭の中で様々な情報と感情が錯綜している。
わからない嫌だどうしてこんなことになったフェノンたちを返せ俺の日常はどこに消えた――。
その日、俺は名も知らぬギルドマスターに会うこともなければ、Aランクダンジョンにも向かわず、自室に引きこもった。
そして眠気のないまま布団に潜って、ただただ、夢から覚めることを願うのだった。




